隊長
彼女の気配が向こうから近付いていることに、冬獅郎は随分前から気付いていた。ぱたぱたと大きくなる足音は、自分が歩く廊下の曲がり角まで迫っている。
「あっ、シロちゃ」
「日番谷隊長だ」
姿を見せるなり、目を見開いて呼びかけてきた桃の言葉を遮る冬獅郎。彼女は自分が近くにいることに気付いていなかったらしい。呼び方が昔に戻るほど驚いたようだ。
暫く口を開けたままこちらを見ていた桃は、何を思いついたのかぱっと表情を輝かせた。
「うんっ、そうだよね!隊長だよね!すみませんでした、日番谷隊長!」
「っ・・・!?」
深々と頭を下げる桃に、仰け反る勢いで驚く冬獅郎。今まで何度言っても隊長と呼ぶことを拒んでいた彼女が、こうもあっさりその態度を翻すとは。
「えっと、日番谷隊長は、お腹空いてませんか?よかったらこれから一緒にご飯食べに行きませんか?」
「い、いや、飯はもう食った・・・」
彼の鋭敏な警戒心が警鐘を鳴らす。このままこの場に止まるのはよくない気がした。しかし、このまま桃を置き去りにするのは気が引ける。彼女は自分の要望を叶えようとしているだけなのに。
「そうですか。じゃあ疲れていませんか?肩とか腰とか揉みましょうか?」
「なっ・・・!?」
手をわきわきと動かしながら言う桃に、冬獅郎は思わず動揺した声を上げる。
「私の肩叩き、おばあちゃんには結構評判いいんです。あ、もちろん日番谷隊長はご存知ですよね」
「し、知ってる・・・が・・・」
「じゃあ早速」
「っま!待て!何なんだ!?」
手を動かしながら近づいてくる桃から、冬獅郎は後ずさりして叫んだ。自室ならともかく、こんな公の場で桃のマッサージを受ける訳にはいかない。
「えっと、何なんだとは、何に対するご質問ですか?日番谷隊長」
桃がきょとんとした顔で尋ねる。そのいつも通りの表情に、少しだけ安堵する冬獅郎。しかしまだ油断はできない。
「今のお前の態度に対してだ。俺を隊長と呼ぶなんて絶対におかしい」
「ええっ、そんなこと言われても困るよ。隊長と呼べって、日番谷くんが言ったんじゃない」
眉尻を下げて言う桃に、冬獅郎はやっと警戒を解いた。
「・・・いつものお前だったら、そう言ったって従わないだろ」
「そ、そうだけど・・・」
「何か企んでるのか?」
「違うよ!」
「じゃあ何だ」
「・・・・・そ、その、この前、日番谷くんに迷惑かけちゃったから、何かお詫びをしようと思って」
「それでどうして隊長呼びになるんだよ」
「希望を聞こうと思ったんだけど、その前に『隊長と呼べ』って言われたから・・・」
「・・・・・」
「えと、全然お詫びになってなかったみたいだね。ごめんね」
「・・・詫びはいらねえ」
「え、でもそれじゃあ申し訳ないよ。他に何かしてほしいことはない?私にできることなら、何でもするから」
「んなっ・・・!?」
「んな?」
首を傾げたまま、冬獅郎の返事を待つ桃。冬獅郎は俯いて小さく肩を震わせている。
「・・・・・っ何もねえよ!!」
たっぷり時間をかけた後、冬獅郎は吐き捨てるように叫んで走り出した。
「日番谷くんっ・・・」
桃の声が背中で小さく聞こえたが、立ち止まることはできなかった。
翌日、乱菊が興奮気味に隊舎へやってきた。その生き生きとした表情を見て、冬獅郎はとてつもなく嫌な予感を覚える。
「隊長!昨日、雛森にいやらしいマッサージを強要した挙句、俺の言うことは全て従えと命じてたって本当ですか?」
「本当な訳ねえだろ!!」
やはりあの時すぐに逃げ出すべきだったと、彼は大いに後悔したのだった。