水糸
冬獅郎が目を覚ますと、見慣れた自室の天井がぼんやりと見えた。布団に寝かされている状態なのだが、家に戻った記憶すらない。
そしてすぐ傍には、桃がいる。
彼女は座ったまま目を閉じ、うつらうつらと頭を上下させていた。口がだらしなく半開きになっている。随分と涎が似合いそうな顔だ。
口を開こうとしたが、思うように動かせない。口も喉もからからに乾いている。頭は重いし、身体の節々もぎしぎしと痛んだ。
「・・・むぅ・・・んぅわっ!あ、起きたんだね」
謎の奇声をあげて目覚めた桃が、嬉しそうな顔で覗き込んでくる。それはこちらの台詞だとか、なんでお前がここにいるんだとか、色々言いたいことはあったが、やはり言葉はうまく出てこない。
「まだ熱があるみたい。お水持ってくるね」
桃の手が冬獅郎の首に触れる。ひやりとしたそれが心地よい。だがそれはすぐに離れて、少し物足りなさを感じさせる。
冬獅郎の額にあった温い手拭いを持って立ち上がった桃は、欠伸を噛み殺しながら部屋を出ていった。
さて、これは一体どうしたことだ?
冬獅郎はぼんやりした頭で考える。何故自分と桃はこうしているのか。今日のことがよく思い出せない。いつものように仕事へ行・・・ったのか?そもそも今日は仕事だったのか?
記憶が雲か霧のようだ。ふわふわとつかみどころがない。もしやこれは夢なのだろうか。だから桃が自分の家にいるのだろうか。
「お水持ってきたよ。起きられそう?」
湯呑と水桶を持って戻ってきた桃が尋ねる。冬獅郎は答えられなかった。そもそも口が思うように動かせないのだ。重いまぶたを何とか持ち上げ、桃の顔を見やった。彼女は怒りも困りもせず、柔らかな笑みで頷く。
「そっか。えーと、寝ながら湯呑は無理だよね」
腕を組み、急須だの醤油差しだのと呟きだす桃。変なものを口に突っ込まれるのではと不安になる冬獅郎。火吹き棒はやめろ。糸なんてどう使う気だ。
「あっ、指ならちょっとずつ飲めるね」
人差し指をぴんと立てて言う桃に、冬獅郎の脳も身体も硬直した。なんっ・・・だと・・・?
桃の濡れた指先に、己の唇で、舌で触れる。その感触が脳内に―――
「はい、どうぞっ」
「ぅぐっむ・・・!?」
桃のびっしょびしょになった指が容赦ないスピードで3本も口の中に突っ込んできて、冬獅郎はたまらずむせた。盛大にむせた。動かないと思っていた身体は意外と動いた。這いつくばってげほげほと咳込めるくらいには動けた。
「あわわっ!だ、大丈夫!?」
大丈夫じゃねーよ!と言いたかったが、むせるのに忙しくてそれどころではなかった。桃が慌てて背中を擦ってくる。
「ごめんね。やっぱり最初は糸から始めた方がよかったね」
だから糸ってなんだよ!?と疑問に思う冬獅郎だったが、それを問う気力はない。むせ終えてどんよりとした視線を桃に向けるだけだ。
「落ち着いた?じゃあ横になってて、糸持ってくるから」
立ち上がろうとする桃の肩を、残された僅かな気力を振り絞ってなんとかつかむことに冬獅郎は成功した。このまま桃を行かせたら、次は何をされるかわかったもんじゃない。
「どうしたの?」
「っ・・・糸、で・・・どうやって・・・飲ませ、るんだよ・・・?」
息も絶え絶えに問うと、桃はきょとんとした顔で答えた。
「えっと、糸の端っこをシロちゃんが咥えて、反対側から水を伝わせれば、寝てても飲めるでしょ?」
その奇妙な光景を想像してどっと疲れる冬獅郎。しかしここで倒れたら糸の刑に処されてしまう。
「・・・湯呑で、いい」
「これでいいの?さっき私の指入れちゃったけど」
「・・・・・」
「気になるなら替えてくるよ?」
ここで替えろと言うべきか、別にいいと言うべきか、冬獅郎は迷った。
桃の指が入った水なんて、別に気にするほどのことではないはずだ。知らない仲じゃあるまいし。家族だし。だから意識する方がおかしい。何でもないのだから、このまま飲む方が正しい、のだと思う。しかしこの水を飲んだら逆に、桃の指が入ったから、この水を飲みたがっているのだと思われはしないだろうか。自分はそんな変態ではない。断じてない。じゃあやっぱり替えてもらうべきか?しかしそうすると今度は、桃の指が入ったからと意識していると思われるのではないだろうか。それはちょっと―――
「ひ、日番谷くん!?」
悶々と考え込んでいた冬獅郎が、ぺしゃりと倒れ伏した。桃が慌てて様子を伺うが、気を失っているだけのようだ。起き上がってまた熱があがってしまったのかもしれない。やはり糸を使って水を飲ませた方がいいと、一人決意する桃なのだった。次に目が覚めた時、天から水の糸が降りてくることを、冬獅郎はまだ知らない。