呼夢
・・・・・・・・
遠くから声が聞こえた、ような気がした。
・・・エ・・・・
今度の声は先ほどよりもほんの少し大きくなった。その聞き慣れた声に、エイリークは安堵する。
・・・エ・・・ーク・・・
その声は自分を呼んでいる、と彼女は思った。返事をしたい。傍に行きたい。だが何故か声が出せない。口も身体も、鉛を纏ったかのように重く、動かせなかった。
□■□
「・・・・・」
髪をわしゃわしゃと撫でられ、エイリークはどうにか瞼を開ける。目の焦点が合うまで結構な時間が必要だった。日はもう高く、寝室の窓からは白い光が溢れんばかりに注いでいる。あまりにも心地よい陽気に、つい彼女が普段着のままベッドで昼寝をしてしまったとしても無理はない。
揺らいでいた視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。そしてようやく彼女は、エフラムが自分の顔を覗き込んでいることを理解した。何故兄が自分の部屋にいるのかと言う疑問もあったが、その表情が随分と嬉しそうに見えて、エイリークは胸の奥がほんのり温かくなる。
「エイリーク」
「・・・・・あに・・・うえ・・・?」
名を呼ばれ、よく回らない口でのろのろと返事をする。まだきちんと意識が覚醒していないと、自分で理解することができた。
「無理やり起こして悪かった」
彼女の髪を整えるようにゆっくりと撫で、エフラムが言う。まだ緩んでいる口元は、あまり申し訳なさそうに見えない。申し訳なさそうな顔をしようとしても、どうしても笑ってしまう。エイリークには兄の表情がそんな風に見えた。
自分はそこまでおかしな格好をしているのだろうか。髪はとても長いので、それほど寝癖は酷くない方なのだが。または顔にシーツの跡でもついているのか。何か変な寝言を発したと言う可能性もある。そこまで考えて、やっとエイリークは身体に力が入るようになってきた。慌てて身を起こすと、居住まいを正してベッドの上に座り、兄と対峙する。
「いえ、それより兄上、どうしてここに?」
「ゼトがお前を探していたから、呼びに来た」
「そうだったのですか。兄上にもゼトにも迷惑をかけてしまってすみません」
「いや、俺は暇だったから気にするな。お陰でいいものも見られた」
「いいもの・・・とは?」
尋ねると、エフラムはますます嬉しそうに頬を緩める。ここまで嬉しそうな兄を見るのは久し振りだ。
「見られたと言うか、聞けただな。お前の寝言だ」
予想は正しかったようだ。羞恥に頬を赤くして、エイリークは俯く。
「そ、それは・・・はしたないところを見せて、あ、聞かせてしまって、すみません」
「いや、勝手にお前の部屋へ踏み込んできた俺に謝る必要は全くない」
「兄上にその自覚があって本当によかったです。できれば今後はやめて頂けると嬉しいです」
「できる限り善処する」
真顔で言うエフラムだったが、彼の善処はあまりなされた試しがない。
「・・・せめて、他の方の寝室に無断で入ることだけはやめて下さい」
「当たり前だ。後入るとしたら、親父の部屋くらいだな」
「父上なら・・・いい、の、でしょうか?」
たとえ王子と言えども、国王の部屋に押し入るのはどうかと思いつつ、首を捻るエイリーク。兄が父を謀殺などするはずはないだろうが。
「俺もお前に聞きたいことがある」
「何ですか?」
エフラムが目を細めた。優しい笑みに、エイリークは嬉しくなる。
「どんな夢を見ていた?」
ぽかんとした顔のまま、エイリークは身体だけではなく思考すら暫し停止していた。確かに寝言を言っていたのだから、何かしらの夢は見ていたのだろう。しかし自分が夢を見ていたと言う記憶はない。夢を忘れることはよくあることだ。内容は忘れても、夢を見ていたと言う記憶が残ることはあるが、今回はそれすらも残っていなかった。
にこにこと嬉しそうな顔をしている兄に、できることならばその夢の内容を伝えたかった。しかし、忘れてしまった自分にはそれができない。
「・・・すみません。忘れてしまいました」
肩を落として頭を下げるエイリーク。正直に謝ったが、兄はそんな自分がまた本心を誤魔化していると思っただろうか。嘘を見抜こうと、様子を伺うのだろうか。
そう思うが早いか、ぽんと彼女の頭に手が触れる。
「そうか。それなら仕方ない」
エフラムの声は少し残念そうに聞こえた。エイリークが嘘を吐いているか確認する時は、もっと時間をかけて顔を見つめられるので、今回はそんなつもりはないようだ。
「・・・私は夢で何と言っていたのですか?」
恐る恐る兄を見上げ、尋ねるエイリーク。何故彼は夢の内容を知りたいと思ったのだろうか。
エフラムは一度目を瞬かせると、またふんわりと笑った。その時のことを思い出しているのだろうか。兄が喜んでいると、自分も嬉しい。
「俺のことを呼んでいた」
エイリークもぱちりと目を瞬かせる。不思議そうな顔をする彼女を、エフラムは優しい眼差しのまま見つめていた。
「お前が随分と嬉しそうな顔で、俺のことを呼んだから、どんな夢を見ていたのか知りたくなった」
「・・・そう、だったのですか。すみません。思い出せなくて」
「気にするな。夢を忘れるなんてよくあることだ。何をしたのかわからないのは残念だが、俺がお前を喜ばせることができてよかった」
「・・・兄上」
兄も、同じことを思っていた。自分が喜んでいることが嬉しいと言ってくれた。そのことがますますエイリークを喜ばせる。
「ありがとうございます。私もとても嬉しいです」
「そうか」
にっこりと笑うエイリークの頭を、エフラムはもう一度ぽんと撫でた。