痛理

ごちり、と固そうな音が聞こえた。それは恐らく、自分のひざの辺りから発せられたものだろう。
石畳についた両手が、ひざより遅れてじわりと痛み出す。ぶつけていないはずの目頭までもがぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
これは涙が出るから痛いのだ、と幼いエイリークは知っていた。この前さみしくて泣いてしまった時も、どこもぶつけていないのに瞳は痛かった。あの後は彼女の双子の兄が来てくれたから、涙はすぐに止まったけれど。

彼女を笑顔にしてくれたその彼は、顔面から石畳に突っ伏して動かない。

エフラムがエイリークを呼びに来たのは、つい先ほどのことである。彼女の好きそうな花を見つけたのだと、小さな手を握って振り回すほど興奮していた。エイリークも喜びに幼子らしい歓声を上げ、二人で手を繋ぎ走り出した直後のことである。

まずエフラムが石畳の隙間につま先をひっかけた。勢いよく倒れながら、繋いでいたエイリークの手を引っ張ってしまったのは仕方のないことだろう。途中で二人の手は離れたが、エイリークが崩れた体勢を立て直すことはできず、二人で地べたに這いつくばることとなったのだ。

エイリークが潤んだ瞳でひざを見やると、赤く擦り剝けていた。両手も同じく。赤くなったそれを見たからだろうか、痛みはますます強くなったように感じた。

「っう、ふぇ・・・」

堪え切れず、小さな声を漏らす。泣いてもおかしくない。いくら大国の姫とは言え、彼女はまだ小さな少女なのだから。
ぎゅっと瞑った瞳から、ぽろりと涙が零れた直後。
がばっと結構な勢いで、エフラムが身を起こした。そして振り返るなり叫ぶ。

「いくぞ!」

エイリークの手をつかんで立ち上がるエフラム。彼女は目を白黒させながらそれに続く。手もひざも痛いが、兄の勢いに驚いたからか先ほどより平気だった。
が、あることに気付いて思わず目を見開く。

「あ!あにうえっ、ひ、ひざがっ!」
「うん?どうした?あ、赤くなってるな。痛いか?」

しゃがんでエイリークのひざを見やるエフラム。彼女は大きく首を横に振る。違うのだ。確かに痛いけれど、それを伝えたい訳ではない。
「わたしじゃなくて、あにうえのひざです・・・!!」
エフラムのひざからは、赤い血がそれなりの量垂れていた。先ほどの音は、エフラムのひざからした音だったのかもしれない。これで痛くないはずがない。どうして兄は、平気そうにしていられるのだろう。自分は泣いてしまったのに。
「い、痛くない・・・の、ですか?」
「もちろん痛いぞ!」
「ええ!?い、痛いのに、どうしてあにうえはわらってるのですか?」
尋ねると、エフラムはきょとんとしてからもう一度にっこり笑った。先ほど彼女の元に駆け寄ってきた時と同じ笑顔で。

「さっきもいっただろ?おまえがすきそうな花をみつけたんだ。だから、うれしいんだ」

エイリークはぽかんとした顔で兄を見やる。自分の好きな花を見つけたから、嬉しいのだそうだ。ひざが痛くても、嬉しくて笑顔になるのだそうだ。
「エイリークはうれしくないのか?さっきはわらってたのに、いまはなきそう・・・っていうか、ないてたのか」
エフラムの手が、エイリークの頬を乱暴に撫でる。兄の笑顔がなりを潜めてしまって、今度は別の理由で泣きそうになった。
「う、うれしい、です!でも、あにうえのひざが、痛そうで、ちょっとだけ・・・かなしいです」
「うれしいけどかなしいのか?変だな」
「あにうえは、痛いのにうれしいなんて、変です」
「うーん、そうか?でも、痛いよりうれしいほうがいいだろ?」
「はい」
「かなしいよりうれしいほうがいいだろ?」
「はい」
「じゃあ、おれのひざは気にするな!」
「気になります!」
「それじゃうれしくなれないだろ」
「うれしくなれても、あにうえが痛いのはいやです」
「・・・おれが痛いと、おまえがいやなのか?」
不思議そうに聞き返すエフラム。エイリークは何度も首を縦に振る。エフラムは暫し考え込むと、彼女に笑って言った。
「じゃあ、痛くない」
「え?」
「もう痛くないぞ」
「・・・ほんとに?」
「ああ、ほんとだ」
これが証拠だとばかりに、ぴょこんと飛び上がってみせる。先ほどの自分は少し擦りむいただけでも痛くて動けなかったのだから、兄は本当に痛くないのかもしれない。
「・・・よかった」
ほっとして呟くと、エフラムが少し驚いたような顔をした。何が意外だったのだろう。
「エイリークは・・・痛くないのか?」
「何がですか?」
「ひざ」
指を向けられたのは、彼女の赤く擦りむいたひざ。兄のひざを見た衝撃で、もうすっかり忘れていた。痛みもない。
「はい、痛くないです」
「ほんとか?」
「ほんとです」
「おれはエイリークが痛がってても・・・」
言いかけて、やめる。エイリークは兄の言葉を待った。彼は何か考えているようだったから。
「・・・いや、いやだな。うん、いやだ」
「あにうえ?」
「おまえが痛いのは、おれもいやだ」
「え?」
「エイリークの言うとおりだ。痛くないほうが、うれしい」
兄の中で、何かが変わったらしい。何がどう変わったのかはよくわからないが。
「・・・はい、誰も痛くないほうがうれしいです」
「じゃあ、ひざを治してもらいにいくか」
花とは逆の方へ歩き出すエフラム。手を引かれて、エイリークも続く。
「あ、あにうえは、それでいいのですか?」
「うん。花はあとでもみられるだろ」
兄が笑顔で言ったので、エイリークも嬉しくなって何度も頷いた。