日常

丁度片手に収まる大きさのリンゴを宙に放り投げ、受ける。そんなことを己のねぐらがある森の途中から繰り返し、殷雷刀は歩いていた。

昨夜は少し冷えたので『あいつ』はまた熱でも出していることだろう。

そんなことを思いついてから歩き続けること十数分後、森から出てすぐのところにあるこじんまりとした赤い屋根の家へ辿り着く。
そして殷雷は扉に向かわず、裏手に回ってノックもなしに窓を開いた。

「やはり寝込んでやがったか。相変わらずだな和穂よ」

にやりと口の端を吊り上げて言う殷雷の視界には、寝台に横になったまま物言いたげに頬を膨らませる和穂がいた。
殷雷はそのまま窓から家の中に入り、寝台へ歩み寄る。そして手にしていたリンゴを和穂の額に乗っている手拭いの上に乗せた。和穂の頬は、そのリンゴに負けないほど赤い。リンゴのせいで頭が重いのか、それとも熱で朦朧としているためか、和穂の視線はふらりと揺らぎながら殷雷を見上げていた。
「こいつでも食ってとっとと回復しやがれ」
「・・・うん。ありがとう殷雷」
それは随分とぶっきらぼうな言い方だったのだが、途端に嬉しそうに頬を緩める和穂に見つめられ、殷雷は鼻の頭をかきながら視線を逸らした。しかしすぐに、いつも和穂をからかう時の笑みで少女を見下ろす。
「まさかとは思うが、昨日は寝台から転げ落ちて寝ていたのではあるまいな?」
「違うよ。ちゃんとあったかくして寝たもの」
重そうに瞬きする仕草と比べて、和穂の口調はしっかりとしている。殷雷は意地悪げな表情を深めると、寝台の傍にある椅子に腰かけた。
「ほう。その割には毎回体調を崩しているようではないか。身体が弱いというのもここまでくると逆に感心するぞ」
刹那、それまでむっとして唇を尖らせていた和穂が、眉根を寄せて視線を揺らがせた。途端に殷雷もにやけた顔を一変させる。和穂をからかい過ぎて泣かせてしまうのは、彼の日課と言ってもいいほどであった。ついでに、殷雷がそれについて影でこっそり落ち込むのも毎度のことである。
「ま、なんだ。その、つまりだな。病弱と言うのも一種の特技と言うか」
もちろんこんな言い訳で和穂の機嫌が直るわけもなかった。殷雷の台詞の途中から布団の中に潜り込んでしまった和穂は、時折大きく身体を震わせているようだ。額から落ちたリンゴは、枕の端に転がっていた。
更にうろたえる殷雷。とても武器とは思えない情けなさである。

なおも暫く何やら言い訳していた殷雷だったが、全く布団から出てくる気配のない和穂を不審に思い始めた。

「和穂。どうした?」
声をかけても何の反応もない。ただ、布団が震えるように動くだけである。
何かあったのかと、殷雷が布団を剥ぎ取る決意を固めたその時。

突如彼の背後から現れた程穫が、声もかけずに和穂の布団を引きずり落とした。

そして強引に和穂の上半身を抱き上げると、その背中を手のひらで軽めに叩く。
咳き込んでいた和穂は、兄に促されて更に大きく吐き出すように咳をした。咳が止まらなくて、布団から出てこられなかったらしい。
己が泣かせたせいではなかったことに安堵し、和穂が咳き込んでいることに気付けなかったことに悔やみ、殷雷は思い切り複雑な顔になった。

完全に出遅れてしまった殷雷がなす術もなくその光景を眺めること数分後、やっと和穂が落ち着いた。程穫が随分と慎重に和穂を寝かせ、布団と手拭いを戻す。そして、溢れんばかりの殺気を漲らせた視線を殷雷へ向けた。

「今すぐここから遠く離れた場所で朽ち果てろ」

「せめて『出て行け』とか言いやがれ」
それでも十分酷いと思うのだが、それを殷雷に突っ込む余裕がある者はいなかった。和穂は咳で力尽きたのか、寝台でか細く息継ぎをしている。そんな和穂を一瞥し、更に鋭い視線を殷雷へ突き刺す程穫。
「貴様と話したせいで和穂の咳が止まらなくなったんだろうが。情に脆い武器ならそれらしく、今すぐ泣きながら這いつくばって詫びの一つでもしたらどうだ」
「っぐ・・・そ、そこまで脆くないわ!」
言い返しつつも、自分が話しかけたせいで和穂の咳が止まらなくなったのは確かなので、いまいち覇気がない殷雷だった。

ちりちりと痛む喉は、いつまた咳が止まらなくなるか和穂自身にもわからない。しかし、このまま男二人を放っておくと殴り合いを始めかねない様子なので、できるだけのどに負担をかけぬよう小さく声を出す。

「・・・二人、とも」

しかしその言葉は、途中で程穫の手により遮られた。険しい顔の兄に睨み付けられ、もごもごと先を続けていた和穂は大人しくなる。
「何も言うな」
短く告げると、心底忌々しそうに殷雷を一瞥。
「また咳が止まらなくなる」
『また』の部分をやけに強調して言われ、殷雷が苦々しく顔をしかめた。

「・・・程穫よ。いつまで塞いでるつもりだ。和穂が窒息するだろうが」

その後数分間ずっと和穂の口に手を被せたまま視線を妹へ向けている程穫を、見るに耐えられなくなった殷雷が声をかける。
「うるさい。俺たちの邪魔をするな」
「何の邪魔だ!」
妙な言い回しをする程穫に嫌なものを感じ、思わず突っ込みを入れる殷雷。すると程穫は今まで微動だにしなかった頭を、ぬらりと殷雷の方へと向けた。口の端には思い切り何かを含んだような笑み。

「もちろん『俺と和穂が肌を触れ合わせる行為』に決まっているだろうが」

「っざけたこと言ってんじゃねえこのガキゃあ!!」
冷静であることが前提である武器はあっさりと逆上し、程穫の胸倉を掴んで投げ飛ばした。
突然部屋の隅に吹っ飛んでいった兄を呆然と見送ってから、慌てて殷雷を見上げる和穂。
「い、殷雷。兄さんが」
「いいか和穂!金輪際、あの『危険生物』に寄るな触れるな口きくな!」
「そんなのむぐ」
「それから暫く声を出すんじゃねえ!」
今度は殷雷によって口を塞がれた挙句、鼻が触れそうなほど近くで怒鳴られて、和穂はただ頷くしかなかった。

暫く床に突っ伏したまま微動だにしなかった程穫は、突如起き上がると何も言わずに部屋から出て行った。そんな兄を心配そうに見つめていた和穂を、不満そうな顔の殷雷が小突く。
「人の心配してる暇があるなら、とっとと自分が元気になりやがれ」
殷雷の言う通りなので、和穂は申し訳なさそうに眉を寄せると頷いた。

「貴様こそ和穂が心配ならば害虫のようにまとわりつくな。その方が和穂もちゃんと休める」

冷酷に言い放ちながら再び現れた程穫は、その声に似つかわしくない桃色の湯のみを持っていた。
「・・・程穫よ。お前はもう少しまともな物言いができんのか?」
「俺はいつも正常だ」
怒りを通り越して呆れる殷雷に短く言い、程穫は手にしていた湯のみを寝台の傍にある卓に置いた。そして枕などで調節し、和穂の上体を少しだけ起こさせる。
湯のみを見て、それから程穫を見て僅かに首を傾げる和穂。
「いつもの熱さましだ」
程穫の言葉に、和穂は安堵するように頬を緩めた。兄から湯のみを受け取ると、中にある乳白色の液体をゆっくりと飲み始める。
「またお前の『手作り』か?」
その様子を眺めながら、殷雷が程穫に尋ねた。
「ああ」
「それはそれは、お偉いことですな。薬草を間違えて悪化させるなよ」
「俺の選んだ薬草に間違いはない。余計な心配は無用だ」
ふざけたような殷雷の言葉に含まれる鋭いものに気付いていた程穫は、嘲笑うような笑みの中に怒気を漲らせて答えた。

兄の『手作り熱さまし』を一滴も残さず飲み干した和穂が、満面の笑みで湯のみを程穫に手渡す。程穫はそれを受け取り卓に置くと、何やら物言いたげに口を動かす和穂を再び横に寝かせる。
「礼はいい。大人しく寝ていろ」
それに和穂が頷いたのを確認してから、程穫は湯のみを片付けに部屋を出て行った。

殷雷にも程穫にも喋るなと命じられた和穂は、大人しくその言いつけを守っていた。
しかし。

「いい加減に出て行け。目障りだ」
「そこまで言われちゃ出て行くわけにはいかねえな。俺がいると何か不都合でもあるのかよ」
「大有りだ。貴様がいたら和穂を裸にさせられんだろう」
「っな・・・!?」
「汗をかいたら着替える。武器のくせにそんなことも知らんのか」
「知っとるわ!ちうか、一々そう言う紛らわしい言い方をするな!!」

しかし和穂は、先ほどからずっと口喧嘩を続けている二人に、仲良くしてもらいたいとも思っている。
布団の中でもどかしそうに口をぱく付かせながら、どうすればいいのか必死に悩む和穂だった。

「風邪にはすりおろしたリンゴだと相場が決まっているのだ。そんなことも知らんのか?このシスコン大魔王」
先ほど無知呼ばわりされた仕返しだと言わんばかりの殷雷。程穫が太めの眉をぴくりと上げる。
「貴様のような得体の知れないなまくらがどこから取ってきたかもわらかん物体を、和穂に食わせてたまるか。この金属棒」
「誰が金属棒だ!」
「貴様だ。これ以上うちに上がり込むつもりなら、真っ二つに叩き折る」
「っはっはっは。やれるもんならやってみやがれってんだ」
「次に会うときが貴様の最期だ。覚悟しろ」
本気なのか冗談なのか、怪しい笑みすら浮かべ始めた二人に、色々な意味で耐えられなくなった和穂がとうとう身を起こす。
思い切り息を吸い込んで、張り詰めた空気の中に向かって口を開き。

「・・・・っ二人とも!もう喋っちゃだめぅむぐっ」

『それはこちらの台詞だ』
恐ろしいまでに素早い動作で程穫が和穂の口を塞ぎ、殷雷が半ば強引に寝台に寝かせてから二人は同時に言い放った。
和穂は兄の手を退かそうと悪戦苦闘しながらもまだふぐぐと何やら訴えている。それが二人の言い合いを止めようとしていることは明白で。
「わかったからもう言うな」
和穂の口を押さえたまま程穫が言うと、とりあえず和穂は声を出すことをやめた。しかし、眉根を寄せてじっと兄を見つめている。その瞳が、『本当に?』と尋ねていることくらい、程穫にはわかっていた。
「嘘じゃないさ。なまくらはこれから巣へ戻るらしいからな」
「そう言う言い方はやめろと言っとるだろうが。俺は鳥か」
せめて『帰る』とか言いやがれ、と苦々しい口調で吐き捨てる殷雷。しかしそれに程穫が素直に従うわけもない。
「黙れなまくら。いい加減に和穂からその厭らしい手を離して失せろ」
殺気混じりに言われ、殷雷はいまだに己が先ほど和穂を寝かせるためその肩を掴んだままだと言うことに気付いた。一度硬直してからものすごい勢いで和穂から飛び退く殷雷。理由がわからない和穂は不思議そうに瞬いて殷雷を見やった。
「幼女趣味の変態め」
ぼそっと程穫が呟いた台詞は、思い切り殷雷の耳に突き刺さり。高速で程穫へと顔を向け、殷雷が吠える。
「っだ、誰がこんなお子様をっ・・・!!」
「そのお子様を目当てに毎日ここへ通ってくるのは貴様だろう」
「ち、違う!俺は別にただこのお子様がなんだかんだですぐに寝込むからだな、その、仕方なく様子を見に・・・」
結局、再び言い合いを始めた二人に、兄の手から逃れた和穂はとうとう叫んだ。

「子ども扱いしないでよう!」

二人の喧嘩よりも、お子様と言われたことの方が気になるらしい。
そして、またしても二人がかりで口を塞がれ強引に寝かされる。

『わかったから大人しく寝てろ!』

再び口を揃えて言う二人。絶対にわかってない、と和穂は思った。しかし、口を塞がれ肩を掴まれ押し倒されたこの状態では、ろくな反論もできない。

結局、二人は和穂が『大人しく寝る』まで監視するということになり、とりあえず喧嘩は収まった。しかし、男二人に無言でじっと見られて、かえって寝付けない和穂だったが、あえて文句は言わなかった。