寝起
程穫は日の出と同じくらいの時間に目を覚ます。その時和穂はまだ寝ていて、家の中はとても静かだ。
そして彼は、起きるとまず妹の寝ている部屋へ向かうのが日課であった。
少し前までは同じ寝台で寝ていたのだが、十四を過ぎた頃、近所に住む龍華と、同じく近所の森にいる殷雷刀の猛抗議を受けてからは別々の部屋で寝ている。和穂は一緒でも一向に構わないと言っていたし、程穫もそれが当たり前だと思っていたのだが、あまりに殷雷たちが深刻な顔でやめてくれと言ってきたので和穂も首をかしげながら承諾したのだった。ちなみに、程穫はよいなどとは一言も言ってはいない。
程穫は和穂の部屋に音を立てぬよう入ると、寝台で寝ている妹の元へ歩み寄った。
寝相のよい和穂は、きちんと布団に入って気持ちよさそうに眠っている。
彼はまず、じっと和穂の顔を見た。日の出直後のため、雨どいの隙間から差した光で部屋は少し明るい。日の光に照らされ、和穂の頬はうっすらとオレンジに色づいているように見えた。
次いで手を伸ばし、起こさぬようそっと頬に触れる。柔らかい肌も、その温もりもいつもと同じ。
そして最後に、和穂の前髪をかきあげると、程穫はその額へと唇を押し付けた。時間にして、きっかり十秒。
彼が幼い頃、こうして母親がよく和穂の熱を測っていた。
それを毎日見てきた程穫は、熱はこのように測るものだと認識している。
両親が他界してから、和穂の熱を看るのは程穫だけとなった。
朝に一度、寝る前に一度、そして和穂の様子が少しでもいつもと違う時に、程穫はこうやって和穂の熱を看ている。
十四歳までは朝起きると目の前に和穂が寝ていたため、手を伸ばせばすぐに熱がないか看てやることができたのに、今はわざわざ隣りの部屋まで移動しなければならないことを、不便に思う程穫だった。
それでも、これをやめようと思ったことなど一度もないが。
和穂が起きた時、兄は大抵家にいない。
それでも、程穫がすぐそこの森に薬草を探しに行っていることを知っている和穂は、早く帰って来てほしいと思うことはあっても取り乱すようなことはなかった。
いつものように顔を洗い、服を着替え、炊事場へ向かい朝食の支度をする。
二人だけで暮らすこの家で、家事は和穂の担当だった。
買ってきた米粉を練って焼いたものと、森で採ってきた果物と、一匹だけ飼っている鶏が産んだ卵で作った卵焼き。手馴れたもので、仕度はすぐに終わった。
質素ではあったが、和穂はこれを不満に思ったことなど一度もない。早くに両親を亡くし、兄に苦労をかけてばかりいる自分に、少しでも何か役に立てればと思うことは何度もあるが。
準備の整った食卓に着き、待つこと暫し。
玄関の扉が開き、程穫が帰宅した。腰に着けた皮製の袋には、色々な種類の薬草が詰められている。これを売ったり食べ物と交換したりして、双子は生活しているのだった。
「お帰りなさい」
和穂の言葉に小さく頷くと、程穫は荷物を置きに部屋へ向かった。
薬草などを片付け、手を洗った程穫が食卓に着く。
二人同時に手を合わせ、和穂だけがいただきますと言って、また二人同時に手を解いた。
「今日は少し遅かったね。どこかへ寄ったの?」
「いや。森の奥まで行っただけだ」
その言葉に、和穂がぱっと表情を明るくさせた。
「じゃあ殷雷に会った?この前せっかくお見舞いに来てくれたのに、私が寝てる間に帰っちゃったからどうしてるかなっておもむっ!?」
身を乗り出し気味に話していた和穂の口に、一口大に切り分けられた卵焼きが放り込まれた。
挿し込まれた箸を咥えたままもむむと先を続ける和穂を、明らかに不機嫌な程穫が睨みつける。左手で頬杖をつき、右手で箸を持ったまま。
その箸を左右へ軽く動かしてやると、和穂が眉根を寄せてもごもごと口を動かした。
嫌なら口を放せばいいだろうが。
そう思いながらも、程穫は口をへの字に噤んだまま、和穂の舌を傷つけぬよう慎重に箸を動かし続ける。
和穂の口から箸が離れたのは、卵焼きをきちんと飲み込んでからのことであった。
朝食を終え、食器を洗う和穂。その間、程穫は卓で手のひら並みの厚さがある本を読み耽っていた。
片づけが終わった和穂が兄の背後に近寄ると、細かい字がびっしりと書かれ、所々に薬草と思わしき絵が添えてあるページが目に入る。
「・・・あう」
あまりの難解さに、目眩すら覚えた和穂が小さく呻いた。それに程穫が反応する。
「どうした」
熱でも出たのかと尋ね、和穂の頭を引き寄せようとする。しかし、彼が熱を看る前に和穂は大きく首を横に振った。
「ううん。大丈夫だよ。ええと、また難しそうな本を読んでるなあって思って。今日は何を読んでるの?」
尋ねると、程穫は小さく笑って和穂の頭から手を放した。ばたりと表紙を閉じると、その表紙には大げさな書体で『薬草学』と書かれている。
「俺が読む本はこれ関連だけだ」
「でもその本は初めて見るよ。また護玄様から借りてきたの?」
「ああ。この前あいつが来た時にもらった」
僅かに唇を尖らせて、あいつなんて言っちゃだめだよ、と兄を窘める和穂。しかし程穫は普通に流して再び本へと視線を落とす。暫く規則的にページをめくる音だけが部屋に響いて。
刹那、後ろから程穫の手元を眺めている和穂を、程穫が見上げた。
「なあに?」
もの言いたげな程穫に和穂が尋ねると、程穫が本を卓に置いて立ち上がる。そして先ほどまで己が座っていた椅子を和穂の方へ向けた。
「座れ」
短く言われ、和穂は数度瞬きをした後、慌てて首を振る。
「大丈夫だよ。私が勝手に覗いてただけだから、兄さんが座って」
「いいから座れ」
「だめだよ。勉強してるのは兄さんなんだから」
互いに譲り合うが、どちらも頑として座ろうとしない。
結局、先に痺れを切らしたのは程穫の方だった。小さく息を吐くと、ずいと和穂に歩み寄る。
「え?」
和穂が声を上げた時、既に程穫はその身体を抱き上げていた。
「わわっ。に、兄さん」
「暴れるな」
そしてまず自分が椅子に腰かけ、その上に和穂を乗せる。兄の膝の上に座らされ、和穂は更に慌てた。
「お、下ろしてよう」
もがく和穂を片腕で押さえ、空いたほうの手で本を取る。それを和穂の膝の上に乗せると、借り物の本を気遣ってか和穂は大人しくなった。
「・・・に、兄さん」
「何だ」
「重くない?」
「別に」
「本当?」
程穫は、くどい、と呟きページをめくる。そして文章を目で追いながら一言。
「お前に見下ろされる方が余計気になる」
ぽかんとして兄を見やる和穂を無視して、程穫は更にページをめくった。
「え、えと・・・そうなの?」
「ああ」
「そうか・・・。殷雷も師匠もみんな背が高いから、私は見下ろされるのが普通だと思っちゃうなあ」
しみじみと言う和穂に、程穫の手が止まる。
「和穂よ。それはこの兄に対する嫌味か」
殷雷や龍華よりも背の低い彼は、かなり機嫌を損ねた顔でぼそりと言った。
「え?・・・あっ、え、ええと、そうじゃなくて!あの、兄さんもすぐに殷雷みたいに大きくなるよ!」
慌てて弁解する和穂に、ふと自嘲めいた笑いを漏らす程穫。
「しかもとどめまでしっかり刺してくれるとは・・・さすが俺の妹だ」
「に、兄さんっ」
違うの、と涙目で訴える和穂の肩に顔を埋め、程穫は大きく息を吐いた。しかもそのまま兄の肩が小さく震えだした事に気付いて、和穂の顔は真っ青になる。
「あああの、その、ごめんなさ・・・」
しどろもどろになって謝る和穂には、俯いた程穫が笑いを噛み堪えていることなど気付きもしないのだった。
暫くしてやっと、兄が泣いているのではなく笑いを堪えているだけだということに気付いた和穂は、安堵のあまり脱力してしまった。
へたりと彼の肩にもたれかかってくる和穂を、程穫が片手で支え顔を覗き込む。
「平気か?」
尋ねると、和穂は困ったように笑った。
「はは・・・うん、大丈夫。あの、ごめんね兄さん。私・・・」
その言葉を手で遮り、程穫がうっすらと微笑む。
「わかっている。俺も少しからかい過ぎたな」
和穂は、とんでもないと言うように首を振った。
「そんなことないよ。殷雷の方がもっとすごいもの」
刹那、扉が開く音がした。
目を見開き口を押さえる和穂。明らかに失言をしてしまったと言う顔。
思い切り顔をしかめて一点を睨み付ける程穫。その顔からは不快感が溢れ出している。
そして双子が見つめる先には、半ば白くなって硬直する殷雷刀がいた。
いつものように双子宅へ来てみれば、入るなり程穫が和穂を膝の上に乗せて抱きついている(殷雷視点)という光景を目撃させられ、殷雷はかなり動揺していた。己が情に脆いと言う欠陥を持つのだと知った時以来の強い衝撃が、彼を襲い動きを封じる。
そして殷雷は長い時間をかけてやっと意識を取り戻し、いまだ和穂を抱き締めている程穫をどろりとした目で見やった。怒りに任せて殴りかからなかったのは奇跡だと己自身が思う。かつてない殷雷の怖い目に、睨まれていない和穂が怯えて身を竦めた。そんな妹の頭を、大丈夫だとでも言うように程穫が撫でて。
ぷっつりと殷雷から本来聞こえないはずの音が立った。
「程穫よ・・・今すぐその手を放しやがれ。そうすれば首を吹っ飛ばすだけで勘弁してやる・・・」
びりびりと空気が震える。武器である彼のものすごい殺気に挑むように、程穫は口の端を上げてにやりと笑った。
「誰が貴様の言うことなどきくか」
そして反抗の意思を表すかのように、和穂へ腕を絡ませる。殷雷の髪が彼の怒りに反応してざわりと広がり。
「ならば跡形もなく消してやるぜ・・・表に出やがれ!!」
「それはこちらの台詞だ。今日こそ貴様を殺してくれる」
和穂から腕を解き、立ち上がろうとする程穫。
「だめ!!」
そこへ、和穂の制止が入る。思い切り驚愕して再び固まる殷雷。程穫も、僅かに目を見開く。
和穂は、程穫の首に必死でしがみ付きながら、もう一度だめだと叫んだ。
しかし程穫は和穂に構わず立ち上がる。
「和穂。放せ」
「嫌!」
「邪魔をするな」
「絶対放さないっ・・・喧嘩なんて、しないで・・・!!」
兄にしがみ付いて小さく肩を震わせる和穂。先ほどの程穫とは違い、本当に泣いていることくらい、二人にはすぐわかる。
「ったく、わかったよ!もうやめだ!!」
やけになったような声に、和穂が濡れた顔を上げる。そこには、とてつもなく不機嫌な表情をした殷雷の姿。
「やめるから、いい加減その変態から離れろ!!」
「え・・・変態って?」
「なまくらのことだ」
首を傾げる和穂に向かいしれっと言い放つ程穫。殷雷が再び殺気立つ。
「お前のことだ!!」
「え・・・わ、私?」
しかし殷雷の叫びに反応したのは何故か和穂で。
「違うわ!このシスコン野郎に決まってんだろ!!」
「そんな『野郎』は見当たらないな」
「どう見てもお前だこの兄馬鹿!」
「い、殷雷、あんまり怒ると身体に悪いよ」
「いいからお前ら離れやがれえぇええい!!」
こうして殷雷の怒鳴り声は暫く途絶えることがなかった。
「醜い上に煩わしい嫉妬だな。いい迷惑だ」
「迷惑なのはこっちだ!!てめえわざとやってんじゃねえだろうな!?」
「失礼な奴だ。誰がいつ『わざと貴様に喧嘩をしかけて和穂に抱きついてもらおう』などと考えた?」
「お前だああああ!!」
「えええと、殷雷、ご飯食べていってよ。ね?」
程穫の真意は、彼のみぞ知る。
きちんと背筋を伸ばし、両手を合わせて目を閉じる。
「いただきます」
和穂の声を合図に、殷雷は目の前にあった箸を手にした。
あれから殷雷は和穂の誘いで昼食をご馳走になっていた。途中また何度か程穫と殴り合いになりかけたが、和穂が泣きそうになるので何とか流血だけは避け今に至る。
献立は野菜炒めと白飯というあまり豪華なものではなかったが、双子の生活事情を知っている殷雷が文句を口に出すことはしなかった。
「殷雷、今日はたくさん果物を持ってきてくれてありがとう」
それどころか、こうして森にある食べ物を取ってきては差し入れていたりする。情に脆い殷雷が、早くに両親を亡くして苦労している双子を見て見ぬ振りなどできるはずもない。
にこにこと嬉しそうに礼を述べる和穂に、殷雷は目線を逸らして野菜炒めを頬張る。
「む・・・別に」
「礼など必要ないだろう。どうせその分、こうして元は取っているのだからな」
殷雷の言葉を遮り、ずばっと言い放つ程穫。殷雷の額に青筋が立ち、再び空気が剣呑になる。
「兄さん。せっかく来てくれたのに、そんな言い方はないじゃない」
殷雷が口を開く前に、頬を膨らませた和穂が抗議した。そのおかげで、殷雷の怒りはあっさりと失せる。
しかし代わりに程穫の表情が険しくなった。
「和穂。お前はこの俺よりもなまくらの味方をするのか」
「今の兄さんの言い方はよくないもの」
悪いことは悪いときっぱり言うのが和穂である。
殷雷が、珍しく程穫に勝ったと感傷に浸っていると、程穫は大きく溜め息を吐いて箸を置いた。
「そうか・・・ではお前は俺を捨て、なまくらを取ると言うのだな?」
『え?』
和穂と殷雷の声が重なる。程穫は和穂を見つめると、眉根を僅かに寄せて小さく笑った。
それはまるで、諦めたような、寂しそうな、微笑み。
「俺はこんなにもお前だけを大切に想っているというのに・・・残念だ」
殷雷は、危うく野菜炒めを盛大に吹き出すところを何とか堪えた。但し、箸はぽろりと卓の上に落としたが。
和穂は驚いたように目を見開くと、慌てて大きく首を横に振る。そして。
「違うよ!私だって兄さんのことが一番大切だもの!」
身を乗り出してそう叫ぶ和穂に、程穫が軽く目を見開く。
「和穂・・・本当か?」
「当たり前じゃない!」
「本当に俺が一番なんだな?」
「うん!」
はっきり頷く和穂。程穫が微笑むが、その笑みは先ほどと違いとても柔らかかった。
その頃衝撃のあまり、野菜炒めを気管に詰まらせた殷雷は、思い切り咳き込んでいた。
やっと気付いた和穂が駆け寄って背中を擦ると、暫くして何とか収まる。
色々な意味で憔悴した顔を上げて殷雷が最初に見たのは、椅子に踏ん反り返って悪魔の如き勝ち誇った笑みを浮かべる程穫の姿。
「ってめえ・・・またしてもわざとか・・・!?」
「何の話だ?俺には見当もつかないな」
直後、怒りに満ちた殷雷の雄叫びが家中に響き、また和穂を泣かせてしまうのだった。しかし互いに攻撃をしかけるので頭が一杯の二人はそれに気付かない。
「この変態シスコン野郎!」
「変態は貴様だ。幼女趣味のケダモノめ」
「ケダモノはお前だろうが!」
「ほう。では貴様、俺が和穂に欲情していると認めるんだな」
「んなっ・・・!?」
思わず動きを止めた殷雷の顎に、容赦なく拳を叩き込む程穫。吹っ飛んだ殷雷が身を起こすと、完全に見下している程穫の笑みが目に入る。
「この程度で隙を作るとはな。やはり貴様は欠陥品だ、殷雷刀」
「てめえ・・・ガキだと思って手加減してやりゃいい気になりやがって・・・!!」
その間和穂は何とか喧嘩を止めようと、色々叫んでいた。しかしと言うかやはりと言うか、二人は全く聞いていない。
壮絶な殴り合いと罵り合いを終えてから、やっと涙目の和穂に気付いた二人が揃って頭を下げたのだが、暫く和穂は口をきいてくれなかった。