将棋

「ぐ・・・ま、待った!」
「待ったはなしだと何度言えばわかるんだい。さ、王手だよ。さっさとしな」
ここは仙人である護玄の自宅。しかし洞窟や御殿のような豪勢なものではない。大して賑やかでもない人里にある、普通の一軒家である。
そこで年代ものの将棋盤を前に、護玄はうぬぬと呻いた。対する龍華は面倒くさそうに欠伸をしている。
「もう手はないんだ。大人しく負けを認めたらどうだい?」
「そうはいかん。もしかしたらこの中に起死回生の一手が隠されているかもしれんだろう」
「ああそうかい。じゃあせいぜい頑張って考えるんだね。私は出かけてくるよ」
立ち上がる龍華を、護玄が見上げる。
「どこへ出かけるんだ?」
「ちょいとジジイの・・・」

刹那、龍華が言葉を切り頭を巡らせた。
同時に玄関の扉を叩く音。

「こんにちは。護玄様はいらっしゃいますか?」

そこから高く澄んだ声が届き、二人の仙人はダッシュで玄関へと向かった。
そこにはもちろん。
『和穂』
龍華と護玄が声を揃えて名を呼ぶと、玄関に立っていた和穂は嬉しそうに顔を綻ばせた。ついでに背後の程穫は、思い切りつまらなそうな表情だったが。
「久しぶりだねえ。近頃はさっぱりうちに来ないじゃないか」
豪華な紅い着物をばさりと翻し、和穂を抱き締める龍華。言葉の割りに、顔が緩みまくっている。
龍華に頭を撫でられて、和穂は恥ずかしそうに頬を染めてはにかんだ。
「ごめんなさい龍華師匠。師匠もこちらにいらしてたんですね」
「ああ。こいつがどうしても将棋の相手をしてくれと言うんでね」
「は?お前が暇だと転がり込んで来たんだろう」
突っ込む護玄にうるさいと一睨みし、龍華はやっと和穂を放す。
「で、今日はこんなボロ屋に何しに来たんだい?」
隅で落ち込む護玄を龍華は無視。程穫ももちろん不機嫌な顔で無視。和穂はそんなことないですよと慌てて言う。
「え、ええと、この前兄さんが護玄様に本を頂いたので、そのお礼に・・・」
一旦後ろを向き、程穫が持っていた手籠を、ありがとうと言って受け取る和穂。
「・・・少しなんですけど、お茶菓子を作ってきたんです。よかったら食べて下さい」
その言葉に、沈んでいた護玄が即座に立ち直った。
「おお!これは美味そうだ。早速、茶でも煎れるか」
「あ、お茶なら私が煎れてきます」
丁寧にお邪魔しますと言って、和穂は勝手知ったるなんとやらで護玄宅の炊事場へと歩いていった。
そして、龍華と護玄と程穫が残される。
「龍華、お前は出かけるんじゃなかったのか?」
護玄が尋ねると、龍華はわかってないねえとばかりに大きく溜め息を吐いた。
「せっかく和穂が私のために茶を煎れようとしているんだ。ここで帰ったらあの子が泣くだろうが」
「・・・・そ、そうか?」
微妙に引きつった声を上げる護玄。深く頷く龍華。しかし。

「自惚れるな馬鹿仙人ども」

ずばっと斬り捨てるかの如く言い放ち、程穫は更に不快な顔で腕を組んだ。護玄は何故自分も馬鹿扱いされているのか理解できなかったが、あえて尋ねることはしない。
「・・・今、何かほざいたかい?程穫」
静かな龍華の声。しかし護玄の本能は激しく警鐘を鳴らしている。
「わかり辛かったか?では貴様らにも理解できるよう簡単に言い直してやろう」
鼻で笑う程穫。頼むからこれ以上余計なことを喋らないでくれと祈る護玄。
しかし程穫は相手が仙人だろうと容赦しなかった。

「和穂は俺のために茶を煎れるのだと言っているんだよ」

「待て待て龍華!!相手は子供だ!仙術はやめろ!!」
「生意気なガキには躾が必要じゃあないのかい・・・!?」
符を片手にぴきぴきと口元を引きつらせる龍華に、何とかしがみ付いて止める護玄。玄関を吹っ飛ばされまいと必死である。
しかし程穫は平然とそれらを無視して護玄宅へと上がりこんでいった。

程穫が護玄宅の居間へ入ると、先ほど龍華と護玄が使っていた将棋盤が目に入った。それをざっと眺めると、程穫は鼻で笑う。
「相変わらず一勝もできていないようだな」
独り言かどうかはわからないが、遅れて部屋に来た護玄は顔をしかめた。
「余計なお世話だ」
その言葉を聞いているのかいないのか、程穫は何も言わずに先ほど護玄が座っていた座布団の上へ腰を下ろす。
「何だ程穫。お前も将棋をやるのか?」
相手をしてやってもいいぞ、と護玄が対面に座る。すると程穫はかなり見下した目で護玄を一瞥し、軽く溜め息を吐いた。
「貴様程度の実力では話にならん」
相変わらず辛口の程穫に、護玄は何とか年長者としての余裕を見せようと頑張った。それは随分と引きつった笑みではあったが。
「ほほう・・・ではお前はそれなりに強いのだな?」
尋ねるが、程穫はさも当たり前のようにそれを無視。縁側から見える景色を、つまらなそうに眺めている。
温和な護玄も、とうとう立ち上がって叫んだ。

「程穫よ!こうなったらどちらが強いか勝負だ!!」

「ガキ相手に熱くなってるのはお前も同じじゃないか」
程穫に向かってびしりと指を突き付けている護玄に向かい、龍華は呆れ顔で突っ込んだ。
やる気満々の護玄が将棋の駒を並べ始める。しかし程穫はやる気のない視線を投げかけぼそりと言う。
「無駄だ。お前では勝てない」
「やる前からそう言いきることはやめておけ。もしこちらが勝ったら恥をかくぞ」
程穫の眉がぴくりと上がった。直後、護玄が駒を並べ終えて腕を組む。
「よし。ではお前に先手を打たせてやろう」
「普通は強い者が後手じゃないのか」
「だからお前が先手なのだ」
そう言って笑う護玄を、程穫は不満そうな顔で睨んだ。
しかし、文句は口にせず駒を動かす。
龍華が将棋盤の横に座って観戦する中、護玄と程穫の将棋対決は幕を開けた。

ぱちりぱちりと二人が駒を進めていく。
それを見て、龍華は確信した。

こいつらは激弱だと。

護玄はいつものことなので構わないのだが、程穫はあれだけ大見得をきっていたにも関わらず、とてもよいとは言えない手ばかりを打っている。
そもそも、考えているのかどうかすら怪しい。
護玄が打つと、間も置かず駒を動かしているのだ。何か作戦を立てているとも思えない。
護玄も弱いので、決着が付くにはもう少し時間がかかりそうだが、このまま行けば程穫の負けだ。そう龍華は結論付けた。

するとそこへ。

「あ、将棋してるんですか?兄さんと護玄様なんて珍しい」
和穂がお茶を載せた盆を手にやって来た。
刹那、将棋盤に手を伸ばしかけていた程穫が顔を上げる。
「和穂」
「なあに?」
「来い」
呼ばれて、和穂はお茶を置いてから兄の元へ歩み寄った。
隣に座るよう促されてそこに正座する和穂。そして。

程穫が和穂の頭を抱き寄せて、何やら耳打ちする。

何を話しているのか仙人二人には聞こえないが、和穂はこくこくと何度か頷いた。
内緒話が終わって、程穫は和穂を放す。そして将棋盤を指差し和穂に尋ねた。
「やってみるか?」
「うん!」
和穂が嬉しそうに返事をすると、程穫は僅かに横へ移動してやる。将棋盤を覗き込んで、和穂は微妙に顔をしかめた。無理もないであろう、その時既に主力となる大半の駒は護玄に取られていたのだから。
じっと将棋盤と睨みあったまま、微動だにしない和穂。
しかし、ここから逆転するのは無理に等しいと護玄も龍華もわかっていた。

考え込んでうんうんと呻る和穂は可愛い、などと龍華や護玄が親馬鹿の如き感想を抱いていると。

「ええと・・・これを、ここにします」
やっと和穂が次の手を打った。負けるとわかっていても諦めない和穂に感心しながらも、少し可哀相だとも思いながら駒を進める護玄。しかし負けるつもりは毛頭ない。
「次はこれで・・・」
「ほう。そうくるか。よし、いいぞ」
「そうしたらこれがここで」
「ん?」
「これをこっちにして」
「おぉ・・・っ?」
「はい、王手です」
ぱちり、と和穂の駒を置く音が部屋に響いて、そこには静寂が残った。
唖然として盤上を眺める護玄。そんなまさかと思いつつ、龍華が覗いてみればそこには見事に逆転されている護玄の駒。
「だから言っただろう。お前では勝てないとな」
程穫が、勝ち誇った笑みで言い放った。
「ま、待て。さっきお前は和穂に何やら話していたな。まさかあれは策を授けていたと言うのか?」
護玄が尋ねると、程穫は偉そうにふんぞり返る。

「さあ、どうだろうな?」

「で、では和穂が一人で・・・?お前、いつの間に将棋を・・・」
衝撃のあまり放心気味の護玄が尋ねると、和穂は照れながら笑った。
「たまに兄さんが相手してくれるんです」
「た、たまに・・・」
「あ、でもさっき、兄さんが護玄様の油断を突けってアドバイスをくれたからで、私一人で勝てた訳では・・・」
和穂の言葉を遮って、程穫が口を開く。
「貴様のことだ。相手が和穂となれば必ず油断すると思ってな。それとも本気でやって負けたのか?」
「安心しな護玄。お前が弱いのではなく、和穂が強過ぎただけだよ」
程穫に鼻で笑われ、龍華に肩を叩いて慰められ、護玄はいじけてしまった。これでも仙人である。

「昔はあんなに小さかったのになあ・・・」

こちらが将棋で負けてしまうほど大きくなったのか、と和穂の煎れたお茶をすすりながら、護玄は悲しく呟いた。
「お前が弱過ぎるだけだろうが」
「・・・お前も小さい頃はまだ可愛げがあったというのに」
「うるさい」
しみじみと呟く護玄に、程穫は不満を露に言い捨てた。そこへ和穂が。

「兄さんは今も可愛いですよ?」

凍りつくほどの勢いで空気が一瞬固まる。
「・・・は、はははは。面白い冗談だ」
護玄が何とか立ち直って言うと、和穂は不思議そうに首を傾げる。
「冗談じゃないです。本当にかわぅむ」
程穫に無理やり口を塞がれ、和穂はうぐうぐと呻いた。
「気にするな。ただの妄想だ」
真顔で程穫が二人に言うと、龍華と護玄は力なく頷いた。和穂はかなり反論してもがいていたが。

自宅に帰るまで、和穂は唇を尖らせたままむっつりと押し黙っていた。
何か言いたいらしいが、わざわざそれを尋ねてやるほど程穫はお人よしでもなんでもないため、帰りは何も話さず家に着く。

あれから何度か和穂は兄がどう可愛いかを説明しようとしたのだが、その度に程穫の妨害にあって結局話すことができなかった。そのことが和穂はどうしようもなく悲しくて。

「・・・兄さん」
卓の上で護玄にもらったという分厚い本を広げている程穫に、やっと和穂が声をかける。
程穫が顔を上げると、眉根を寄せて随分と寂しそうな和穂の顔が目に入った。
「兄さんは・・・自分の話をされるのが、嫌なの?」
唐突に問われて、程穫は軽く目を潜めた。それに気付いた和穂が、もう一度言い直す。

「それとも、私に自分のことを話されたくないの?」

「・・・何故、そんなことを言う」
「だって・・・もし、私に話されるのが嫌なら。私が兄さんのことを話すのが嫌だって、兄さんが思うなら・・・」
椅子に腰かけたまま伸ばされた程穫の手が、和穂の頬に触れた。少し冷えたそれに、和穂が僅かに肩を震わせる。
「落ち着け」
静かな声で言われ、和穂は俯いて口を噤んだ。
「俺は、嫌だとは言っていない」
「でも」
言いかけた和穂の口を、程穫の手が塞ぐ。しかし今度は和穂も身を引いてその手から逃れた。
すると立ち上がった程穫は、和穂の身体を片手で引き寄せ、再び口を押さえる。
暫く和穂は抵抗したが、兄の手から逃れることはできなかった。
「俺は、嫌だと言った覚えはない」
和穂に再度言うと、程穫はやっと和穂から手を解いた。しかし、和穂の瞳はまだ不安そうに揺れている。
小さく息を吐いて、和穂の頭に手を乗せ、宥めるよう撫でる程穫。
「・・・何が不満なんだ」
「不満なんてない。兄さんに、そんなこと思ったりしないよ。私が・・・」
苦しそうに、辛そうに、和穂は顔をしかめた。

「私が・・・兄さんに嫌な思いさせるのが、耐えられないから。だから、嫌なら言って。私が、嫌になったらそう・・・」

言葉の途中で、程穫は和穂をきつく抱き締めた。
それこそ、声が出ないほどに強く。本当に苦しくなった和穂は、小さく呻いた。しかし、程穫はその腕を放さない。
「俺から、逃れられるなどと思うな」
反論は許さないとばかりの、強気な声。
「俺は、お前を手放してやる気などない」
しかし、その声は力んでいるためか、僅かに震えて。

「兄から解放されたいのならば、この俺を殺すしかないと思え」

そう言って、程穫はやっと腕の力を緩めた。
途端に大きく息を吸い込む和穂。暫し、無言の時が過ぎる。

「・・・すまない。平気か」
小さく尋ねる程穫に、和穂はこくんと頷く。それを確認してから、程穫は息を吐いて手を放そうとし。

和穂に服を掴まれて、動きを止めた。

「・・・ほ、本当に?」
問われて程穫は一度、目を瞬かせる。
「本当に、ずっと一緒にいてくれるの?私、いつも迷惑かけてばかりなのに」
程穫が、大きく深い溜め息を吐いた。和穂の頬に手を添え、その目を見つめて言ってやる。

「一度接吻でもしてやらないと信じられないか?」

「ううん!私、兄さんのこと信じてるもの!」
ぶんぶんと首を横に振られ、程穫はその言葉に喜ぶべきかその動作に落ち込むべきか少し迷った。