留守
その日、殷雷がいつものように双子宅へ行くと、珍しく窓に鍵がかかっていた。仕方ないので玄関に回ると、そこにもやはり鍵が。
留守なのかとも思ったが、昨日こちらに来たときに、出かけるという話は聞いていなかった。程穫はともかく、和穂ならば必ずそう言う類の話はしてくるはずだ。
まさかとは思うが何かあったのでは・・・と不安がよぎる。普段は問答無用で扉を開け放つのだが、今回は珍しく扉を強めにノックした。
するとすぐにぱたぱたと軽い足音が家の中より響いてくる。とりあえず和穂は無事らしいことがわかり、思い切り安堵する殷雷。
しかし次の瞬間、彼の表情は驚愕に変わる。
「お帰りなさい!」
その声は紛れもなく和穂のもので。
扉を開いて飛び出してきた姿も、その少女のもので。
そして嬉しそうな顔で殷雷に抱きついてきたのも、彼の認識能力に狂いがなければ、和穂に間違いなかった。
声もなく硬直する殷雷。和穂の抱擁は思ったより容赦がなくて。体当たりする勢いで、ぎゅうと身体にしがみついてくる。それでも、和穂の細い腕では大して苦しくもなかったが。
頭が真っ白状態の殷雷が呆然としていると、和穂が弾けるように顔を上げた。
そして、長い長い沈黙。
目を見開く和穂。その黒い瞳に殷雷が映る。
「・・・あれ?」
ぱちぱちと目を瞬かせ、和穂はかなり間の抜けた声をもらした。
「殷雷?」
「おう」
どう反応すればよいやら検討もつかない殷雷は、とりあえず返事だけ返す。
そしてやっと今の状況を理解した和穂は、慌てて殷雷から腕を放した。
「ご、ごめんなさい!」
何がごめんなさいなのか、殷雷が尋ねる。すると和穂はしゅんと眉根を寄せて。
「えと、兄さんかと思ったの・・・だから、間違えてごめんなさい」
その言葉に、殷雷が思い切り不機嫌になったのは言うまでもない。
思い切り顔をしかめる殷雷を見て、和穂はますます申し訳なさそうに肩を落とす。
「本当にごめんなさい・・・抱きついたりして。嫌だったでしょう・・・?」
殷雷は思い切り狼狽した。何故自分がお前に抱きつかれて嫌がらねばならんのだ、という台詞が喉元まで出かけたが、何とか押しとどめる。そして、どう無難に和穂の誤解を解こうか、焦る気持ちを抑えながら考えた。その結果。
「ま、待て!別に俺はだな、その、つまり何と言うか」
彼の口から出たのはあまり無難とは言えない言葉だった。そしてやはり和穂は沈んだ表情のままで。
「無理しなくていいから。嫌な思いさせてごめんなさい」
「いや、それは違うぞ」
「ううん、私平気だから。殷雷って優しいね」
「だから違うと言ってるだろうが!!」
このままでは埒が明かないと、殷雷が叫ぶ。和穂は、ぱちぱちと目を瞬かせて驚いた表情のまま殷雷を見上げていた。
殷雷は、張り詰めた空気を誤魔化すかのように大きく咳払いをすると、視線を少し逸らしつつぼそりと呟く。
「まあ、その。なんだ・・・つまり俺は、お前を嫌がったりしてはいないということだ」
和穂は、暫しぽかんとして殷雷を見上げていた。そしてぽつりと。
「・・・本当?」
「ここで冗談など言ってどうする」
憮然とした殷雷がそう言うと、和穂はやっと嬉しそうに頬を緩めた。
「ありがとう、殷雷」
そんなこんなでやっと家の中に入れた殷雷は、和穂の煎れた茶をすすって盛大に一息ついた。そして、先ほどから尋ねたかったことを和穂に振る。
「しかし和穂よ、家中を閉め切って何を警戒しとるんだ?泥棒なんぞ気にするほどの村じゃないだろうに」
結構ぞんざいな言われ方をしているが、確かに双子の住む村は『村人は家族同然』というほど治安もよく、鍵をかける習慣などない。
和穂は、困ったように笑うと、殷雷の湯飲みに新しく茶を注ぐ。
「ええと・・・あのね、今日は兄さんが街に出かけてるの」
「それはさっきの件でわかった」
お帰りなさいと言って飛び出してきた和穂が、自分を程穫と間違えていたということに、殷雷はまだショックを受けていた。一応、態度には出さないようにしているが。
「それで、兄さんが出かける時に『危険な物体が来るといけないから、鍵は全部かけておけ』って」
「・・・あの野郎」
不在の時まで嫌がらせする気か、と殷雷は胸中で舌打ちをする。
「だが珍しいな。あのシスコンが遠出とは」
殷雷の言うとおり、程穫が和穂を独り残して村から出るということは今までにほとんどと言っていいほどなかった。
すると、和穂は眉を下げて笑った。それは、辛い気持ちを隠すような、微笑み。
「うん・・・あのね、多分今日は・・・兄さん、帰ってこないの」
「・・・・・・・・・は?」
長い沈黙の後、殷雷は放心状態でぽつりと声を漏らした。
「今日は兄さん、街へ行っていて帰らないの」
聞こえなかったのだろうかと首を傾げた和穂は、もう一度繰り返す。
「と、と言うことは、お前今日は・・・」
「うん。帰れないかもしれないって、言われたから。多分、一人だと思う」
そう言って苦笑する和穂は、いつもよりずっとか弱く見えた。少なくとも、殷雷はそう思った。
「聞いてないぞ!どうして昨日言わなかった!?」
殷雷が声を荒げる。ことの重要性をわかっていない和穂は、驚いたように眼を瞬かせて。
「ええと、ごめんなさい。私も今日言われて」
「そんなに急に出て行きやがったのか・・・」
「うん。朝に薬草を売りに行って、帰ってきたと思ったらまた出かけて行っちゃったの」
「目的とかは言ってやがったのか?」
「ううん。私が聞いたのは、街に行くっていうのと、今日は帰れないかもしれないっていうことだけ」
あの程穫が、理由も言わず和穂を残して一晩家を空けるなど、この世から鮭の粗炊きがなくなるのと同じくらいありえない話である。少なくとも、殷雷が双子と知り合って約十年間、そんなことは一度たりとてなかった。
自分は騙されているのではなかろうか、と殷雷は思う。すぐに、そんなことをしても意味がないだろうと考え直すが、嫌な気分は消えない。
「あのね、殷雷」
「おう。何だ」
和穂は、殷雷に向かってにっこりと笑いかけた。顔をしかめていた殷雷が、思わず放心してしまうほどの、嬉しそうな顔で。
「殷雷がいてくれて、よかった」
「っな・・・!?」
「いつも遊びに来てくれて嬉しいけど、今日はすごくすごく嬉しい」
「・・・・そっ」
「一人で留守番することってあんまりなかったから、ちょっと心細かったの」
「お・・・・っ」
「本当に、ありがとう殷雷」
「・・・・・・・・・・・・・・・!!」
くらくらとする頭を押さえて、殷雷は和穂から顔を隠すよう卓上に突っ伏した。
「殷雷、どうしたの?」
眠いの?と尋ねてくる和穂に、言い返す気力も彼にはない。
当分、熱の集まった顔は上げられそうになかった。
そして当然と言うか珍しくと言うか、二人きりで食事をした。
和穂が用意した夕食を二人で他愛もない話をしながら食べる。これほど和やかなひと時を過ごしたのは、殷雷にとって随分と久しぶりで。
和穂の方も、不意に意識をどこかへ置き忘れたように、ぼおっと宙を眺めることが数度あったが、それ以外は楽しそうに笑っていた。
後片付けも終わり、普段なら殷雷は帰る時間なのだが、今回は少なくとも程穫が帰宅するまではいることにした。
そう殷雷が告げると、和穂は綻ぶような笑顔で喜び。それを直視してしまった殷雷は、またしても顔を逸らさなければならなかった。
「ね、殷雷はいつも森で寝てるんだよね?」
不意にそんなことを言い出した和穂に、殷雷はまたかと小さく溜め息を吐く。
「今更何だ・・・?と言うより、俺は寝る必要などないといつも言っとるだろうが」
武器にそう言う話をするな、と何度言い聞かせても何故か和穂は殷雷に『道具』としてではなく『生き物』として接してくる。それが殷雷には嬉しくもあり、少し不安でもあった。
無駄な期待などさせないでくれと、何度森の中で独り思ったことか。
和穂は、殷雷の言葉に目を瞬かせてから悲しそうに眼を伏せた。またやってしまったと慌てる殷雷。しかし、とりあえず泣き出されることはなく、安堵する。
「じゃあ、殷雷はいつ休むの?」
「は?」
唐突なその台詞に、殷雷はぽかんと口を開ける。対する和穂は、まるで自分のことのように辛そうな表情をした。
「だって、ちゃんと休まないと疲れが取れないよ」
「いや、それは別に・・・」
「本当に?本当に殷雷は疲れてないの?」
何故こんなにも和穂が必死になるのか、殷雷にはわからなかった。ただ、彼が思うのは。
「・・・ああ。疲れてないから、お前は余計な心配しないでもう寝ろ」
ぽん、と和穂の頭に手を置いて、言う。
「・・・・・」
「和穂?」
ぽかんとして己を見上げてくる和穂を、殷雷が訝しげに覗き込む。普通なら、ここで子ども扱いするなと言う反応が返ってくるはずなのだが。何故か今回は驚いたような顔で殷雷を見上げている。
暫しして、それまで微動だにしなかった和穂はやっとぱちぱち瞬きをした。
「和穂」
再度殷雷が呼びかけて、和穂はぴくりと肩を震わせる。
「・・・っえ!?な、何?」
「まさかと思うが、寝ていたのではあるまいな?」
「へ?そんなわけないよ」
どうしてそんなことを言うの?とばかりの視線を向けられ、殷雷はどう答えたものかかなり迷った。
うと、と和穂の頭が傾ぐ。
「眠いのか?」
「・・・・・眠くないよ」
かくかくと舟を漕いでいて何を言う、と殷雷は思う。
結局、あれからまた色々と話をして、夜はかなり更けていた。卓を前に向かい合わせで座っているその光景は、少しお見合いに見えなくもない。
卓の上に湯飲みを置いて、殷雷はこっそりと溜め息を吐く。
こんな時まで、意地にならずともいいではないか、と。
「眠いなら寝ろ」
「・・・・眠くないもの」
「こんなことで強がってどうする」
「強がって、ないも・・・ん・・・」
十分強がっとるだろうが、と言う突っ込みはこの際置いておいて。殷雷は立ち上がると和穂の傍へ歩み寄った。
「お子様はもう寝る時間だ」
そう言って抱き上げると、和穂は不満そうに顔をしかめて身を捩った。殷雷自身を拒絶しているわけではないのだと、彼もわかってはいるのだが、少し胸が重くなる。
「子供じゃ、ないよぅ・・・」
弱々しく呟かれたその言葉に、影でどれほど安堵したことか。
「子供じゃないと言う内は子供だと言うだろう?」
「・・・でも、言わないと子供だって認めたことになるじゃない・・・」
「・・・まあ、それもそうだな。となると諦めるしかないか」
「うー・・・諦めたくないから、言ってるのに・・・」
歩きながらも和穂を落とさぬよう抱え直し、殷雷は呆れた顔で和穂を見やる。
「全く、何がそんなに気に喰わんのだ。俺とお前の生きてきた長さを比べたら、お前は十分子供だろうが」
言いながら、和穂の部屋へ入り、その身体を寝台に下ろしてやる。
和穂は、眉根を寄せて唇を噛んでいたが、抵抗することなく横になった。
布団をかけてやり、殷雷は傍にある椅子へ腰かける。このままいつぞやのように、和穂が寝るまで無言で見張る気だったのだが。
「・・・殷雷は、本当に寝なくていいの・・・?」
眠そうな声で呟かれた言葉に、殷雷は再び溜め息を吐く。
「しつこいぞ。俺は寝る必要などない」
「・・・じゃあ・・・朝まで、何してる、の・・・?」
「うるせい。いいからお前はさっさと寝ろ」
何故か怒り出す殷雷。しかしその理由を尋ねようというところまで、和穂の頭は回らない。今の和穂は、ただ思いつくことをぽつぽつと口にするだけで精一杯であった。
「・・・そんなの、やだよ・・・殷雷も、一緒に寝て・・・」
「っ・・・!!」
思わず叫びそうになった殷雷は、夜中だと言う事をなんとか思い出し、慌てて己の口を塞ぐ。
和穂は、重たそうに瞼を何度も上げ下げして、先を続けた。暗い部屋でも、人間ではない殷雷の目にははっきりとその姿が見えている。和穂の泣きそうな瞳も、全て。
「・・・・ずっと、起きたままじゃ・・・疲れちゃうよ・・・。だから、殷雷も・・・今日だけでも・・・休んで・・・」
本当に、和穂は頑固な性格をしていると殷雷は思う。こんな些細なことに、いちいちこだわらなくともいいではないか、とも。
そう思いつつも、彼の口は緩みきっていて、今にも視界は揺らぎそうだったのだが。
「ああ、そうだな。俺も寝るから、お前ももう寝やがれ」
「・・・ほん、と・・・?」
「おう」
「・・・・・・絶対、だよ・・・?」
「お、おう」
「・・・おやすみ、殷雷・・・」
「・・・ああ」
それから少しも経たぬうちに、和穂は静かな寝息をたて始めた。最初からこのように頷いておけばよかったのではないかと、殷雷はその寝顔を見ながら思う。
まあ、お陰で先ほど色々な言葉が聞けたのだが。
「・・・俺は十分ここで休ませてもらっているんだがな。これ以上何を休めと言うんだ?」
和穂の前髪に触れ、擦れた声で呟く。
もちろん、彼も武器という道具である以上、使ってもらいたいという欲求はある。しかし、彼は今の生活も嫌だとは思わなかった。むしろ、この環境から離れ難いとすら思っている。
本当に、武器に向かない性格だと、己自身が嫌と言うほど痛感しているのだ。治安のいいこの場所では、己が武器として役に立つ日など来ないのではないかと思う。
そうして殷雷は、たっぷりと和穂の寝顔を観賞し朝を迎えた。
「死ね。今すぐに塵と化せ。二度と和穂の視界に入る範囲に近付くな」
魔王と言う言葉が相応しいと誰もが思う、どす黒いオーラを撒き散らしながら帰宅した程穫は、そのままの勢いで殷雷に言い放った。ついでに今は早朝のため、和穂はまだ寝ている。
「帰るなり何を殺気立っとるんだお前は・・・!?」
和穂の部屋から少し離れた場所にある玄関とは言え、騒ぐわけにはいかないので殷雷は小声で叫ぶ。
「こんなことなら和穂も連れて行くべきだった・・・いやしかし無駄足になったのだから結局は意味がないか・・・」
平然と殷雷を無視して一人で何やら呟いている程穫に、殷雷は心配すら覚えて額に汗を浮かべた。
「お前は街まで何しに行ってたんだ?」
「・・・あの狸・・・よくもこの俺に偽情報を流してくれたな・・・」
「おい、程穫・・・?」
殷雷が再度声をかけると、程穫はぬらりと顔を上げて殷雷を睨んだ。その目は徹夜でもしてきたのか、かなり淀んで見える。
「貴様・・・護玄と手を組んで、俺と和穂を引き離そうとするとは、どこまでも卑劣な奴らめ」
「はあ!?」
「そこまでして和穂がほしいか。卑猥な幼女趣味の変態が」
「誰が変態だ!!っつうか護玄と手を組んだとは何の話だ!?」
「ほう、白を切る気か・・・卑怯者の上に腰抜けとはな。お前のようななまくらの前に、和穂を一晩も放置していたと思うと背筋が凍る」
「だから何の話をしとるんだお前はあぁあ!!」
「・・・おはよう殷雷・・・」
振り返った殷雷と身体を傾けて奥を見やる程穫が視線を向けた先には、喧騒によって無理やり起こされた和穂が眠そうに目を擦っていた。
「お、おう。すまんな、起こしたか」
先ほどの話をどこまで聞かれていたのかわからないため、殷雷はぎくしゃくと言う。
そして程穫は、先ほどまで出していた殺気をぴたりとなくし、和穂の元へと歩み寄った。但し、その表情はいまだ険しいままだったが。
まだ半分寝ていた和穂は、程穫が目の前に立ってからもぽかんとした顔で兄の顔を見るだけで。
『・・・』
暫し無言で見つめ合い、和穂が重たげに数度瞬きする。
「・・・・・に、ぃさん・・・?」
「何だ」
「・・・兄さん?」
「だから何だ」
「本当に兄さん?」
「お前の兄がこの俺以外にいるという話は聞いたことがないな」
すると和穂は、再び放心したような顔で兄を眺めてから、泣きそうな顔でへらりと笑った。
「お帰りなさい、兄さん・・・っ」
「・・・・・和穂」
「なあに?」
「それだけか?」
程穫の意味不明な言葉に、和穂と殷雷が同時に目を瞬かせる。が、和穂はすぐに気付いたようで、胸の前でぽんと手を合わせた。
「・・・あ、そうだった!ごめんなさい」
何がごめんなさいなのか、殷雷が尋ねる前にそれは判明する。
和穂は程穫にもう一度お帰りなさいと言うと、ぎゅうと力いっぱい兄へ抱きついた。
殷雷の脳裏に蘇るのは、昨日己がこの家へと来た時の光景。あれも同じく和穂が殷雷へと飛びついてきたのだ。『お帰りなさい』の一言と共に。
「お前の差し金かぁあっ!!」
殷雷が思わず涙目で突っ込む。何やらもう色々と悲しかった。ついでに殺されても口には出さないが、和穂にそう強請ることができる程穫の積極さが少し羨ましかった。
「差し金?わざわざ苦労して街まで出かけたんだ。これくらいの褒美があって当たり前だろうが」
「んな訳ないだろうが!ちうか、いつまでくっついとる気だ!!とっとと離れやがれ!!」
「うるさい。感動の再会を邪魔するな」
淡々と呟くと、程穫も和穂の身体に腕を回して抱き締め返す。
「数年ぶりにあった親子の対面ならまだしも、たった一晩だろうが!!」
「くだらんな。そんなものより、和穂と過ごす一晩の方がずっと重い」
「シスコンは黙ってろ!!」
そんなこんなで、色々と騒いではやはり共に食事をするという、いつもの生活が再び戻ってきたのだった。