記憶

月がない夜で、辺りはほとんど見えないも同然だった。しかし、何かがいることはわかる。
そして、それが酷く恐ろしいものだと言うことも、和穂にはわかっていた。

怖くて、身体の震えが止まらない。
やめて、と叫びたいのに声は出なくて。
何故、自分がこんな状況に陥っているのかは全くわからなかったが、このままではだめだと言う事はわかった。

たすけなきゃ。このままじゃ・・・

何がだめなのかもわからない。何を助けるのかもわからない。だが、行かなければならない。
恐怖に逆らい、駆け出した和穂はそのまま意識を失った。

「・・・・・・・・」
夢では泣いていなかったはずなのに、和穂は泣きながら目を覚ました。
そこは自分の寝台で、窓からは月の光が差し込んでいる。

身を起こして、今までの恐怖が夢だとわかった途端、更に涙が零れた。
声もなく、焦点の合わない視線を窓の方へ向けて、ただ涙を流す。

何かを求めるかのように、和穂は布団をきつく握り締めた。

□■□

五歳の頃から、和穂はよく悪夢にうなされるようになった。
暗闇の中に何かがいて、和穂はそれが怖くてたまらない。
しかし、自分はそこへ行かなければならない。
それはとても嫌なことだったが、このままここに座り込んでいるのはもっと嫌だ。
意を決して駆け出すと、その『何か』は和穂の方へと振り返り・・・

「かずほ」

「・・・・・」
今夜もまた泣きながら目を覚ました和穂は、己にかけられた声の方へ、焦点の合わない目をふらりと動かした。まだ五歳になったばかりの幼い身体は冷や汗で濡れて、指を動かすのも辛い。
「かずほ」
「・・・・・・・・・」
子供特有の、少し高めの声が再び和穂の耳へ届き、やっと和穂は『そちら』へ視線を向ける。
「かずほ」
「・・・・・か・・・く・・・?」
三度その声を聞いて、擦れた声を出し。
「ああ」

「・・・・・・てーかく・・・?」

四度目の声に、やっと和穂は目の前にいる兄を呼んだ。確認するかのように、少し語尾を上げて。
「ちゃんと、おきてるか?」
和穂の隣りに横になったまま、その手をしっかりと握り締め、程穫は毎夜繰り返してきた台詞を口にする。
「・・・ふぇ・・・う・・・っ」
「ゆめ、みたんだろ?」
兄の身体にしがみ付いて、くぐもった声で泣く和穂に、程穫はいつも通りに尋ねる。
すると和穂は、いつも通りにこくんと頷く。
「・・・・・」
程穫が無言で和穂の身体をきつく抱き締めた。身体の至るところに巻きつけられた包帯の下に残る、まだ塞がりきっていない傷が軋むように痛んだが、程穫は構わず腕に力をこめた。
兄の容赦ない抱擁に、和穂は小さく声を漏らす。しかし、嫌がったりはしない。そして和穂はくすんと鼻をすすりながら泣き止んだ。

和穂が泣き止むと同時に、程穫も和穂の身体に回していた腕を解いた。
程穫が寝台の傍に置いてある手拭いを取り、和穂の涙で濡れた顔を慣れた手つきで拭いてやる。目を閉じて大人しくしている和穂は、寝巻きが皺になるほど強く兄の袖を掴んでいた。

「もう、ねろ」
「・・・・・うん」
「みず、もってくるか?」
その問いに、和穂は弾かれたような勢いで大きく首を横に振った。
寝台に横になっているせいか、揺らいだ和穂の瞳からは、重力に負けてすぐに涙が零れていく。
「いかないで・・・っ」
兄の腕を掴んで、必死に訴える和穂。
その手は、包帯の上とは言え、最近できた腕の傷に触れて痛んだが、程穫は振りほどくこともせず、起こしかけていた上半身を再び寝台の上に戻した。
「わかった。ここに、いてやる」
「・・・ほんと?」
「ほんとだ」
「・・・・・ゆびきり、してくれる・・・?」

差し出された小指に、もう一つの小指が絡む。

「やくそく、だよ・・・」
「ああ。やぶったら、かずほにころされてやる」
「ころ・・・?」
「だから、かずほもおれのそばからはなれるな」
「うん・・・ずっと、いっしょに・・・いてね・・・」
指切りをしたまま、和穂は再び眠りに落ちた。
その寝顔をじっと見つめたまま、程穫は開いた片腕で和穂の身体を抱き寄せる。

今夜もまた治りかけた傷口が開いてしまったが、構わなかった。

幼い二人には、両親がいなかった。
五歳になったばかりの頃から、双子は二人きりで暮らしていた。

朝、和穂が目を覚ますとすぐに程穫と目が合った。
「・・・おはよう・・・てーかく・・・」
「おはよう」
寝起きのぼぉっとした意識の中で和穂が挨拶をすると、程穫はすぐに声を返して妹の額に口を押し付け熱を看た。兄の声は和穂を酷く安心させて、更に眠くなってしまったのだが、何とか身を起こす。
「あふ・・・ごはん、たべよう」
「そのまえにきがえて、かおをあらいにいくぞ」
「・・・はぁい・・・」
寝ぼけ眼でふらふらと着替え終えた和穂の手を引いて、程穫は自宅の傍にある森の中の小川へと向かった。

森に入ってすぐのところに、その小川はある。
村人たちは生活用水を別の池から調達しているのだが、森のすぐ傍にある双子の家からでは、こちらの方が近いのだ。
冷たい水に触れて、和穂もやっと意識がはっきりしてくる。
ぱしゃぱしゃと顔を洗う和穂の横で、程穫は大人の拳ほどの大きさはある石を、どぼんどぼんと川の中へ放り込んでいた。
暫く続けた結果、一匹の魚がぷかりと水面に浮かんだ。

珍しく取れた魚を手に、双子は家に戻った。

「顔を洗う時は、外に出ないで水瓶の方を使えといつも言ってるじゃないか!」
「まあまあ龍華、怒るな。ほら、和穂が怯えてるぞ」
双子が帰宅すると、そこには近所に住んでいる龍華と護玄がいた。
二人の仙人は、両親を亡くしたばかりの双子を気にして、毎日様子を見に来ているのだ。

「ご、ごめんなさい・・・」
「まあ、今回は許してやろう」
「今回はって、昨日も言ってなかったか?」
泣きそうな顔で謝る和穂を、あっさりと許す龍華に護玄が突っ込む。
涙目で見上げてくる和穂の頭を、撫でてやろうと龍華が手を伸ばしたその時。

べしりと生魚がその手に当たった。

「・・・・・」
「待て待て待て!!さすがにここでそれはまずい!!」
笑顔のまま符を取り出した龍華に、護玄が慌てて縋りつきながら止める。
何故護玄がそこまで取り乱すのかわからない和穂は何度も目を瞬かせ、そんな妹を庇うように抱き締めたまま、程穫は仙人たちを睨みつけていた。

普通ならば、両親を失った双子は誰かが引き取って育てるべきなのだろう。しかし、程穫が極端に他人が近付くことを嫌がったため、双子はそのままこの家で暮らしているのである。

「とにかくだ、今日はこの家で仙術をぶっ放すために来たんじゃないだろう?」
「ああ、そうだったね。すっかり忘れてたよ」
護玄の台詞に、やっと龍華が符を懐にしまう。そして、代わりに取り出したのは、一振りの随分と小さな刀だった。
興味深々にそれを見つめる和穂の前で、龍華はその刀に貼られた符をぺりりと剥がす。

するとそれは見る間に大きくなり、白い煙を噴出させて軽い爆発を起こした。

「今日からこいつに遊び相手になってもらいな」
「今度は上手くいくといいんだがなぁ・・・」
龍華の隣りでぼそりと呟いた護玄の声は、幸い誰も聞いていなかった。

白煙が晴れて、現れたのは一人の男だった。
何度も目を瞬かせる和穂と、そんな妹を抱き締めたまま険しい顔をしている程穫の前に歩み寄り、その男は笑みを浮かべる。

「えぇと、初めまして。僕は静嵐って言うんだけど、一体ここはどこなのかな?」

「一時間前に説明したことを忘れるな!!」
「げぶっほぁ!!」
「待ーて待て待て!!子供が見てるぞ!!」
静嵐を殴り飛ばして、更に追撃しようとする龍華を、またしても護玄が止めに入った。

「今日から子守をすることになりました。静嵐刀です。よろしく」
背後から龍華に睨みをきかされ、静嵐がかくかくと自己紹介し直した。
「はじめまして、かずほです」
初対面の相手に挨拶され、和穂は少し緊張したような面持ちを見せつつもきちんと頭を下げる。
「うんうん、初めまして。ちゃんと挨拶できて偉いね」
礼儀正しい少女に安堵したのか、静嵐がいつも通りの笑みを浮かべて手を伸ばし。

ごきりと石がその手に当たった。

「うわあぁああん!恵潤ーっ!!」
「待てコラ静嵐ーっ!!子供の投石くらいで逃げ出すなぁああ!!」
泣きじゃくりながら家を飛び出して行った静嵐を追って、龍華もその場から姿を消した。

「程穫よ・・・武器相手なら怪我はしないだろうが、普通の人間には拳大の石を投げつけてはいかんぞ」

一応窘める護玄の台詞を聞いているのかいないのか、程穫は険しい顔をしたままそっぽを向いた。

目の前の世界は、赤黒かった。

熱く、突き刺さるような痛みを覚える右目のみを閉じれば、視界は正常なものに戻る。
その視線を下に向けると、己にもたれかかる妹の髪が見えた。双子といえど、五歳の力では気絶している和穂を支えるには力が足りない。両腕は疲れ、痺れてきたが、程穫に和穂を手放す気はなかった。

腕の中でぐったりとしている和穂を、何度も呼んだ。動かない少女は、首の後ろから背中にかかる部分を真っ赤に染めて、それを支える程穫の手もじっとりと濡れていく。

自分など、捨て置いてくれればよかったのに。
逃げろと叫んで突き放した妹は、何故か再び戻ってきた。それに驚いて、自分の右目が切りつけられた痛みにすら始めは気付かなかった。

これは、ゆめだ。

毎夜見る、悪夢。もう過ぎ去った記憶。
そう己に言い聞かせる。目の前に迫る黒い影を、思い切り睨みつける。どうせすぐにこの夢は終わるのだから。

「・・・・・」
そして今夜も、程穫はいつもの時間に目を覚ました。窓の外はまだ暗く、月は高い。
濡れた手を目の前に持ち上げる。赤くないことを月明りで確認して、息を吐いた。身体も汗でぐっしょりと濡れている。
和穂が手伝ったとは言え、寝る前に五歳の子供が二人で巻いた包帯は、既に程穫の腕から外れかけていた。それには欠片も構わず、程穫は隣りに視線を向ける。そこでは、和穂がぎゅっと眉根を寄せて唇を噛んでいた。
いつもそうだった。程穫が夜中に起きると、必ず和穂も夢を見て泣いている。

「かずほ」

肩を揺すり、声をかけた。しかし和穂は、ぴくりとも反応しない。
何度も名を呼び、身体を揺さぶった。早く自分の元へ帰って来いとばかりに。

暫くして、やっと和穂が目を開ける。
焦点の合わない瞳がふらふらとさ迷っていて、それがまだ程穫を心許ない気持ちにさせた。
「かずほ」
すぐ傍で名を呼び、和穂を見つめる。すると、和穂はやっと程穫へと目を向けた。
「かずほ」
もう一度名を呼べば、和穂は僅かに口を動かす。それだけで、程穫は自分が呼ばれているのだとわかっていた。
「ああ」
「・・・・・・てーかく・・・?」
程穫が頷いてやれば、和穂は確認するかのようにもう一度名を呼んだ。
「ちゃんと、おきてるか?」
和穂を安心させるため、その手を握って声をかける。すると和穂は何度か目を瞬かせているうちに再び泣き出した。
「・・・ふぇ・・・う・・・っ」
「ゆめ、みたんだろ?」
昨日と同じように声をかければ、和穂は小さく頷いた。
縋りついてくる和穂の身体を、程穫もきつく抱き締めた。

□■□

「和穂」

久しぶりにあの悪夢を見て起きた夜。何となく幼い頃を思い出していた和穂は、声をかけられてやっと程穫が部屋に入ってきたことに気付いた。
返事をすることも忘れ、ぽかんとした顔で程穫を見やる和穂。怖い夢を見た直後の和穂はいつもこうだったことを、程穫は知っている。
すると程穫は何故か、和穂の布団をまくり、中へ潜り込もうとした。一人用の寝台に二人目が入ろうとしているのだから、流石に和穂も目を瞬かせて口を開く。
「ど、どうしたの兄さん?」
「寒いから暖を取りにきただけだ」
「・・・今日はあったかいよ?」
和穂が言うと、程穫は大袈裟な溜め息を吐いた。
「今のは建前に決まっているだろう。お前に欲情して夜這いに来たと正直に言ってほしいのか?」
平然とした態度で言う程穫。本気かどうかは怪しいが。

そして程穫は、まだ涙で濡れている和穂の頬を拭った。昔、和穂が夢を見て起きた時、いつもそうしていたように。

「・・・・・」
和穂は無性に兄を呼びたくなった。しかし、何と呼んでいいのかわからなくて口を噤む。代わりに、心の中で呼びかけた。
「何だ、和穂?」
すると、程穫はそれを聞き取ったかのごとくぴったりなタイミングで返事をする。
和穂は、驚いた顔で目を瞬かせた後、兄の身体にしがみ付いた。昔と違い、辛そうな泣き顔ではなく、嬉しそうに笑って。