冒険
異形の者は、人間に発音不可能な声を上げて、長い爪を振り下ろした。
和穂は油断ない目でそれを確認し、かわす。それはさながら舞い落ちる木の葉の如く。
攻撃を外しバランスを崩したそれの脇腹に、手にした『刀』を振り切る。
もはや声とは言えない音を立て、『魔物』は塵と消えた。
敵がいなくなったとたん、和穂の表情は一変して柔らかいものに変わった。
安堵の息を吐いて、その刀を宙へ放り投げる。
「ありがとう殷雷」
その声に反応するかのように、刀が白煙を伴う爆発を起こした。
現れたのは、一人の男。地に落ちていた鞘を拾うと、それは黒い外套となって彼に羽織られる。
「・・・これで今日何匹目だ」
「十五匹目だよ。どんどん増えているみたい」
怒りを押し殺すような殷雷の声。それに和穂は間もなく答える。
「さっさとあいつを倒さないと、これではきりがないな」
殷雷はこめかみを引きつらせると、誰にともなく呟いた。
和穂は『剣士』である。軽装で動きやすそうな白い服を見に付け、どことなく道士に見えなくもないが、本人は剣士だと言い張っている。
そして隣りを歩く殷雷は、彼女の武器であり、旅の供だった。かなり昔から『殷雷刀』は山奥で岩場に突き刺さっていたのだが、そこへやってきた和穂に引き抜かれたのである。以前は、『どんな怪力にも絶対引き抜けない刀』として近隣の村では有名だったのだ。そこへ、どう贔屓目に見ても一人旅などできなさそうな少女が来て、己を引き抜こうとしたのだから、殷雷は当然困惑した。今までは、腕っ節の強い男たちばかりだったし、子供がやって来られるような場所でもなかった。だから、この少女がここにいること自体、驚くべきことなのだ。
その上、この少女は意思が強いらしく、諦めると言うことを知らないかのように殷雷を引き続けた。手の皮が剥け、血が滲み始めたところで、彼の方が耐えられなくなったのである。
『わかったわかった!お前に抜かせてやるからもうやめろ!!』
和穂の心にそう言って初めて話しかけた時、彼女が浮かべた嬉しそうな笑みを、殷雷は決して忘れないだろう。
「しかし和穂よ。本当にその『魔王』とやらを倒せばこの魔物どもは消えるんだろうな」
殷雷を引き抜くなり、『魔王を倒すのに力を貸してほしい』と頼み込んできた和穂は、その時と同じ必死の表情を浮かべて頷く。
「うん。この山の頂上にいる魔王を倒せば、全て終わる」
「その魔王に勝てるかどうか、まだわからんぞ」
殷雷にしてみれば、何やら辛そうな顔をしている和穂を少しからかって、場を和ませようとしたのだが。
「・・・大丈夫。殷雷がいてくれれば」
「っ・・・・」
そう言ってふわりと微笑まれては、返す言葉もない。
魔物の跋扈する地、九遥山。襲いかかる敵を斬り続けながら、その道を進む和穂と殷雷。
「精が出ることだな」
二人に声がかけられたのは、和穂が三十六匹目の魔物を斬り捨てた直後だった。
「っ・・・!?」
魔物の殺気に紛れて、気配に気付かなかったのか。
殷雷は、舌打ちをして操っている和穂の身体を、声のした方へと向けた。
そこにいたのは、一人の男だった。まだ少年と言ってもいいその人物は、和穂によく似た少し太めの眉をぴくりと動かす。
細められた目は片方しかなかった。傷だらけの顔で、意志の強そうな黒い左目だけが、和穂を見つめている。
「来るなと言っただろう、和穂」
少女の名を、目の前の男が知っていたことに驚く殷雷。
『か、和穂。知り合いか?』
しかし和穂は殷雷の問いに答えない。代わりに上げたのは、今にも泣き出しそうな、声。
「程穫、もうやめて!」
程穫と呼ばれた男は、うっすらと頬を緩めた。まるで、名を呼ばれたことを喜んでいるかのように。
和穂は、程穫に向かって叫ぶ。
「どうしてこんなことをするの!?突然家を出て行ったりして、とても心配したのよ!!」
程穫は、ふと息を吐き出すように笑った。その視線は微動だにすることなく和穂へ向けられている。和穂の身体を操っている殷雷は、何故か酷く落ち着かなかった。
『おい和穂!あの偉そうな餓鬼は何者なのだ!?』
この感情は、突然敵を目の前にして緊張しているからだと己に言い聞かせ、和穂に尋ねる。
和穂は、暫し言葉を詰まらせ重そうに殷雷へ告げた。
『兄なの。私たち、双子の兄妹で・・・』
「和穂。よくあの親馬鹿共がお前が家から出ることを許したな」
和穂と殷雷の会話は、声に出さず行われていたため、程穫には聞こえない。殷雷へ事情を説明しようとした和穂は、兄の言葉にそれをやめた。
「それとも、何も言わずに出て来たのか?」
「・・・・・」
唇を噛んで俯いてしまった妹を見て、程穫は嬉しそうに笑った。悪戯が上手くいって、喜ぶ子供のように。
「そうか。そこまでしてこの兄を殺したかったのか」
「違う!私は、程穫にこんなことをやめてほしかったから・・・」
魔物を作り出し、人々を苦しめているのが自分の兄だと知って、和穂は深く傷ついた。だから、それを止めるために家を飛び出したのだ。
程穫を説得するつもりだった。たとえ、どれほど時間がかかろうとも、絶対に兄を止める。
つもり、だったのだが。
「そうだな。やめるか」
『・・・・・え?』
あっさりと、やめると言い放った程穫に、和穂も殷雷も付いていけなかった。
「や、やめるって・・・魔物を作ること?」
確認するために問う和穂に、程穫は頷く。微妙な一言と共に。
「ああ。お前が俺の元へ来たからな。もう必要ない」
『・・・・・和穂よ。俺には、まるでお前の兄貴が「実は妹を自分の元へおびき寄せるために魔物をばら撒いてました」と言っているように聞こえるのだが気のせいか?』
殷雷の重たげな問いに答えられず、和穂は頬に一筋汗を流した。
第一部・完
~第二部へ続く~
□■□
「・・・・・・・」
殷雷は、今にも手にしたものを引き裂きそうな勢いで震えていた。
「そんなに震えるほど感動したなんて、やっぱりあたしは天才ね!!」
「違ぁああぁあう!!」
隣りで喜ぶ深霜刀へ向かって、心の底から大絶叫する殷雷。手にした巻物が少しだけ破れた。
久しぶりに深霜がやって来たと思いきや、巻物を突き付け『読みなさい』と言われた。彼女曰く、『愛と悲しみの物語(三部作)』の第一部らしい。始めの一行から知り合いの名前が目に入り、しかもところどころで事実を語っているものだから、殷雷は激しく動揺した。同時に、腑に落ちない部分もたくさんあったのだが。
「何で俺が岩場に突き刺さってるんだよ」
「和穂との出会いが盛り上がるでしょ」
「何で和穂が剣士なんだよ」
「殷雷刀を取りに行くんだから、剣士の方が都合いいじゃない」
「何で程穫が魔王なんだよ」
「それは第二部のお楽しみよ」
「・・・この話のどこらへんがどう感動なんだ!?」
文学に触れたことがほとんどない彼は、自分がおかしいのか、旧知の刀の感性がおかしいのかわからず頭を抱えた。
「あら、引き裂かれた兄妹・片割れを求めて世界を敵に回す兄・そして再会。感動のポイントが目白押しじゃない」
「違う。絶対に違う」
「続きが読みたかったら現金払いで明日持ってくるけど」
「続きは金取るのかよ!?ちうか誰が払うか!!」
「意外と周りでは好評よ」
「・・・・は?」
「もう第三部の予約だって入ってるんだから」
嫌な予感が殷雷の胸中に広がる。まさか、まさかとは思うが。
「・・・・・・誰がそんなもん予約してるんだよ」
「それは第二部を買ったら教えてあげるわ」
刀のくせに、意外と商売上手だったのだなぁと殷雷は思った。
「ところで、いつの間に作家の真似事など始めたのだ。お前は刀だろうが」
「もう一月くらい前になるかしら、たまたま立ち寄った飲み屋に導果筆が」
「もういい。それ以上聞いてもわからないことがわかった」
疲れたような殷雷の声に、深霜刀は首を傾げた。