雪見
「兄さん!」
弾んだような声を上げて、和穂がぱたぱたと駆け寄って来た。普段より紅潮した和穂の頬を見て、程穫はまた熱でも出たのだろうかと、妹の頭を捕らえる。
「だ、大丈夫。元気だよ・・・ふゃっ」
その言葉を無視して、確認した和穂の体温はいつも通りだった。ならばこの頬は、和穂が興奮しているために赤くなっているのだろう。
何に対してそこまではしゃいでいるのか。とりあえず、程穫の胸中にじりじりと居心地悪いものが広がっていくのがわかった。
そして、その予感のようなものは見事に的中する。
「あのね、さっき外を見たら雪が降ってたの。初雪だよ!」
双子の暮らしているこの地域は、それほど寒い地域ではないためあまり雪は降らない。なので、雪が降るのは珍しいことだった。
そして、その珍しい雪が降った時、妹がどんな行動を取るのか、程穫は知り尽くしている。
「だから少しだけ」
「だめだ」
「・・・まだ最後まで言ってないよ」
「お前の言いたいことなら全部聞かなくともわかる。このくそ寒い中、外に出るなど自殺行為だ」
全てを口にする前に要求を却下され、和穂は太目の眉を八の字に寄せた。
去年も雪が降った時に似たようなことがあったので、恐らくだめだと言われるとは思っていたが、まさかこれほど早いとは。
だが、まだ諦めてはいなかった。一抹の希望をかけて、和穂は口を開く。
「そんなことないよ。ちゃんと温かい格好で行くもの」
「どれほど厚着をしようと、雪の中突っ立っていたら意味がない」
「なら、立っているだけじゃなくて、動き回っていればいいでしょう?」
「それで汗でもかいてみろ。かえって風邪を引くだろうが」
「この寒さじゃ汗なんてかかないよ」
「動き回って汗もかかないほど寒いなら、尚更出ないほうがいい。結局は熱を出して寝込むことになる」
「・・・・・」
厳しい目ではっきりと告げる兄に、和穂は口を噤んで俯いてしまった。
程穫の言うことは間違っていない。些細なことで体調を崩す自分は、この寒さで外に出たらきっと熱を出してしまう。
「・・・・・そうだね。また、兄さんに迷惑かけちゃう」
ごめんなさい、と和穂は呟くような声で謝った。
僅かな沈黙が双子の間に流れる。
程穫が、下を向いた和穂の髪に手を伸ばし。
「・・・か」
「ご飯の用意するね!今日は何が食べたい?」
程穫の声を遮って、和穂は満面の笑みで顔を上げた。
「かず・・・」
「あ、今日は寒いから鍋にしようよ!」
「和穂」
「肉鍋とか魚鍋はお肉も魚もないから無理だけど、野菜なら昨日殷雷が」
「和穂。聞け」
肩を掴み、鼻先が触れるほどに顔を近付けて。やっと和穂は口を閉じる。
「俺は、お前に迷惑をかけられた覚えはない」
それだけ言うと、程穫は和穂を放して寝室へと入って行った。
「・・・・・」
和穂がその部屋の扉を見つめ、唇を噛む。辛そうに細められた黒い瞳は、ゆらゆらと揺れていた。
数日前に降った雪は、もう跡形もなく溶けきっていた。
丁度おやつ時を迎えたからと言うわけではないのだが、程穫は読書の合間に飲むためのお茶を煎れていた。
ついでなので、自室で寛いでいるであろう和穂の分も煎れてやる。卓の上に二つの湯飲みを置いたその時、和穂の部屋から扉の開けられる音がした。
丁度いい、と程穫が振り返ったその瞬間。
「兄さん!」
先日、雪が降ったのだと語った声音よりもずっと明るい声で和穂が程穫を呼び、そして。
「・・・っ?」
ぎゅうっ、と音が立ちそうな勢いで、程穫は和穂に抱き締められた。
「・・・・・どうした」
滅多にないその状況下で、程穫は和穂の身体を抱き止め尋ねる。
「ううんっ、何でもないよ」
和穂から返されたのは、楽しそうな声とにこにことした笑顔。しかし程穫は溜め息を吐いて、和穂の緩んだ頬に触れる。
「お前がそう言う時は、何でも『ある』時だ」
何があったのか話せ、と言う程穫に、和穂は首を横に振る。浮かべた笑顔はそのままに。
「本当に、何でもないの」
程穫の手が、和穂の頬から放れて身体に回った。そして、もう逃がさないとばかりに力がこめられる。
「何もないのに、お前は俺に抱きついてきたのか。ならば俺は、このまま何も聞かずにお前を押し倒してもいいんだな?」
「へ・・・?」
和穂が目を瞬かせている間に、程穫はその身体を抱き上げ己の寝室へと運び込んだ。
寝台にそっと降ろされて、和穂は更に混乱した。兄の言葉を理解しようとして巡らせていた思考を止め、寝台に膝をついて上がってくる程穫に尋ねる。
「に、兄さん。ええと、あの、ど、どうしたの・・・?」
程穫は和穂の肩越しに手をついて、ふと笑った。その笑みに、和穂は何故か苦しくなって。
「別に、何もないさ。お前と同じだ、和穂」
「同じ・・・?」
「何もないと言って、お前は俺に抱きついた。だから俺も、何もないと言ってお前を抱く。それだけだ」
頬に触れ、首に触れ、程穫の手が和穂の着物に触れる。笑みを浮かべたままの兄の顔を、和穂はただ呆然と見ていた。
帯に手をかけ、程穫は自嘲気味に呟く。
「俺と口を聞きたくないのなら、もう何も言うな」
「違うの・・・っ!!」
和穂の声を無視して、程穫は着物の帯を引く。
兄の顔は笑っていても、その目は違った。そのことに気付いた和穂は、またしても程穫を怒らせてしまったと自分を責めた。雪が降った日、嬉しくてつい我がままを言ってしまったあの後のように。
「兄さんと話すのが嫌だなんて、思ってない!私いつも、いつも兄さんに迷惑ばかりかけているから、だから・・・っ」
「・・・だから、何だ」
帯を掴んでいた程穫の手が、和穂の目元に触れて。零れかけた涙をすくう。
くすんと鼻をすすり上げて、和穂はぽつぽつと事情を話し始めた。
要約すると、『この前兄に我がままを言って迷惑をかけてしまったので、何かお詫びができないか、と某知人に相談したところ、お前が笑顔で抱き付いていけば喜ぶ、と言われた』ためらしい。
「余計なことを・・・」
誰が言ったか知らないが、それを素直に実行する和穂も和穂である。今回は相手が自分だったからよかったものの・・・と、程穫は大きく溜め息を吐いた。
「ご、ごめんなさい」
不機嫌な程穫に、和穂は涙目で謝る。
「お前に言った訳じゃないさ。それに・・・」
「それに?」
「多少はいい思いもさせてもらった」
和穂の額に己の額を合わせて、今度こそ程穫はくすりと楽しそうに笑った。