悦び

太陽はまだ真上には遠い高さだった。辺りはうっすらと霧がかっていて、昨日の雨はもう止んでいる。
そんな時間に、殷雷は己がいる森を抜けたすぐのところに建っている、赤い屋根の家へと辿り着いた。

今頃は、和穂が朝食の準備でもしているだろう。
別に狙ってきた訳ではないのだ、と何故か自分自身に言い聞かせ、殷雷は双子宅の扉をいつものように断りなく開いた。

「あ、殷雷!」
するとそこには卓に着いてこちらに顔を向ける和穂の姿。その表情は、殷雷を認めた途端に綻ぶ。
しかし、殷雷はそれに気付くことなく固まっていた。
「・・・・・」
「殷雷?」
「・・・・・・・!!」
「い、殷雷、どうしたの?顔が真っ青だよ」
和穂が、様子のおかしい殷雷へ慌てて駆け寄ろうとして。

「ちょっと和穂、何を勝手に『あたしの』殷雷へ抱き付こうとしてんのよ」

「誰がお前のだぁああぁあ!!」
和穂の腕を掴んで引き止めている深霜に、殷雷は力いっぱい叫んだ。
しかし深霜は蒼白状態の殷雷には目もくれず、和穂を自分の隣りに座らせて何やら語り始める。
「いい?殷雷に抱き付いていいのはあたしだけなんだから」
「え!そうだったの!?」
「そうなのよ。だからあんたは自分の兄貴にでも抱き付いてなさい」
「えぇと、でもさっきは殷雷に抱き付こうとした訳じゃないんだけど」

「人の話を聞けよお前ら!ちうか深霜、何でたらめ吹き込んでやがる!!和穂、お前もころっと信じるな!!」

少し涙目になった殷雷が必死に訴えると、深霜は卓の上にあった箸と茶碗を手に取り殷雷を見上げた。
「あら殷雷、こんなところで会うなんて、あたしたちやっぱり運命で結ばれていたのね」
「飯を食いながら理解不能な台詞を吐くな」
「照れなくてもいいのに」
「どう贔屓目に見ても照れとらんだろうが!!」
恐らく和穂が作ったのであろう、卵焼きを口に含み、深霜はゆっくりと咀嚼する。その態度が殷雷の眉間に皺を増やす。
威嚇する猫の如く、髪を逆立てる殷雷を宥めようと、声をかけたのはもちろん和穂だった。
「えっと、殷雷もご飯食べて行ってよ。ね?」
その一言は、絶大な効果で殷雷を沈める。とりあえず深霜に言いたいことを飲み込んで、殷雷も和穂の向かいに腰かけた。
「・・・お前はもう食ったのか?」
「ううん。兄さんが帰って来てから食べようと思って」
そう言われて、やっと殷雷は程穫がいないことに気付いた。
「そういや程穫はどうした?また草取りか」
「うーん、そ、そうとも言うかな。薬草も草だよね」
程穫は毎朝、森へ薬草を採りに行っている。それで双子は生計をたてているのだが、この時間になっても程穫が戻らないのは珍しい。
殷雷がそう言ってやると、和穂は少し困ったように笑った。
「きっと昨日は雨が降ったから、歩き辛くて遅くなってるんだと思う」
「そう言うものなのか」
「うん、たぶん」
殷雷の分の食事を用意するために、そこで和穂は席を立った。そして残される殷雷と深霜。彼女は珍しく黙々と和穂の作った朝食を口にしている。

「・・・それで、お前は何をしに来たんだ?」

何故か少し気まずさを覚えて、居心地悪そうに殷雷の髪先が動く。双子宅で深霜と顔を合わせるのは初めてだった。
深霜が箸と茶碗を置き、手を組んで殷雷を上目遣いに見やる。
「もちろん、殷雷に会うために決まってるじゃない」
「嘘を吐け」
「嘘じゃないわよ。殷雷が毎日ここに通ってるって聞いたんだから」
「べっ、別に毎日通ってる訳じゃ・・・!!」
「通ってることは否定しないのね。ま、会えたら手間が省けるくらいに思ってたんだけど、本当に来るとは思わなかったわ」
「・・・手間?」
訝しげな顔をする殷雷の前に、どどんと置かれたのはどこかで見覚えのある巻物。

「第三部が書き上がったんだけど、買わない?」

暫し前より、深霜は文章を書くことに目覚めたらしく、作家のようなことをしていた。殷雷も彼女の作品を読んだことがあるのだが、今回の話はその続編らしい。
「・・・お前、まだ続けてたのか」
その根性に、殷雷は感動すら覚えた。本来は刀として人に使われるべき彼女が、道具の業以外のことに手を出すのは難しいはず・・・そう思う殷雷刀自身も、情に脆いという性格のせいでろくに刀らしいことはしていなかったりするのだが。
「まあね。読み手も増えたし、途中でやめたら皆が可哀相じゃない」
「よ、読み手が増えてるのか!?あの話で!?」
「殷雷ったら、あたしにファンが増えちゃったからって、妬かなくても平気よ。あたしの心はあなただけのもの、なんだからぁ」
「いででででっ!!」
にこにこと素早く関節技を決めてくる深霜刀。彼女の実力は衰えていない(微妙に刀の能力とはずれているが)と、身をもって思い知らされた殷雷だった。

和穂が、殷雷の分の食事を持って戻って来た。
「はい、どうぞ」
「おう」
「お替りもあるから、言ってね」
笑顔で言う和穂に、もう食べ始めていた殷雷が頷く。深霜が、大きく溜め息を吐いて。
「すっかり餌付けされちゃったのね」
「っぐ・・・げほごほ!!」
危うく朝食を吹き出すところを、何とか堪えて。しかし衝撃は強かったらしく、大きく咳き込む殷雷。
和穂が慌てて駆け寄り、殷雷の背を擦る。
「い、殷雷。大丈夫?」
「ちょっと和穂。何あたしの殷雷に触ってんのよ」
「げっほごほがほ!!」
咳き込みながら、殷雷が何やら抗議するが、和穂を背後から羽交い絞めにしてお説教している深霜は聞く耳持たず。

「あんたね、いい加減に殷雷はあたしのものだってことを理解しなさい」
「い、いたた。深霜、肩がすごく痛いんだけど」
「当たり前よ。痛くしてるんだから」
後ろから抱き着いているように見せかけて、実は関節技の一種らしい。深霜が顔を和穂の頬に寄せる。頬が触れた途端、和穂は目を見開いた。
「冷たい冷たい!」
「あら、頬が冷たい人は心が温かいって言葉を知らないの?」
冷気を発することのできる深霜は、和穂に頬を触れ合わせたまま更に笑みを深めた。
咳が収まりかけた殷雷は、霜焼け寸前になっている和穂に気付いて慌てて立ち上がり。

「俺の和穂に何をしている・・・」

地の底から響いてくるような声に、三人は揃って玄関の扉を見やった。
そこにはもちろん、薬草採りから帰って来た程穫の姿。
「兄さん!お帰りなさい」
深霜に捕まったまま、和穂が顔を綻ばせる。その頬が赤いのは、深霜が放った冷気のためか。
嬉しそうな和穂に反して、刀二人は眉間に皺を寄せ視線を逸らし小さく舌打ちをした。
「もう帰って来やがったか・・・」
ぼそりと呟いた殷雷に気付いているのかいないのか、目もくれずに妹の元へ歩み寄る程穫。そしていつものように、深霜から引き剥がす勢いで和穂を取り返す。
「俺がいない時に、おかしな輩を家に入れるなと言っているだろう」
和穂の頬に触れ、痛くないかと尋ねる程穫。
「痛くないよ。えと、殷雷も深霜もおかしくないから・・・」
「どこから見てもおかしいだろう。あんな危険生物どもに近付くな。お前の身が危ない」
『誰が危険生物だ』
刀二人の突っ込みは、もちろん程穫に聞き入れられなかった。
「あ、兄さん。ご飯すぐに用意するから、ちょっと待っててね」
和穂が炊事場に行こうとすると、その手を程穫が掴む。しかし程穫の目は、和穂ではなく食卓の上にある食べかけの食事に向けられていた。
「お前は、もう食べ終えたのか」
卓を見たまま尋ねる程穫に、和穂は目を瞬かせつつも首を横に振った。
「ううん、まだ食べてないよ。兄さんが来てから一緒に食べようと思って」
「・・・・・そうか」
小さく呟くように言うと、程穫は和穂の手を放した。

「和穂」
「はい、お醤油」
和穂が醤油の入った瓶を手渡す。受け取った程穫は、それを焼き魚に少しだけ垂らす。

「和穂」
「ん?あ、おかわりね。半分くらいでいい?」
「ああ」
空になった茶碗を受け取り、ご飯をよそってから程穫へ返す。

「どこの亭主関白だ、お前は・・・」
「違うわよ殷雷、亭主関白は名前呼びじゃなくて、『お前』って言うのが相場なんだから」
ジト目の殷雷に訴える深霜。既に食事の終わっていた二人は、お茶をすすりつつ双子の食事風景を眺めていた。
「貴様ら、さっさと失せろ」
程穫が、先ほど醤油を受け取っていた時とは別人のような顔で吐き捨てる。しかし、殺気だった視線に怯むようでは武器失格なので、二人とも全く動揺していない。例外もないとは言わないが
「ところで和穂、あんたこの前の件は上手く行ったの?」
程穫を無視してかけられた深霜の問いに、和穂が軽く喉を詰まらせた。けふんけふんと咳き込む和穂に、すかさず程穫がその背を擦ってやる。
「この前・・・?何の話だ」
訝しげな顔をする殷雷、和穂を介抱していた程穫も、話の内容はわからない。
「うふふ、気になる?」
深霜が含みたっぷりに言う。咳き込む和穂の背を擦る程穫は、何も言わない。さっさと吐け、と殷雷が凄むが、深霜は楽しそうに笑うだけで。
けふこふ、と和穂の咳が響く。
「深霜!」
殷雷が更に殺気立った。
「わかったわよ、んもう、そんなに和穂の悩みが気になるの?」
「・・・っいや、別に俺は」
「はいはい、気になるのね」
そこまで態度に表しておきながら、まだ殷雷は渋る。
「違うと言っとるだろうが・・・!」
「やぁね、あたしにやきもち妬かれるのがそんなに耐えられないの?」
「・・・まあ、ある意味そうだな」
過去に何があったのか、殷雷は青ざめて呟いた。
「もお、照れちゃうじゃない」
微妙に食い違った会話が成り立ってしまい、殷雷が突っ込むべきか迷った直後。

「何しとるんだおまえは!」

彼が突っ込んだのは、和穂を抱き上げて寝室に連れ込もうとしている程穫だった。
和穂は、まだけふけふと咳き込んでいる。あまりに長いので、さすがに殷雷たちも気になり始めていた。
「貴様等が騒ぐから、和穂の咳が止まらなくなったんだ」
冷徹な視線を向け、吐き捨てるように言う程穫。
「相変わらず和穂のことになると八つ当りが酷いわね」
「死んで詫びろ」
「この程度はいつものことだ」
「・・・」
刀二人に無視され、これ以上何か言っても無駄だと判断した程穫は、和穂を抱えて彼女の寝室へ入っていった。

寝台へ寝かせてやると、和穂の咳は少し納まった。咳のし過ぎで声が擦れてしまった和穂の額に、唇で触れる。咳のせいではなく、和穂の肩が震えた。
伝わる温もりは普段より、少し熱い。
「・・・微熱があるな」
確認するかのように、程穫が呟く。

そして、和穂の咳が収まるのを待ってから、彼は再び口を開いた。
「熱が出た時は、すぐに言えと言ったはずだ」
「・・・っ」
口を開きかけた和穂を、程穫の手が止める。
「話すな。咳が止まらなくなるといつも言っているだろう」
淡々としつつも、柔らかいその声音に、和穂は瞳を揺らがせた。

和穂は身体が弱い。昨日夜中、急に冷え込んだので、体調が崩れたのはそのせいだろう。彼が朝に熱を看た時は普段通りだったのだが、恐らく朝食の支度をしている間に熱が上がったのだろう。そして先ほど咳き込んだのをきっかけに、喉も痛めてしまったようだ。余計なことを、と程穫はもう一度胸中で殷雷たちに悪態を吐いた。彼らが来なければ、和穂も無理をして起きてはいなかっただろうに。赤味が深くなってきた和穂の頬に触れる。そこは普段よりぷくりと膨れていて。無理やり寝かせたことに抗議しているのか。

「ちょっと、平気なの?」
「何がだ?」
閉められた寝室の扉へ視線を向けながら、深霜が小声で言う。
「今頃襲われてるんじゃない?」
「・・・そう考えるのも仕方ないとは思うが、平気だ。具合が悪いところをどうこうするほど、あいつも落ちぶれてはいない」
「殷雷」
「何だ」
「目が泳いでるわよ」
「・・・うるせい」
そわそわとしながら、殷雷たちは待ち続けるのだった。

「・・・っ」
和穂は言いたかった。しかし兄は話すなと言う。自分の考えを伝えたくて、わかってほしくて、和穂は、手拭いを濡らす程穫をじっと見つめる。和穂の額に手拭いを乗せ、程穫は妹の必死な瞳を見返した。
「何がほしい」
「・・・っ」
和穂は首を小さく横に振る。その動きだけで、また小さく咳き込んで。ずれた手拭いを程穫が元に戻す。

「水か?」
「・・・」
「着替えたいのか?」
「・・・っ」

一つ一つ、妹が望みそうなものを上げて尋ねる程穫。しかしそのどれにも和穂は首を少し左右に動かすだけで。できるだけ和穂には声を出させず済ませたかったが、そうもいかないと程穫は判断した。

「和穂。何がほしいか言ってみろ」

和穂があまり大きな声を出さずに済むよう、すぐ傍まで顔を寄せ言った。兄の片目を見返して、和穂は苦しそうに顔を歪ませる。程穫はそれを喉が辛いことによるものだと思った。生憎、その読みは半分しか当たっていなかったのだが。
「何がほしいんだ」
もう一度、囁くように尋ねると、和穂の瞳は更に揺らいで。やっと開いた唇は、擦れた声を発した。

「・・・兄さん」

ぽつりと零したその言葉に、程穫は珍しく目を見開く。己の聞き間違いか、勘違いではないかと、彼が直前の記憶を思い返しかけた時。

「・・・だい、じょぶだよ。何も、いらない。これで、もう、十分だか、ら・・・」

「・・・そうか」
妙な空虚感に教われ、程穫は溜め息と共に倒していた身体を起こした。離れていく気配は、更に彼の空洞を押し広げる。

薬を作ってくると言い残して、程穫は寝室を後にした。
一人になって、和穂は堪えていた咳を小さく吐き出す。何度咳をしても、楽にはならなかった。むしろ、胸は苦しくなるばかりで。
兄に迷惑をかけたくなくて、何もいらないと言った。本当は、水がほしかったのだが、これ以上兄の負担になりたくなくて。しかし、いらないと伝えると程穫は少し妙な表情をした。あてが外れたとでもいいたげな、怒りとも悲しみともつかないような。むしろ、その両方だったのかもしれない。
また、兄に不快な思いをさせてしまったと、和穂は更に落ち込む。寝込むとどこまでもマイナス思考になってしまって。そんな自分が嫌で嫌で、悪循環に陥るのが彼女の常であった。布団に潜り込んで、滲んだ視界を何度も擦る。
「兄さん・・・」
ごめんなさい、と和穂は小声で呟き、また咳き込んだ。

部屋から出てきた程穫を、殷雷と深霜は早速呼び止め和穂の具合を尋ねた。しかし。

「騒がしい。失せろ」

「っ・・・このガキ」
「人が心配してるって言うのに・・・」
殺気立つ二人を無視して、程穫は薬を作るべく己の部屋へ入っていった。彼の発する空気は、どこか八つ当たりにも似ていたりする。
事実、そうだったのかもしれないが。

小さく喉を鳴らして、和穂が薬を飲む。乳白色のとろみがついたそれは、程穫が調合したものでそれなりに苦かった。
「ゆっくり飲め。咽るぞ」
「んっ、けほ、ぇふ・・・っ」
ほら見ろとばかりに、程穫が溜め息を吐いて和穂の背を軽く叩いた。咳止めの薬を飲んで咳き込んでいては意味がない。
暫くしてやっと咳が収まった和穂は、湯呑みの底に少しだけ残っていた薬も飲み干した。それを確認してから、程穫は湯呑みを片付けようと腕を伸ばし。

突然、和穂にしがみつかれて動きを止めた。

「・・・また、誰かに吹き込まれたのか?」
つい先日、和穂は某知人とやらに「兄貴を喜ばせたいなら笑顔で抱きつけ」とアドバイスを受けたことがあった。素直にそれを実行した和穂だったが、効果はそれなりにあったようで。
しかし和穂は程穫の着物に顔を埋めたまま、そうではないのだと首を横に振る。程穫からは見えないが、発せられる空気がどことなく不安そうに感じられた。
その仕草が本意なのか、程穫には窺い知れない。そんな己に溜め息を吐いて、程穫はくしゃりと和穂の髪を撫でる。
「別に俺の機嫌は悪くない」
「・・・」
和穂は、程穫の胸元で何やら呟いた。くぐもったその声を聞き取れず、程穫はもう一度と促す。
耳元の髪をかき上げ、幾分緊張している身体を解させるようにそっと囁いた。

「何だ?」
「・・・・・・い?」

まだ聞き取れない声で呟く和穂の腕に力が籠もる。しがみ付くと言うより、縋りつくようなその仕草。
程穫は僅かに息苦しさを覚えたが、不快には感じなかった。むしろこうして遠慮しない和穂の態度を、嬉しいとすら思った。和穂はいつも、自分に遠慮しているような節があったから。迷惑ばかりかけて、申し訳ないといつも辛そうに瞳を潤ませて言っていたから。
程穫は、和穂の身体に腕を伸ばしてそっと抱き返す。包み込むように、ゆっくりと腕に力を入れた。

「してほしいことがあるなら、言え」

耳に鼻先で触れて、小さく囁いた。兄の服を掴んでいた和穂の手が、ぴくんと震える。やっと上げられた顔は、熱のせいもあるのだろうがひどく上気しているように見えた。
「・・・随分、赤いな」
呟いて、確認するように頬に触れると、和穂はぎゅっと目を瞑る。その仕草に、程穫は思わず苦笑してしまった。

「兄さん・・・?」

突然、くつくつと堪えるように笑い出した兄を、困惑して見上げる和穂。こんなに笑う兄を見たのは久しぶりである。何故、兄はこんなにもおかしそうなのだろうか。
考えて考えて、和穂が出した結論は。

「私、そんなに変な顔してる・・・?」

だから兄は笑いが止まらないのだろうか。
眉を八の字にする和穂に、やっと笑いの収まってきた程穫が、そうではないと呟く。

「嬉しくて溜まらないだけだ。まあ、自覚がないところが少し残念だがな」

こつんと額を合わせると、互いの体温が伝わって酷くほっとした。

「本当に平気なのだろうな・・・」
眉間に寄っている皺は、疑いを隠そうともせずじろりと和穂をねめつけた。
「うん、本当にもう大丈夫だよ」
殷雷の機嫌が悪いのは、心配してくれているからなのだと、長年の付き合いでわかっている和穂は、それを申し訳なくも思い、嬉しくも思う。
「ありがとう殷雷。折角来てくれたのにごめんね」
「そんなことはいい。とにかく、もう一段落したんだな?」
「うん。兄さんの薬を飲んだから、咳も止まったし。熱も寝ていれば下がるよ」
和穂の言葉に相槌を打ちつつも、殷雷の表情は何故か晴れない。耐えられなくなった深霜が、殷雷の背にしなだれかかったまま口を開く。
「はいはい、いちゃいちゃするのもそこら辺にしてくれる?」
『してない』
「・・・何で程穫まで突っ込むのかは聞かないでおくわ。それより殷雷、何をそんなに気にしてるのよ?本人が平気だって言ってるんだからいいじゃない」
その言葉に、殷雷が珍しく困った表情を露にした。
言えなくて困るというより、何と言えばいいのかわからない、と言った感じだ。
「いや・・・何でもない」
「・・・殷雷?」
和穂が不安そうな顔をした直後、程穫が口を開く。
「何もないならさっさと帰れ」
その声は、普段よりずっと低く、重い。

□■□

「和穂のことになると、恐ろしいまでに素早いわよね」
双子宅からの帰り道、深霜が呆れたように呟いた。深霜を腕から振りほどこうと抵抗しつつ、殷雷は溜め息を吐く。
「あいつの原動力は九割方和穂関係だからな」
深霜は、それを聞いて深く頷く。
「程穫もそうだけど、殷雷もね」
「っな!俺は・・・!!」
「んで、和穂の何がおかしかったの?あたしにはいつも通りにしか見えなかったけれど」
反論する前に話を進められ、殷雷は口を半開きにしたまま固まっていた。
「ねえ、聞いてる?」
「・・・・・・聞いとるから離れろ」
口で言っても、深霜にやめる気はないらしい。早く話せと催促され、殷雷は腕を必死に動かしつつ空いた手で頭を掻く。
「何がおかしいと言われてもな・・・」
「んじゃ何よ、殷雷はいつも和穂が寝込む度にそうやってしつこく平気か聞いてる訳?あんまりしつこいと嫌われるわよ」
「お前にだけは言われたくない気がするが、そんな訳ないだろう。ただ・・・」
「ただ?」
殷雷は、視線を僅かにふらつかせて、それを隠すように目を閉じた。暗闇に思い出されるのは、先ほど見た和穂の表情。どこか、違和感を覚えた。何かが、胸に引っかかった。その直後は原因がわかっていたような気がするのに、和穂の声を聞いた途端、綺麗に消え去ってしまった。残るのは、このもやもやとした感情のみ。

「・・・っだぁあ!わからん!思い出せん!!」
「殷雷・・・とうとう痴呆?」
「違うわ!」
「一応、龍華のとこに寄っていく?」
「行かん!」

□■□

殷雷たちが帰ったので、和穂はおとなしく布団に潜っていた。そして、時々ちらりと兄を見やっては慌てて視線をそらす。
水の入った桶を見ている程穫は、気付いていないらしい。手拭いを濡らして固く絞り、形を整えてから和穂の額に乗せる。
ひんやりとした感触に、和穂は目を閉じて頬を緩めた。そして、目蓋を上げると兄の顔が目に入る。困ったように、和穂の視線は揺れた。
「に、兄さん」
「何だ」
「・・・え、えと、さっき、嬉しいことがあったって言ったよね」
「ああ」

「そ、それって、何?」

和穂は、先ほどからそれが気になって仕方なかった。あの時、嬉しいのだと言って笑ってから、兄はずっと機嫌がいい。それは和穂にとっても歓迎すべき状況なのだが・・・一体、何が嬉しかったのだろう。兄が喜んでくれるならば、努力は惜しまないと考えている彼女は、ぜひともその理由を知りたいのであった。

「そんなに知りたいのか?」
程穫の言葉に、和穂は布団に身を横たえたまま深く深く頷く。布団の端から覗く両手も、ぎゅうと握られていて。
「うん。だって、兄さんが嬉しいって思うことなら私、何でもしたいもの」
真剣な表情で、必死さすら伺える声で、はっきりと告げる和穂に、程穫は暫し微動だにしなかった。

「・・・兄さん?」
何も言ってくれない兄に、和穂の不安げな声がかけられる。また兄を怒らせたり困らせたりしてしまったのではないかと思うと、彼女は気が気ではなかった。
和穂の声に小さく指を動かした程穫は、一度目を閉じて何やら考え込んだ後、和穂へ視線を移した。その表情は、何故か険しい。
やはり怒らせてしまったのかと、和穂が瞳を潤ませると。

「その言葉・・・他の奴らには言ってないだろうな」

「え?」
「今お前が言った台詞を、なまくらだの馬鹿仙人どもだのには言っていないのかと聞いている」
「え、えぇと、うん、言ってないよ」
かくかくと頷く和穂。確かに、そう言った台詞を口にしたのは兄が初めてである。思い出せる範囲内では。
和穂が答えたのを確認して、程穫は寝台に手をつき深く深く息を吐いた。どこか、安心したとでも言いたげに。
「・・・そうか」
「に、兄さん・・・」
「和穂」
「は、はい」
今度は何を問われるのかと、和穂が身を固くする。しかし、次に言われたのは質問ではなかった。

「その台詞、他の奴らには使うなよ」

「・・・へ?」
「まして、なまくらなんぞには決して言うな。何をしでかすかわからんからな」
「何で?」
「とにかく、今の言葉は俺の前以外で口にするな」
「だから何で?」
和穂が食い下がると、程穫は数秒思案する様な仕草を見せた。

「・・・それが、俺の喜ぶ条件の一つだから、だ」

また自分にはわからない理屈が出てきた、と和穂は思った。
「えと、私がさっき言った言葉って言うのは『兄さんが嬉しいって思うことなら、何でもしたい』ってやつのこと?」
「ああ」
「それを兄さん以外の人の前で言わなかったら、兄さんは嬉しいの?」
「そうだ」
「兄さんの前なら言ってもいいんだよね?」
「わかっているじゃないか」
「うぅ・・・でも何でかわからないよ」
布団の端に口元を埋めて眉をしかめる和穂に、程穫は口元を緩めたまま何かを差し出す。
「・・・あ、それって!」
「今朝、森で見つけた」
程穫の指に摘まれた、黄色いそれを和穂の大きく開かれた瞳が映す。
「ほしいか?」
「う、うん!ほしいです!」
それは幼い頃、森で兄が採ってきて和穂に与えたものだった。甘いそれを、和穂はいたく気に入ったようで。
「では、約束だ。『俺の前だけで、その台詞は使うこと』。理由は気にせず。いいな?」
「う・・・」
「俺が食べてもいいんだが」
「た、食べたい・・・」
「約束は?」
「・・・します」
「いい子だ」

にっこりと笑って、程穫は手にした木苺を和穂の口に放り込んでやった。