変化

朝、程穫は日の出前に目を覚ました。
梅雨明けが近い最近は蒸し暑い。だがこの時間は、窓を開けると冷えた空気が室内に流れ込んできた。
窓は開け放ったまま、程穫はいつものように隣りの部屋へ向かう。

閉めきられた和穂の部屋も暑かった。
しかし、布団から和穂が飛び出していることはなかった。それどころか髪の毛一本出ていない。と言うか、気配はするのだが和穂が布団の中にいるように見えない。程穫は眉をひそめながら布団に手をかける。そして、捲り上げたそこにいた妹を凝視して、程穫は暫し硬直した。

「ま、待ってよ、流麗さんっ」
絡み付く細い腕から逃れようと、綜現は必死で手足をばたつかせた。
しかし、己よりずっと背の高い流麗から逃れることは至難の技で。
「・・・大丈夫よ。痛くはないわ・・・きっと」
「き、きっと、ってことは痛いかもしれないんじゃ・・・!?」
「男と女は感じ方も違うのよ」
綜現の顔色が、真っ青から真っ白に変わる。

「う、嘘だ!薬に男も女も関係ないよ!」

目の前に突き付けられた赤黒い液体が、ゴボリと泡立った。流麗に突然捕らえられ、その怪しげな薬を飲むよう命じられたのは夜更け過ぎ。最早、夜はとっくに明け、太陽が昇り始めている。
「・・・・・・性別が関係ある薬も世の中にはあるの」
「今ちょっとためらったよね!?間が空いたよね!?」
「・・・私はいつもこういう話し方よ・・・ほら、思い切って飲んでみなさい」
「嫌だよう!」
「・・・何故?」
反論の機会を与えられ、綜現は拳を握り締めて力説した。
「だ、だって流麗さん、なんの薬か説明してくれないし!それに僕、どこも悪くないから薬なんて必要ないし!ていうか僕、人間じゃなくて燭台なんだから!」
ここで怯んだら、あの怪しげな液体を飲まなくてはならない。それを回避するため、綜現は必死だった。
「・・・悪いとか、人間だとかは関係ないのよ・・・最初に言ったでしょう?飲んだら幸せになれる薬だって」
「そもそもそれが、あからさまに怪しいよ!」
「・・・綜現は、私の作った薬だから嫌なのね・・・だから飲んでくれないんでしょう」
「うっ・・・」
流麗の瞳が哀しげに伏せられる。綜現が息を詰まらせた。
まさか、その通りですとは言える訳もない。

人間ではなく、織り機である流麗は、よく不思議な薬や道具を作っては綜現に使わせようとする。それで色々と大変な目に遭っている綜現は、今回も何かあるのではないかと酷く警戒していた。

「・・・和穂は、程穫の作った薬を素直に飲むわ」

「え?」
突如出てきた知り合いの名前に、綜現はその光を湛えた目を瞬かせる。
「・・・なのに貴方は、私の作った薬は飲んでくれないのね・・・」
「えぇと、和穂さんが飲んでるのは熱冷ましとか風邪薬とかだよね。さっきも言ったけど、僕は病気じゃないし。それにその薬、また開発中で試しに飲ませてみようとか言うんじゃ・・・」
「・・・大丈夫。もう毒味は済ませてあるわ」
「毒味って・・・!?」
綜現が本気で逃げ出さねばと決意したその時。かなりの轟音を立てて、玄関の扉が叩かれた、と言うか破られた。

突然の来客から感じる刺すような殺気に、綜現は身体を震わせ流麗へとしがみつく。
「解毒剤を寄越せ・・・」
地の底から響くような声に、綜現は泣きながら助けて下さいと叫んだ。
直後、後頭部に鋭い一撃。目の前に火花が散って、綜現は昏倒する。
「・・・落ち着きなさい綜現。そんな態度では私を守れないわ」
容赦ない手刀を放った流麗は、淡々と言い放つ。ぐったりとしている綜現に、彼女の声は届かない。

「・・・それで、何をしに来たのかしら」
突然の来客に、流麗は綜現以外に向ける冷たい視線を浴びせた。
しかし相手も負けず劣らずの不快気な目付きで返す。
「言っただろう、解毒剤を寄越せ」

小脇に白い布で包んだ小物を抱え、程穫は更に殺気立った声で言った。

「解毒剤と言っても何種類もあるのだけれど」
「ふざけるな・・・貴様の仕業だと言うことはわかっている」
意識を取り戻した綜現が、一触即発の雰囲気にまたしても瞳を潤ませる。ものすごく怒っている程穫は怖くてたまらないが、このまま流麗に守られている訳にはいかない。意を決して、綜現は口を開いた。
「て、程穫さんっ、いい、一体どうしたんですか?えと、流麗さんが誰かに毒を・・・?」
裏返った声で尋ねると、流麗が溜め息を吐いた。
「・・・私が何かしたと言うのなら、その証拠を見せなさい。貴方のことだから、大事に抱えているんでしょう」
流麗の視線は、程穫の持つ白い包みに向けられていた。
それにつられて綜現も目を向けると。
「あっ・・・」
包みがもそもそと動いていることに気付いて、綜現が声を上げる。

そして、布の隙間からひょこりと小さな手が飛び出した。

赤ん坊にしては、小さい。第一、程穫の持つ包みは、子猫ほどの大きさしかないのだから。
「にゃー」
そんなことを綜現が考えていたら、本当に子猫の声がした。赤ん坊より更に小さい手の覗く包みの中から。
しかしそれに驚いているのは綜現だけである。
「流麗さん!ど、どういうこと!?」
流麗は呆れた視線を向けた。
「見ればわかるじゃない」
「見ればって・・・」
言われた通りに再度視線を向けると、白い布からは子猫ほどの大きさになった人間が見えた。しかも猫のような耳と尻尾が付いている。
綜現は唖然として、その風変わりな見た目になった知り合いの名を呼んだ。

「っか、和穂さん・・・!?」

「にぁー」
呼びかけに答えるかの如く、和穂は尻尾を揺らして鳴いた。
「え、えぇっ、ど、どういうことなの、流麗さん!?」
「・・・見てわからないの?和穂が半端な猫になったのよ」
「それはわかるよ!でもどうして・・・」
「その女に毒を盛られたからに決まっているだろうが」
もがく和穂が手から転げ落ちぬよう、支えながら程穫が言う。
その指がくすぐったいのか、和穂はにゃあにゃあと更に暴れた。可愛らしい仕草に綜現がつい眺めてしまうと、程穫の鋭い視線が突き刺さる。
「・・・毒だなんて人聞きの悪い。ちょっと見た目の変わる薬を試してもらっただけよ」
「これのどこが少しだ。いいからさっさと元に戻せ・・・!!」
「り、流麗さん!早く元に戻してあげようよ!」
さもないと程穫に大変な目に遭わされるのではないかと、綜現は焦る。
「・・・想像以上に可愛らしくなったんだから、暫くこのままでいいんじゃない?」

流麗が相手をわざわざ逆撫でするのが好きな理由を、綜現はいまだに解明できていない。

「・・・貴方が駆け込んできた時間から考えると、和穂は寝ている時に変わったのね。思ったより遅いわ・・・」
「そそ、そんなこと言ってる場合じゃないよ!早く治してあげて!!」
でないと自分たちの身が危ない。
慌てる綜現と殺気に満ちた程穫に向かって流麗はさらりと言った。

「・・・治す薬はないわ」

『・・・・・・』
空気が一段と重くなったのを、綜元は確かに感じ取った。
今のは自分の聞き間違いだろうか。
「り、流麗さん・・・今、なんて」
呆然としたまま、綜元は尋ねる。しかし流麗は、もう一度同じ言葉を口にした。
「・・・薬はないと言ったのよ」

暫しの静寂。

「ふざけるな・・・」
その声だけで、綜現はまたしても涙目になる。怒りに震える程穫が恐かったと言うのもあるが、和穂が治らないと言うことが信じられなくて。
「ほ、本当なの?」
「・・・私がここで嘘をつく理由はないわ・・・」
断言され、綜現は愕然とする。流麗はたまに酷いことを言ったりやったりするが、本当は優しい人だと思っていた。それは、自分の思い込みだったのだろうか。
「・・・・・・」
程穫が、濁った隻眼で流麗を睨んだ。
殺されると綜現は思ったが、流麗のことがショックで逃げる気力が少しも湧かない。
程穫が一歩踏み出したその時。

「にぁー」

鈴を転がすような声が、張り詰めた空間に響いた。
尻尾をぴんと立て、和穂は再度鳴いた。程穫の顔を見上げ、何度も声を上げる。
和穂が何と言っているのか綜現にはわからなかった。
程穫は、辛そうな表情で鳴き続ける妹を、先ほど彼らに向けた目とは全く違う柔らかさで見下ろす。
「にゃー」
「・・・だが、お前に手を出したこいつらを、許せるわけがないだろう」
「にー」
「お前は構わなくとも、俺は気が済まん」
会話が成り立っているのは、双子だからだろうか。
「すぐに終わらせるから、お前はここで待っていろ」
薬瓶が乱立している卓に和穂を降ろしながら程穫が言う。しかし、和穂は兄の手から放れようとしない。それどころか、程穫の腕をよじ登って肩まで来ると、首元にひしとしがみついた。その可愛らしい姿は、場の空気には全くあっていないが、和穂の必死さは皆に伝わってきた。
「・・・和穂」
彼女が落ちないようにと伸ばした程穫の手に、捕らえて引き離されると思った和穂は、鳴いて更に強くしがみつく。程穫の襟元は深く皺が刻まれた。
身を硬くする和穂を宥めるように、程穫の手が触れて。
「にぁ・・・」
ぽふぽふと撫でられて、くすぐったそうに身を捩る和穂。指先で喉元を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。
「・・・・・・」
「にゃーっ」
その身体を手の平にすくい上げると、離されててしまうと思った和穂は抗議の声を上げて程穫の指にしがみついた。硬くなった身体をそっと撫でてやるうちに、段々と和穂から力が抜けていく。
「にゃあ・・・?」
和穂が困惑気味の顔を上げると、程穫の柔らかい視線と絡んだ。

「程穫さん、思いっきり和んでるね」
双子の様子を遠巻きに眺めながら、綜現が呟く。
「・・・だから、もう少しこのままでいいって言ったのよ。どうせ明日には戻るんだから」
「えっ、戻れるの?」
「・・・当たり前でしょう。貴方が戻らなくなったら困るもの」
綜現は暫し考え込み、昨夜から飲めと強要され続けた赤黒い薬を見やる。
「・・・まさかそれ、和穂さんが飲んだやつと同じもの?」
「・・・言ったでしょう・・・毒味は済ませてあるって」
ごふりと薬が泡立つ。
「・・・よく飲んでくれたね、和穂さん・・・」
「・・・飲んだら兄が喜ぶだろうと言ったら、観念したわ・・・」
「思いっきり騙してるじゃない!」
「そうかしら・・・私にはちゃんと喜んでいるように見えるけれど・・・」
流麗の指差す先には、擦り寄る和穂をあやし続ける程穫がいた。

殷雷は、目の前にいる少女を凝視して、脂汗をだらだらと流していた。
この少女は紛れもなく彼のよく知っている人物のはずで。その黒水晶のような瞳も、太目の眉も、間違いなく彼女のもので。

ぴくりとも動かない殷雷の前で、猫の耳と尻尾を生やした小さな和穂は不思議そうに首を傾げた。

「にゃー?」
「っ・・・!?」
和穂が声を上げた途端、殷雷が大きく肩を震わせて後ずさる。
「・・・にゃぁ」
弱々しい鳴き声。和穂の耳と尻尾がへたりと垂れ下がる。
殷雷がまずいと胸中で叫び、思い切りうろたえる。
「い、いや、和穂、これはその、違うぞ。別にお前が嫌いだとかそう言うことでは」

「黙れなまくら。和穂を泣かせた罪は重い。簡単に償えると思うなよ・・・」

夕食の野菜炒めが盛られた大皿をごとりと置いて、程穫が殷雷を睨む。和穂の前には、小皿の上に親指大の握り飯が三つ置かれていた。
「貴様はそこで俺たちが飯を食うところを、指でも咥えて見ていろ」
「ぐぐ・・・っ」
和穂を傷つけてしまった手前、反論できない殷雷。程穫は不機嫌な顔のまま箸を手に取り白飯を口に運ぶ。つい白飯を目で追ってしまった自分を、殷雷は慌てて抑えた。悔しいが、今夜は我慢するしかない。
「・・・っ」
不意に、くい、と袖を引かれて殷雷が視線を動かすとそこには。

「にぁー・・・」

自分の握り飯を一つ、差し出してくる和穂がいた。
情に脆い殷雷が、健気な和穂を冷静に直視できる訳もなく。
「っ・・・だ、だがっ、お前・・・」
赤面して涙腺の緩んだ表情を、隠すこともできないほど混乱する殷雷。これが刀だとはにわかに信じられない。
「にゃあ」
ふわんとした笑顔と共に上げられた声は、大丈夫だよ、と殷雷へ言っているように聞こえた。
「かず・・・」
「和穂。なまくらを甘やかすな」
程穫の厳しい声が、殷雷を遮る。そして和穂が殷雷に渡そうとしていた握り飯を、箸で取り上げ彼女の皿に戻した。にゃあにゃあと和穂が抗議の声を上げる。
「お前はちゃんと食わないとだめだ」
「にゃあっ」
「でもじゃない。口を開けろ」
「にぁっ・・・ぅにゅ・・・」
更に反論しかけた和穂の口に、小さく切られた野菜の欠片が放り込まれた。
程穫にとっては小さくとも、和穂は頬を膨らませてもくもくと口を動かしている。それに合わせて耳がぴくぴくと震えていた。その姿は可愛い。確かにとても可愛らしいのだが。

「・・・おい。これは、元に戻せないのか・・・?」

殷雷が落ち着きなく尋ねた。
「明日には元に戻るらしい」
和穂に二口目を食べさせて、程穫が答える。
「そ、そうか」
どっと安堵した声を出す殷雷。思わず大きくなってしまった殷雷の声に驚いて、和穂の尻尾がぴんと立った。
「しかし何でこんなことに・・・」
「昨日、家に流麗絡が来た」
「・・・おおよそのところは理解した」

流麗の名を聞いただけで、殷雷は和穂が薬を飲まされ、程穫が解毒剤を寄越せと流麗の元へ殴り込んだであろうことを予想できた。ついでにその凄惨な現場にいた綜現が無事であるよう祈ることまでしてしまった。
まあ、何度も同じような騒ぎがあったが、今まで無事だったのだから今回も恐らく平気だろう。

「しかし・・・随分と半端な猫になったな」
指先で和穂の膨らんだ頬を突く。ぷくりとした感触は、猫になる前の彼女と変わらない。今の見た目は、和穂を手の平大に縮めて、猫の耳と尻尾を付けただけである。
「にぅ」
殷雷の指から逃げるように和穂が頭を巡らせる。今度は喉元をくすぐってやると、和穂は気持ちよさそうに目を細めた。
「・・・明日には、元に戻るんだよな」
「にゃー・・・」
それが彼の台詞に対する返事なのかは、わからない。殷雷は、その後何も言わず、和穂の喉をくすぐり続けた。端から随分と殺気を放たれていたが、気付かない振りをして。