昔は
「本当だよ!」
ぷう、と頬を膨らませて和穂は主張した。
「そんな訳がないだろう」
だが、殷雷は和穂を信じる気配が欠片もない。
あれほど和穂が何度も言っているのに、先ほどから同じ台詞ばかりを口にしている。
「本当に本当なんだから!」
「だから、そんな事は絶対にありえないと言っているだろうが」
いつもは何だかんだで彼女の意見を通している殷雷だったが、その言葉だけは認めるわけにいかなかった。
「でも、本当に昔の兄さんは、大人しくて、(今もだけど)優しくて、可愛かったんだよ!」
「絶対にありえん!何度も言わせるな!!」
それを認めるのは、ものすごく悔しい。理由はわからないが、わかりたくもないが、そんな気がした。
□■□
ぱたぱたと、子供特有の小刻みな足音が響く。
その音を耳にして、程穫は読んでいた分厚い書物から視線を上げた。
この家には自分と片割れである双子の妹しかいない。だからこの足音は和穂のものに違いない。
そう考えて間もなく、彼の見つめていた扉が少しだけ開かれた。
その隙間からひょこんと和穂の頭が飛び出る。その視線はすぐに程穫を見つけ、顔は嬉しそうに綻んだ。
「てーかくっ」
扉を更に押し開け、和穂が兄の元へと駆け寄る。
程穫が本を脇に退けて腕を伸ばすのと、和穂が飛びついてくるのは同時だった。
「ただいま!」
「・・・どこいってたんだ?」
そう尋ねる程穫の腕に、力がこもる。和穂は目を瞬かせてから、そうじゃないと言った。
「ただいまってゆったら、おかえりだよ」
「・・・・・おかえり」
和穂が満面の笑みでもう一度、ただいまと口にした。
「おさんぽにいってきたの」
程穫がしつこくどこに行ってきたのか尋ねると、和穂はそう答えた。
「てーかく、おべんきょうしてたでしょ。だから、ひとりでいってきたんだよう」
「・・・・・」
「でも、ひとりだとちょっとこわいから、やっぱり、てーかくといっしょがいいね」
「・・・・・もう、おれをおいてくな」
「え?」
「・・・なんでもない」
ぼそぼそと言われ、和穂には最後の台詞しか聞き取れなかった。
「なんてゆったの?」
「なんでもないって、ゆった」
和穂が不思議そうに首を傾げる。本当、と尋ねると程穫は何も答えず和穂の首元に顔を埋めてしまった。
「きょうは、どんなほんをみてたの?」
「・・・・・」
何も言わずに、程穫は自分の脇にあった本を和穂の方へ引っ張る。
そこには、細かい字と紙の四分の一ほどを占める植物の絵があった。どう贔屓目に見ても、まだ四歳の子供が見る本ではない。もちろん和穂には、これが薬草学の本であることなど全くわからなかった。とりあえず、父親の本であることは検討がついたが。何しろここは父親の書斎である。
「これ、なあに?」
和穂が挿絵を指差し、尋ねる。程穫が、和穂の首元から少し頭を上げてその絵を見た。
「やくそう。ねつがでたらつかう」
「こっちは?」
「やくそう。せきがでたらつかう」
「ふゃあぁ、すごいね!」
薬草の名は覚えていなくとも、その効用は書物に書いてある通りだった。生憎、和穂にはそれを確認することができなかったが、疑いもしていないので素直に感心する。
「てーかくは、とーさんみたいな、おいしゃさまになれるよ!」
「・・・・・なって、ほしいのか?」
「へ?」
「おれが、いしゃになったら、うれしい?」
程穫の問いに、和穂は暫し考える。
やがて、ぱっと笑みを浮かべて頷いた。
「うん!うれしいよう」
「・・・そうか」
□■□
「だからね、殷雷は大人しい兄さんを知らないだけなの!本当は凄く物静かなの!」
「嘘だ。百歩譲って「根暗」は認めても、「物静か」は受け付けん」
「何でそっちになるのよ!」
喧々囂々と言い合いを続ける和穂と殷雷の近くで、程穫はいつものように薬草学の本を眺めていた。