贈答

何かほしい物はないかと和穂が聞いてきた。日頃の恩返しがしたいのだと言う理由と共に。
いつものように双子宅に来ていた殷雷は、相変わらず己を人間扱いする少女に、怒りやら戸惑いやらが混ざり合った複雑な表情を返す。それを見た和穂は、ほしい物が思いつかず悩んでいるのだと解釈した。
「無理に決めなくてもいいんだよ。なければ自分で考えるから」
しかし殷雷は険しい顔を崩さない。
その時彼の中では、彼女に気取られないよう、歓喜と言う感情を必死で抑えていた。緩みそうになる顔や涙腺にぐっと力を入れる。
もちろん和穂がそんな殷雷の思いに気付くはずもない。
「あ、お金とかは気にしないでね。私だって少しは貯金があるんだよ」
また勘違いをしている和穂の言葉が、更に殷雷の涙腺を震わせた。両親のいない彼女が、唯一の稼ぎ手である兄から生活費以外の金を貰うとは思えない。恐らく龍華か護玄の手伝いでもして貯めたのだろう。
「・・・・・・っ」
「い、殷雷?」
うつ向いて何やら唸り始めた殷雷に、和穂は更に困惑する。彼の崩れ始めた顔は、和穂の角度から見えない。
「大丈夫?もしかして具合がよくないの?」
「っ・・・人間扱いするなと、何度言えばわかるんだ」
やっと聞けた殷雷の言葉は、彼女の問いと関係のないものだった。いつもより威勢のない殷雷の態度に、和穂はますます心配そうな顔をする。
律儀な少女は、きちんと殷雷の台詞に自分の意見を返した。

「人間とか、そんなこと関係ないよ。殷雷がいつも助けてくれたことは確かだも、の・・・い、殷雷っ?」

和穂が言い終わる前に、殷雷は脱兎のごとく走り出していた。人では持ち得ない脚力で、殷雷は和穂の視界から遠ざかっていく。
開いたままの扉から、殷雷が走り去っていった森を見やる和穂。そんなつもりはなかったのだが、気の触ることを言ってしまったのだろうかと、鈍い少女は申し訳なく思った。黒水晶のような瞳が、ゆらりと瞬く。

その時、ぽん、と頭に触れるものがあった。

「兄さん」
ぱちりぱちりと目を瞬かせ、和穂はいつの間にか背後に立っていた程穫を見やる。
程穫はちらりと和穂の目に視線を向けたが、彼女の頭から手を離すと、何も言わず扉を閉めて今度は彼女の手を取った。
温かい手が優しくて、和穂の瞳はまた潤んでしまったが、ぐっと力を入れて堪える。先ほどの殷雷と同じように。
「結局聞けなかったから、殷雷にあげるお礼を考えなくちゃ」
「毎日のように飯をたかりに来られて、この上まだ何かくれてやるのか」
「殷雷も果物とか色々持ってきてくれるよ」
「それならこれで貸し借りはなしと言うことになるだろう」
「兄さん、優しさって言うのは、貸したり借りたりするものじゃないよ」
繋いでいた程穫の手を、もう片方の手で包むように触れる。
「さっき殷雷が帰った時、私、ちょっと泣きそうになったけど、兄さんがこうして手を繋いでくれて、気にしてくれて、とっても嬉しかった」
「お前がなまくらのことばかり構うから、嫉妬しただけだ」
和穂の手に視線を落とす程穫。前髪で彼の表情が隠れる。和穂は、見えない兄の顔へふわりとした笑みを向けた。
「兄さんが優しくしてくれた時、兄さんに借りができたとは思わないよ。借りを返さなくちゃと思って、私も兄さんに何かしてる訳じゃないよ」
「・・・そうか」
「あ、兄さんが借りを返してほしいと思ってるなら、何かお礼を考えるけど」
程穫の隻眼が細められる。これでは、殷雷に嫉妬した自分が和穂にお礼を強請ったようではないか。まあ、そんな気持ちが全くなかったとは言わないが。
兄がそんなことを考えていると言うことを、やはり和穂は気付かない。
緩めた口元に和穂の手を引き寄せ、唇が触れるかどうかと言う位置で止めた。程穫の吐息がくすぐったくて、和穂が僅かに身を震わせる。

「それは無理だな。お前が身も心も全て差し出したとしても、この俺が今までお前にやった思いを返しきることなどできない」

意地悪なことを言う時の兄の目が、和穂の見開かれた瞳と絡む。頭から無理だと言われてすぐに諦める和穂ではなかった。
「確かに兄さんは沢山優しくしてくれたけど・・・やってみなくちゃわからないよ」
「やるだけ無駄だ」
「でも、兄さんは返してほしいって思ってるんでしょう?」
「始めから諦めている」
「今からだって少しずつ返していけば、いつかっ・・・」
諦めるつもりなど全くない、妹の強い瞳を覗き込むように、その身体をぐいと抱き寄せる程穫。驚いた和穂が口を噤む。
「見返りなど、最初から期待していない」
「え、でも、返してほしいって」
「お前には無理だ」
「やってみなくちゃわからないよ!」
また同じことの繰り返しになりそうなやりとりに、程穫は溜め息を吐いた。彼女の頑固なところは自分が一番よく知っている。

「では、お前の身も心も全て差し出してもらおうか」

いつの間にか、程穫の目が真剣なものへと変わっていた。和穂が小さく息を呑む。
「う、うん」
「後から返せと言っても、聞かないからな」
「うん」
「本当に、いいのか」
覗き込んでくる程穫の視線が僅かに揺れたような気がした。緊張していた和穂は、その目を見てふと身体の力が抜ける。
「うん、いいよ」
長く息を吐いた程穫が、微笑んで頷いた和穂と同じように口元を緩めた。今度はその身体に柔らかく腕を絡め、額を合わせる。
暫く微笑み合った後、和穂が小さく声を上げた。
「あ、でも、差し出すって具体的にどうすればいいの?」
「俺と共にいろ」
「・・・それだけ?」
「それ以上があるのか?」
「それだと今までと変わらないと思うけど・・・それでいいの?」
「ああ。十分変わる」
「そうなんだ・・・えと、兄さん」
「何だ、和穂」
名を呼ぶと、花が綻ぶようなふわりとした笑顔が返される。これが己のものになったのだと思うと、嬉しくてたまらない。

「いつも、優しくしてくれてありがとう」

翌日、少し顔を赤らめつつ双子宅へやってきた殷雷は、ふんぞり返った程穫を前に一転して蒼白になっていた。
「そう言う訳で、和穂は俺のものだ。わかったらこれ以上『俺の』和穂に近寄るな」
昨日の己の行動が悔やまれてならない。泣きながらでもあの場に残っていれば、こんな事態は防げたはずだ。
「お茶が入ったよ・・・って、い、殷雷?どうしたの?」
炊事場にいたため、程穫の話を聞いていない和穂が、変わり果てた殷雷の様子に慌てて駆け寄る。
「やっぱり具合が悪いの?龍華師匠に看てもらえばいいのかな?」
「・・・・・・・っまえ、は・・・!!」
「え?何?」
「お前は!そこの!変態の口車に乗せられるなと!何度!何度言えば!わかるんだ!!」
肩を掴み、和穂を振り回す勢いでがくがくと揺さぶる殷雷。昨日隠しおおせた涙は、だだ漏れになっている。
「えっ、あぅ、な、なんっ、はな、しっ?」
「お前がそこのシスコン馬鹿のものになったとか言う話だ!!」
「あ、えと、それは、にいさっ、んの、優しさの、お礼っ」
「お礼でお前の人生棒に振るな!ちうか冗談に本気で答えるな!!」
前後に揺れ過ぎて、くらくらしていた和穂は、殷雷の言葉に目を瞬かせた。
「え、冗談、なの?」
「俺はいつでも本気だ」
「変態シスコン馬鹿は黙ってろ!」
「・・・そっか、冗談だったんだ」
へらり、と和穂が笑った。程穫はお茶を啜りながら、妹の表情を一瞥しただけで、何も言わない。

「あ、殷雷、ほしい物は思いついた?」
和穂と殷雷も卓に着いたところで、乱れた髪を直しながら和穂が問う。
訪問するなりの一悶着で、ぐったりと卓へ突っ伏していた殷雷は、大きく肩を震わせた。

兄と同じように、お前がほしいと言ったらこの少女は頷いてくれるのか。

「私が何か思いつく前に、ほしい物ができたら教えてね」
「和穂はもう俺のものだからな。貴様には髪の毛一本やらんぞ」
「・・・・っ!!」
まだ同じ主張を続ける程穫を殴り飛ばしたい衝動と、真っ赤に染まった顔を見られる訳にはいかないと言う思いがぶつかり合い、卓に伏せたままぶるぶると震える殷雷。
そんな彼を見て、やはり具合がよくないのかと和穂は心配するのだった。