子猫

和穂が家の戸を開けたら、猫がいた。
掌に乗るような大きさの子猫である。あまりの愛くるしさに破顔する和穂。
「可愛・・・わっ」
「触るな」
子猫の元へ駆け寄ろうとした和穂を、程穫が背中から抱き寄せて捕らえる。
「どうして触ってはいけないの?」
「お前が猫に襲われて怪我でもしたらどうする」
「大丈夫だよ。こんなに小さい子だもの」
「親猫がいたら、お前が触れたことによって、子育てを放棄するかもしれないだろう」
「うーん・・・じゃあ、親猫が来るまで見てていい?」
「だめだ」
「どうして?親猫がいなかったら、助けなくちゃ」
「だからお前は触れるな」
「だからどうして触ってはいけないの?」
納得できない和穂が頬を膨らませた。その身体を抱き寄せていた程穫の頬と触れ合う。

「決まっているだろう。俺を差し置いて、その猫ばかり構われるのが気に食わないからだ」

恥ずかし気の欠片もなく、嫉妬心をさらけ出す程穫だった。
猫より兄の相手をしろと言われた和穂は、ぱちりぱちりと目を瞬かせる。
それは、言われたことを理解しようとする行為だったのだが。
「・・・えと・・・兄さんも、子猫を触りたいってこと?」
やはり鈍感な妹には伝わっていなかった。感付いてはいたが、程穫が小さく溜め息を吐く。兄が呆れている、と和穂は思った。その感想は間違いではない。
「猫に興味はない。だが、特にその猫は気に食わない」
「どうして?可愛いと思うけど」
双子を見上げて、子猫が小さく鳴いた。

その身体が、宙に浮く。

「猫の話をする前に、まずお前ら離れろ」
「あ、殷雷」
子猫の首をつまみ上げ、不機嫌な顔で現れた殷雷が重い声で告げる。
「とっとと離れろ」
「反抗期真っ最中の俺に、離れろと言って離れる訳がないだろう」
反抗期の人間ならまず言わなさそうな台詞を宣い、更に強く和穂を抱き締める程穫。和穂は何よりも子猫が気になるようで、兄にされるがままだ。
「幼児の時から反抗期のような気がするが・・・ならずっとくっついてろ」
「貴様に言われなくとも、俺が和穂を手放す訳がない」
「口答えはいいから離れやがれ!」
あっさりとキレた殷雷が、双子を強引に離す。その作業を行うために殷雷の頭へ乗せられた子猫を、和穂は緩んだ頬で見上げた。
「・・・で、この猫はどうした」
「家の前にいたの。親猫が迎えに来るまで見てたかったんだけど・・・」
「はぁ?そんなこと、そこの過保護な馬鹿兄貴が許す訳ないだろ。何時間も猫を眺めて風邪でもひいたらどうする」
殷雷の言葉に、和穂は目を丸くした。
「兄さん・・・私の身体を心配してたから、だめって言ったの?」
「なまくらの言葉に惑わされるな。お前が猫にかまけて兄を疎かにするのが気に食わないからだと言っただろう」
「そこは嘘でも同意するのが普通だろうが!!」
殷雷が尤もな意見を述べるが、自称反抗期の程穫は露骨に無視した。険悪な空気に和穂が話題を変えようとする。
「え、えと、あ、その猫、何だか殷雷に似てるよね!」

静寂が辺りを支配した。

無言になる男二人。
毛の色や目付きから、子猫は殷雷と通じるものがあると和穂は思っていた。しかし周りからは賛成も否定もしてもらえず、そんなにおかしなことを言っただろうかと不安になる。
殷雷の頭が定位置になりつつある子猫を見上げると、髪の毛に猫拳を繰り出していた。やはり可愛い。
「・・・和穂」
「なあに?兄さん」
やっと口を開いたのは程穫が先だった。
「お前は、俺とあの猫どちらを取る気だ」
先ほど猫に向けていた嫉妬より遥かに強い苛立ちを見せて迫る。
「え、と、取るって?」
「なまくらの様な猫と、この俺と、お前はどちらを選ぶんだと聞いている」
「どこまで嫉妬深いんだお前は・・・」
殷雷が呆れて気味に呟く。程穫は当然その突っ込みを無視。
太めの眉を八の字にしつつも、和穂ははっきりと答えた。

「兄さんといたいよ」

程穫が僅かに目を見開く。彼にしては珍しく、どう言葉を返すか迷っているようだ。
そして殷雷は双子に背を向け、和穂が比べたのは猫のことだと自分に言い聞かせていた。力なく垂れ下がった彼の髪を見て、子猫が首を傾げる。
「子猫はもし親がいなかったら、他に育ててくれる人を探っ、わわっ」
和穂の言葉を遮り、程穫はその身体を強く抱き締める。
「兄さん?」
「お前が望むなら、この身体が朽ちても共にいてやろう」
いつも通りの偉そうな口調。その表情は和穂の首元に埋められ、伺い知ることはできない。
「身体がなくなったら難しいと思うけれど・・・」
「骨が残れば十分だ」
「兄さんの骨を形見として持つということ?兄さんがいなくなるなんて考えたくないなぁ・・・」
辛そうに顔をしかめる妹の髪を撫で、程穫が頭を上げる。いつもより、その口元は緩んでいるように見えた。
「いつかはそうなる」
「でも、兄さんより私が先にぅむっ」
和穂の口を、程穫の手が塞ぐ。
「そんなことには、させない」
程穫の片目が、鋭さを増す。前髪が触れるほどに、双子の顔が近付く。

「この俺を置いて、逝けるなどと思うな」

和穂が目を見開いたまま、小さく頷いた。
その反応に満足したのか、程穫が和穂の口を解放する。手を退けると、和穂の唇は笑みを浮かべていた。
「ありがとう、兄さん」
「・・・何がだ」
「一緒にいてくれて、とっても嬉しい」
程穫がまた口を閉ざす。一度瞼を下ろし、ゆっくりと開けた。いつもとは違う、少し崩れた笑みに見えるのは、和穂の気のせいか。

「どういたしまして」

その頃殷雷は、まだ猫の話なのだと呟いていた。子猫は項垂れる殷雷の頭で身体を伸ばしている。
が、突如飛び上がるようにして、子猫が身を起こした。
小さい身体を震わせて鳴くと、殷雷の頭から降りようとし、あまりの高さにためらう。
「降りるのか?」
殷雷が子猫を降ろしてやると、森の方へ駆けていく。
子猫が飛び込んだ茂みの奥から、別の猫の鳴き声がした。
「親猫が迎えに来たみたいだな」
「うん」
殷雷と和穂が揃って安堵の表情を浮かべる。

暫く子猫の声がしていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
「殷雷、これからご飯作るから、食べていってね」
「なまくら、気を使え」
「・・・そこは普通、『気を使うな』じゃないのか?」
いつものようなやり取りをしながら、三人も家の中に入っていった。