本能

殷雷は激しく動揺していた。武器だと言うのに、これでもかと目をかっ開き、垂れ流さんばかりに脂汗を浮かべている。
彼がここまで取り乱しているのは、もちろん目の前の少女が原因で。
「殷雷・・・」
珍しく甘えるような声に、殷雷は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えなくてはならなかった。

事の起こりは、殷雷がねぐらとしている森に、和穂がやってきたことだった。
「珍しいな・・・一人で来たのか?」
あの過保護な兄貴が、和穂を一人で森に行かせるはずがない。しかし辺りを見回しても気配を探っても、和穂一人しか見当たらない。
殷雷の隣へ腰を下ろした和穂は、頬を膨らませて彼を見上げた。
「私だって一人で森に来ることくらいできるよ。子供じゃないんだから」
そう言われると、ついからかいたくなってしまうのが殷雷である。にやりと口の端を持ち上げ、和穂を見下ろす。
「おお、そうでしたなぁ。和穂お嬢さんは立派な大人だから、一人で森に来ることくらい朝飯前でしたなぁ」
「そんなこと全く思ってないでしょう」
「いやいや、この殷雷刀、心から和穂お嬢さんは大人だと思っておりますよ」
「全然そう見えないよ!」
和穂の頬がますます膨らむ。殷雷が吹き出しそうになるのを堪えてくつくつと笑った。
「もう!いつもそうやってからかうんだから。折角遊びに来たのに、もう帰ろうかな」
「・・・遊びに来た?」
「そうだよ。私が殷雷のところへ遊びに来たらいけない?」
「いや、そんなことはないが・・・程穫は知ってるんだろうな?」
和穂が程穫に黙って家を開けることはない筈だが、彼が和穂を一人で森に行かせるなど考えられない。そう考えた殷雷の問いかけに、和穂は思い切り困ったような顔をして黙り込んでしまった。
嫌な予感が殷雷を突き抜けていく。底なし沼のようなどろりとした怒りを纏った程穫が、すぐ傍まで来ているのではなかろうか。気配を探知できるはずの刀が、そんな妄想に憑りつかれかけた。
「え、ええと・・・て、っに、兄さんは・・・その、家で、昼寝をしていて・・・」
「黙って出てきたのか?」
「う、うん。そうなの」
「・・・そんなことをして、後でどんな目に合うかわかっているのか?」
この後恐らく程穫と殴り合いになるであろう自分のことを棚に上げて、和穂の心配をする殷雷。程穫が和穂を殴ることは絶対にないが、勝手に出て行った罰として何をさせられるかわからない。少なくとも殷雷にとって望ましくないことなのは確かである。
俯いていた和穂が、顔を上げた。うっすらと浮かぶ涙の奥で、黒い瞳が揺れる。それに合わせて殷雷の心も激しく動揺した。
「殷雷、一緒にいて・・・!」
伸ばされたか細い腕が彼の背中に周り、胸の中に温かい身体が飛び込んでくる。

殷雷の本能が、激しく警鐘を鳴らした。

「っ・・・か、和穂・・・?」
「お願い・・・」
和穂の瞳から涙が零れる。殷雷の頭の奥がきりきりと痛む。和穂を泣かせて辛いのか。情に脆いと言う欠陥のせいなのか。しかし何か違うような気がする。
いつの間にか、和穂の鼻先が、殷雷の顔に触れそうなほど近くに迫っていた。ますます酷くなる頭痛に、殷雷は動揺しつつも苛立ってきた。この違和感は何が原因なのだ。
「殷雷・・・」
和穂の瞳が閉じられ、更に殷雷との距離が縮まる。

刹那、ざひゅっ!と言う音と共に和穂の温もりが離れて行った。

「・・・ちょっと、邪魔しないでよ」
常人離れした素早さで飛び退いた和穂が、苛立たしげに言う。
「その格好でうろうろするな。目障りだ」
殷雷の前に木の枝を振り下ろした程穫が、どろりとした怒りを湛えて和穂に言った。
「・・・・・お、お前・・・なん・・・」
「呂律も回らないほど耄碌したか。やはり貴様はなまくらだな」
蔑んだ目で言うと、程穫は踵を返して去って行った。その背中には薬草を詰め込んだ籠。いつもの薬草集めの最中だったのだろう。
程穫がいなくなり、和穂が再び殷雷の元へやってきた。
しかしこの和穂に程穫は攻撃をしかけた。いつも殷雷に繰り出されるのと同じような殺気と威力で。しかも和穂はその攻撃を避けている。まるでいつもの自分のように。
「殷雷、大丈夫?」
「・・・お前、誰だ?」
「え、見てわかるでしょう?私は和穂だよ」
「・・・お前がくっついて来てから頭が痛い。まるで深霜に懐かれていた時のようだ」
「ちょっと!何であたしに懐かれると頭が痛いのよ!?」
叫んでから、しまったという顔をする和穂。殷雷は大きく溜め息を吐いた。
「・・・今日は何しに来たんだ・・・」
「え、ええと、この前、程穫が和穂の偽物を見破ったって話を聞いてね。殷雷だったらどうなるかしらと思って」
龍華に道具を借りて化けてきたのだと語る和穂の姿をした深霜。殷雷は怒る気力も失くして再度溜め息を吐いた。
「そうか・・・見破られなくてよかったな・・・」
「どうかしら?頭痛がしたってことは、殷雷の本能が偽物だって感じ取ったんじゃないの?」
「・・・程穫はすぐに気付いていたようだがな」
「まあ、あれは異常だから」
全く持って同感だと殷雷は思った。