手合

殷雷は、繰り出された程穫の拳を受けずに身を屈めて避けた。両腕はその後に襲いかかってくる蹴りを受け流すために使わなかった。
予想通りやってきた蹴りを、左へ受け流して体勢を崩してやる。草原へ転がった程穫は、その勢いを利用して素早く起き上がった。背後からきた殷雷の蹴りを、横に跳んでかわす。

程穫と初めて手合せのようなことをしたのは、出会ってそれほど経っていなかっただろう。
前置きもなく突然殴りかかってきたので、いつもの『和穂を盗られまい』と言う思いからだと始めは思っていた。それが程穫にとっての鍛錬と言うか、手合せだと知ったのは、随分後になってからのことである。
『てーかくはね、いんらいみたいに強くなるんだって』
幼い和穂からその言葉を聞いて、殷雷は大いに驚いた。程穫が和穂にそのままの台詞を言ったのではないだろう。もっと歪曲した言い方だったに違いない。なまくら程度は軽く倒せるくらいになる、とかそれくらいの事は言っているはずだと殷雷は考えた。
そのことを知ってから、殷雷は理由もなく程穫が殴りかかってきた時は、暫く相手をして少し助言をしてやるようになった。もっと丁寧に教えることもできたが、程穫はそれを素直に受け入れるとも思えないのでやめておいた。
その程度の教え方でも、元から才能があったのか、程穫は見る間に強くなっていった。今では多少真剣に相手をすることも珍しくない。

今日も殷雷が双子宅へ行ったところ、扉を開けるなり程穫が拳を放ってきた。そのまま家の前で手合せをしていた二人だったが、暫くして和穂が様子を見に来た。しかし、声をかけることはしない。
殷雷の眼光が鋭さを増した。和穂が来たと言うことは、昼食の準備ができたのだろう。食事が冷める前に決着をつけねばならない。およそ武器とは思えない結論を出して、手合せを終わらせるべく体勢を整える。
程穫は隻眼のため、死角が常人より広い。幼い頃から何度もそのことは指摘しているため、ある程度の攻撃は避けられるようになったが、まだ完璧とは言えない。
早く昼食にありつくために、殷雷は程穫の死角をついた攻撃を繰り出す。食事のために全力を発揮した武器の一撃は、程穫を吹っ飛ばして地面に転がした。
「和穂、どうした」
「あ、ご飯ができたから、呼びにきたの」
程穫が起き上がる前に、殷雷は和穂へ声をかける。和穂は答えてから、兄の元へ駆け寄った。
「兄さん、大丈夫?」
「・・・ああ」
「土だらけだね。洗ってきた方がいいよ」
頷いた程穫は、頭を洗うために炊事場の方へ姿を消した。程穫を地べたに何度も転がしたのは失敗だったと後悔する殷雷。これでは食事が冷めてしまう。
「殷雷も埃を落とした方がいいね。手拭いを持ってくるよ」
「うむ・・・」
「どうしたの?」
「いや、一刻も早く手拭いを頼む」
やたらと切実な殷雷の表情に、和穂は慌てて身を翻した。

三人が卓に着いた頃、食事は僅かな温もりを残していると言う状態だった。
「和穂、次からは飯ができる少し前に呼んでくれ」
「どうして?」
「飯が冷めたら勿体ないだろう」
真剣な殷雷に、和穂はくすくすと笑う。
「うん、わかった。今度はもっと早く呼びに行くね」
程穫は何も言わずに黙々と飯を食べ続けている。彼の前髪からぱたぱたと滴が落ちているのに気付いた和穂は、席を立って手拭いを取りに行った。
「兄さん、まだ髪が濡れてるよ」
程穫の後ろに立って、手拭いでそっと髪を拭う和穂。箸と茶碗を卓に置いた程穫は、大人しく髪を拭かれている。
「・・・はい、もう濡れてない?」
横から兄の顔を覗き込んで和穂が言う。目を細めた程穫が、和穂の方を見やった。彼の乾き始めた前髪が、ひたりと和穂の頬に触れる。
「髪は濡れていない」
兄の言葉に、きょとんとする和穂。双子の様子を傍で見ていた殷雷が、箸を止めた。嫌な予感がする。
「他に濡れてるところがあるの?」
和穂が尋ねると、程穫の隻眼がぎらりと光った・・・ような気がしたのは殷雷の気のせいだろうか。
「お前が何度も擦るから、ものすごくぬれ」

警戒しておいて正解だったと、殷雷は拳を繰り出しながら思った。

盛大に部屋の隅へ吹っ飛んで行った兄を呆然と見やってから、慌てて殷雷の方へ振り返る和穂。
「い、殷雷!?」
「これからお前はあの有害物質に一切触れるな!」
殷雷に怒鳴りつけられ、何度も目を瞬かせる和穂。ゆらりと立ち上がった程穫が、殺気立った視線を殷雷へ向ける。
「なまくら・・・よくも俺と和穂の愛撫を邪魔してくれたな・・・」
「どれだけ勘違いしたらそう言う台詞が吐けるんだこの妄想野郎!!」
「二人とも、喧嘩はだめだよう!」
和穂が慌てて止めに入る。二人が喧嘩で殴り合いを始めると彼女はいつも仲裁に入るのだが、手合せをしている間は何も言ってこない。傍から見れば突然殴り合いを始めるのは一緒なので、普通は区別がつかないと思うのだが、和穂には違いがわかるようだ。
食事を再開できたのは、それから随分経ってからの事だった。