浮気

突然、音もなく自宅の扉が開いたのを目撃し、和穂は驚きで大きく目を見開いた。しかし、見知った姿が入ってきたのですぐに安堵の息を吐く。
「流麗さん、こんにちは」
「・・・一人なの?」
いつものゆらりとした動きで扉をくぐった流麗は、和穂の挨拶を無視して尋ねる。しかしその程度で機嫌を損ねる和穂ではない。笑顔のまま彼女の問いかけに答える。
「いえ、兄さんもいますよ」
「・・・そう・・・」
「座って待っていて下さい。すぐに呼んできますね」
ぱたぱたと足音を立てて兄を呼びに行く和穂を見送り、流麗は小さく口角を上げた。

双子の間にどんなやりとりがあったのかはわからないが、大いに不機嫌な顔をした程穫がやってきたのは、それから随分経ってからのことだった。和穂はお茶を淹れると言って席を外している。
卓につくなり、程穫は忌々しげに流麗を睨みつけた。程穫にとって、流麗は厄介事ばかり持ってくる危険人物(織り機)と言う認識なので、攻撃的になるのも無理はない。程穫の突き刺すような殺気を、流麗は眉一つ動かさずに平然と受け流す。
「何の用だ」
「・・・私の綜現が、浮気をしているの」
「それがどうした」
「・・・だから、私も浮気をしてやろうと思って」
「勝手にしろ」
「・・・そう言う訳だから、よろしく・・・」
「何がだ」
「・・・私と貴方が付き合うと言うことよ・・・」

がちゃん!と大きな音が立ち、程穫と流麗の視線が動く。

「・・・・・え、えと・・・」
その先には、お茶を載せた盆ごと取り落とした和穂の姿。彼女が聞いたのは、流麗の最後の台詞だけだった。突然の交際宣言に、和穂の思考はほぼ停止状態に陥る。僅かに動く意識が、ぐるぐると螺旋を描いて落ちていくような感覚に襲われた。今の流麗の言葉は本当なのだろうか。
「・・・冗談でも、嘘でもないわ・・・私と程穫は恋人同士なの・・・」
和穂が問う前に、流麗が告げる。ぽかんとしていた和穂は、そのまま力なく俯いた。
「・・・そ、そっか、二人ともおめでとう!私、もう一回お茶を淹れてくるね!」
俯いたまま明るく言い、和穂が踵を返す。しかし、その足を踏み出すことはできなかった。

駆け寄った程穫が和穂を背中から乱暴に抱き締める。少し苦しいほどに。

「っ・・・に・・・いさ・・・?」
「すまない」
和穂の耳元に届いたのは、いつもの程穫らしくない、僅かに引きつったような声。
何を謝っているのか、和穂にはよくわからなかった。自分を驚かせたからか、流麗と恋人になったことを申し訳ないと思ったからか。どのような理由にせよ、程穫が謝る必要などないと和穂は思った。
「・・・あ、謝らなくても、いいんだよ・・・兄さんに、大好きな・・・人ができたのは、と、とってもいいことだから・・・」
和穂の身体をきつく抱いている程穫の腕が小さく震えている。彼にしては珍しい動揺の気配が、和穂に伝わってきた。自分がまた兄を困らせているからだろうか。あまり二人の幸せを喜んであげられなかったからだろうか。だが、今の自分にはあれが精一杯だったのだ。もう程穫と共にいられないのだと思ったら、心から喜ぶことなどできなかった。
しかし、程穫が絞り出すように呟いた台詞は、和穂の予想とは違うものだった。

「・・・お前に辛い思いをさせたのに・・・嬉しくてたまらなかった・・・」

言って、和穂の首元に顔を埋める程穫。和穂には、何故程穫が喜ぶのか理解できない。
「え・・・?」
「・・・さっき、俺と離れたくないと思っただろう」
「う・・・ご、ごめんなさい・・・思いました・・・」
「それが嬉しかった」
「どうして・・・?」
考えの及ばない和穂が尋ねて程穫を見やる。程穫も顔を上げて、嬉しそうな、申し訳なさそうな、複雑な笑みを浮かべていた。和穂の瞳にうっすらと浮かぶ涙を、程穫の指が拭う。
「俺も和穂と共にいたいからに決まっているだろう」
「・・・え・・・でも、二人が付き合うって・・・?」
「がらくたの戯言など聞かなくていい」
「え・・・えと、じゃあ、私と一緒にいてくれるの?」
「ああ」
「これからも、ずっと?」
「ああ。俺が共にいたいのはお前だけだ」
和穂が必死に確認してくることが嬉しくて、程穫の頬がいつも以上に緩む。

「・・・私は冗談でも嘘でもないと言ったはずだけれど・・・」

割って入った流麗の台詞に、和穂が大きく肩を震わせた。しかし今度は程穫も黙っていない。
「貴様の話など聞いていない。消えろ」
「・・・そう・・・なら仕方ない・・・」
意外なほどあっさりと諦める流麗。ゆらりゆらりと双子の元へ歩み寄り、不安げな和穂の顔を見下ろす。

「・・・程穫がだめなら和穂にするわ」

双子がぱちりぱちりと目を瞬かせた。
「え、えと、何がですか?」
「・・・程穫と浮気ができないから、和穂と浮気をする」
「う、浮気!?」
「・・・そうよ・・・綜現が塁摩と浮気をしているから、私も和穂と浮気をしてやるの・・・」
「ええ!?」

刹那、ばたん!と双子宅の扉が勢いよく開かれた。

「和穂さん、無事ですか!?」
肩で息をしながら叫んだ綜現は、程穫に抱き締められ、流麗に迫られている和穂を見て青ざめる。
「り、流麗さん!お願いですからやめて下さい!」
「・・・綜現・・・そこはまず、私の心配をするところでしょう・・・」
「いやいや、和穂さんに手を出してやるなんて置き手紙を残されたら、誰でも和穂さんの心配をするでしょう!」
「・・・和穂に手を出した私が、程穫にどんな仕打ちを受けるか考えなかったの・・・?」
「そもそも和穂さんに手を出すこと自体がおかしいよ!」
「・・・綜現が浮気ばかりするからこういうことになるのよ・・・」
「う、浮気じゃなくて訓練だって言ってるじゃない・・・恵潤さんもいるし、今日は静嵐さんもいたよ」
「・・・私の綜現が、とうとう男にまで狙われるようになってしまったのね・・・」
「だから違うってば!」
流麗の狙いは、始めから和穂だったようだ。確かに綜現の浮気(?)を止めることが目的なら、程穫よりも和穂の方が効果的だろう。現に綜現はこうしてやってきた。これが男の程穫だった場合、綜現が諦めて身を引いてしまう可能性もないとは言えない。
和穂は事態についていけず、おろおろと流麗たちの様子を窺っている。自分が家にいてよかったと、程穫は心の底から思った。