献立

殷雷の眉間に深い深い皺が刻まれていた。卓について唸っている殷雷の向かい側には、にこにこと嬉しそうな和穂もいる。その隣には我関せずと言った様子の程穫も座っていて、分厚い本のページを捲っている。静かな双子宅の空間に、ぱらりぱらりと紙の擦れる音が響いていた。
先ほどから殷雷は、和穂が尋ねたことに関してどう答えるか悩んでいる。和穂はその姿を見て、ちょっと申し訳ないと思いつつも、嬉しくて頬を緩めてしまうのだった。
殷雷の視線がちらりと動く。その視線が和穂の笑顔を捕えて、少し動きを止めた後、鋭い目付きが更に細められた。どう答えるか決まったのだろうか。
「・・・随分ご機嫌だな」
不機嫌そうな声で殷雷が言う。答えが決まった訳ではなかったようだ。
「うん。殷雷が真剣に考えてくれて、嬉しかったの。えと、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」
素直に謝る和穂。それが彼女のよいところだとわかってはいるのだが、和穂に見られて気恥ずかしいやら、謝らせてしまって情けないやら、色々な感情のために殷雷の顔はますます曇る。
「お前が謝る必要はない」
そう言ってやれれば彼女の気持ちも楽になっただろうが、生憎その台詞を口にしたのは程穫だった。本に視線を落としたまま、二人の会話は聞いていたようだ。
程穫の言葉に素直に同意してやればいいのだが、残念なことに殷雷は素直と言う言葉とは縁遠い。
「過保護なシスコンは黙ってろ」
「過保護なシスコンが、大事な妹を傷付ける奴を前に黙っている訳がないだろう」
「に、兄さん、私は大丈夫だよ。殷雷に難しいことを聞いた私が悪いんだから」
「昼飯の希望を聞いただけだろう。それのどこが難しいんだ」
心底馬鹿にしたような声は、もちろん殷雷へ向けられていた。あっさりと過保護なシスコンを認められた衝撃に暫く放心していた殷雷は、何とか折れかけた心を持ち直して反論する。
「食事の内容を蔑ろにする奴は、人生を蔑ろにしているのと同じなんだよ」
それは、先ほど同じ質問を和穂からされて、何でもいいと答えた程穫への揶揄でもあった。恐らく大抵は同じように答えているのだろう。和穂も特に気にした様子はなく、殷雷にも同じことを問うてきた。そして現在に至る。
程穫がやっと本から顔を上げた。見つめられた和穂は、ぱちりぱちりと目を瞬かせて兄の言葉を待つ。
「食べたいものを言った方が嬉しいのか?」
「え、うん、そうだね。食べたいものを作った方が、兄さんも嬉しいでしょう?兄さんが嬉しいと私も嬉しいから」
「・・・何でもいいのか?」
和穂が頷くと同時に、ぎらりと程穫の目が鋭さを増した・・・ように殷雷には見えた。嫌な予感が急浮上する。
ゆっくりと席を立つと、和穂の元へ歩み寄る程穫。真剣な様子に、和穂も居住まいを正して立ち上がろうとする。その右肩に程穫の手が置かれて、和穂は身を硬くした。
上体を屈めた程穫の口元が、和穂の耳に寄せられる。
「俺はお前が」
「決まったあぁあっ!!」
殷雷の絶叫と共にひっくり返された卓が、絶妙の角度で程穫だけを押し潰した。突然兄の姿が消え、呆然と卓の裏側を見下ろす和穂。卓の端から程穫の着物が見えていることに気付いて、和穂は慌てて立ち上がった。その両肩を殷雷が力強く掴む。
「水餃子だ、和穂」
「え?」
「昼飯は水餃子が食べたい」
「え、えと、うん、わかった。今ある物で作れるよ」
「じゃあ今すぐ作ってくれ」
「え、でも兄さんが」
「程穫は俺が戻しておくから気にするな」
「う、うん・・・?じゃあ、お願いするね」
殷雷の言い回しに微妙な違和感を覚えつつ、和穂は炊事場へと向かったのだった。

彼が卓に手を伸ばそうとした直後、ぐらりと卓が動いて程穫が這い出してくる。
「・・・よくも邪魔をしてくれたな・・・」
「邪魔をされたくなかったら、危ない言動をするな」
「食事を蔑ろにするなと言ったのは貴様だろう」
「お前の食事は意味が違うだろ」
「俺は食事より和穂の方が大事だ。飯が命の貴様と違ってな」
「っちが・・・!!」
そこで何とか言葉を止めたのは、殷雷にとってよかったのか否か。
「どうしたの?」
お茶を持ってきた和穂が不思議そうに首を傾げる。口を開けたまま硬直していた殷雷は、暫く経ってからぽつりと言った。
「・・・何でもない」
首を傾げたままの和穂は、とりあえず二人へお茶を出すことにする。卓を元の位置に戻していた程穫は、また何事もなかったかのように読書を再開したのだった。