仕事

殷雷が自分の寝床とする森へ戻ってきたのは、かれこれ十日ぶりのことだった。これだけ長い間ここを離れたのも久しぶりだ。
身体も多少は休めたいと思っていたが、何より精神的に消耗していた。あれだけ苛々とさせられたことがかつてあっただろうか。昔もそれなりに苛々とさせられる相手だったが、長い年月をかけて他人の神経を逆撫でする能力により磨きがかかったのではないかと、この十日間で思い知らされた。
双子たちの様子も気になったが、まずはこの荒んだ精神状態を回復させてからだ。そう考えていた殷雷だったが、計画はあっさりと崩される。

「殷雷!」

寝床へ辿り着く前から気配に気付いていた殷雷は、嬉しそうに顔を綻ばせる和穂の元へ大変複雑な表情で歩み寄った。
恐らく和穂は十日間も姿を見せない自分を心配して、様子を見に来たのだろう。ここを出た時は、双子宅へ寄る暇もなかった。その上、これほどまで長く帰ってこられないとは考えもしていなかった。
「会えてよかった」
「・・・何か用か」
和穂が何をしに来たかわかっているのに、わざわざ尋ねてしまう。それくらいしか言葉が思いつかなかった。心配してくれてありがとうなどとこの口で言える訳もない。
「最近、殷雷に会えなかったから、気になって来てみたの」
「ガキじゃないんだ。お前が気にする必要はないだろ」
「子供じゃなくても心配するよ。でも、元気そうで安心した」
にこにこと嬉しそうな和穂の目元は、少し濡れた跡があった。最初に来た時に殷雷がいなくて泣いたのかもしれない。推測することしかできないが、可能性は高いだろう。そのことに気付いてしまった殷雷の顔は、ますますしかめられていく。和穂を悲しませたことに悔やみ、彼女の気持ちに喜ぶ自分が忌まわしくなる。
「一人で来たのか?」
「ううん、途中まで兄さんと一緒に来たよ。薬草を採りに行ってる」
もやもやとした気持ちを振り払うように、話題を変える殷雷。和穂は特に気にした様子もなく素直に答えた。
「殷雷はどこに行ってたの?旅行?」
「あー・・・仕事、みたいなもんだ。昔の知り合いに頼まれてな。ちょいと手を貸してた」
「そっか。お仕事お疲れ様。お腹空いてる?うちに来れるなら何か作ろうか?」
「む、そうだな・・・」

「おや、刀の君に空腹と言う感情はないと思ったんだが、私の勘違いかな?」

彼の接近に気付かなかったのは、殷雷の油断と言われても仕方ない。久しぶりに和穂の顔を見て、気が緩んだのか。それともそれだけ精神的に参っていたのか。または無意識にその気配を感知するのを避けたのか。
どれが原因にせよ、刀としては失格だ。
「・・・先生よ、もう用事は終わっただろうが・・・さっさと帰れ・・・」
ぴくぴくとこめかみを引きつらせる殷雷と見知らぬ男性をおろおろと交互に見る和穂。
「やあ、君が和穂君だね。深霜から何度か名前は聞いているよ」
「帰れと言ってるだろうが!」
和穂が挨拶をする前に、彼女の視界を遮るようにして殷雷が吠える。こいつを和穂に関わらせる訳には行かない。
「随分と気が立っているね。そんなに私と和穂君の仲が急接近するのが嫌かい?」
「失せろ」
「残念だが、そうはいかないんだ。君にもう一つ、手伝ってほしいことができてしまってね。こうしてまたお願いに来たんだよ」
「断る。さっさと帰れ」
「うーん、君に頼めないとなると仕方ない。では和穂君に頼むとしよう」
「!?」
「え?」
殷雷が息を呑み、和穂がぱちくりと目を瞬かせる。
誰だかわからないが、この人は殷雷の古い知り合いらしい。この人の言う手伝ってほしいことと言うのは、先ほど殷雷が言っていた「仕事」に関係することなのだろう。
「わ、私ができるこ」
「だあぁっ!わかったよ!行けばいいんだろ!!」
和穂の言葉を遮って、やけくそ気味に殷雷が叫んだ。
「おお、それはありがたい!」
「でも殷雷、お仕事が終わったばかりで疲れてるんでしょう?」
「うるせい。お前は俺が戻るまで家で待ってろ」
「え、でも・・・」
「俺が行ったらすぐに飯を出せるよう仕度しとけ!」
「う、うんっ」
「導果筆、行くぞ!」
「はははっは、どこに行くか聞かないんだねえ」
森を出ていく二人を見送る和穂。暫くして、導果筆に初めましての挨拶をし忘れたことに気付いたのだった。