感謝

「ありがとう殷雷!」
歓喜の声と共に惜しみない拍手が送られたと言うのに、殷雷は何とも複雑な表情を浮かべていた。
礼を言われること自体は嫌ではない。相手が和穂なのだから、その憧れに満ちた眼差しも嬉しそうな笑みも本心から来るものだろう。彼女を喜ばせたと言うことは、殷雷にとっても喜ばしいことだった。
しかし、意地を張らせたら結構な耐久力を誇る彼である。ここで素直に「お前が喜んでくれて俺も嬉しいぞ、なんて言えるかこんちくしょう!」と喚きちらす訳にもいかず、ただ眉根を寄せて唇を噛む。
しかも、和穂の隣りからはあからさまな殺気が発せられていた。これも殷雷の表情を曇らせている一因である。頼まれたから手助けをしたと言うのに、何故ここまで強い殺意を向けられねばならないのか。
殺気の発信源である程穫は、まだ手を叩いていた和穂の手を掴み強制的に止めさせる。和穂は特に抵抗せず、兄を見てかくりと首を傾げた。
「どうしたの兄さん?」
「あまり叩くと手を痛める」
「んな訳あるか。どれだけ打たれ弱いんだ」
殷雷が突っ込むと、じとりとした暗い視線が向けられる。
「ならば正直に言ってやろう。和穂が貴様を称賛するのが気にくわない」
「正直もほどほどにしろ」
「正直なのはいいことじゃないの・・・?」
「内容とか程度とかにもよるんだよ」
和穂の問いに殷雷が疲れた声で答える。
「えと、まだ具体的にどうすればいいかわからないけど、私も気を付けるよ」
「・・・お前はそのままでいい」
視線を逸らした小さな呟きは、随分下にいる和穂へきちんと届かない。
「え?なあに?」
「何でもねえ。それより、他にすることはあるのか?」
踏み台に立ったまま殷雷が尋ねると、和穂はふるふると首を横に振った。
「もう大丈夫。殷雷が来てくれて本当に助かったよ。ありがとう」
和穂がもう何度目かわからない礼を言う。殷雷の顔が歪み、程穫の殺気は強まる。
「私も兄さんも手が届かなかったから、どうしようかと思ってたの。本当にありがとう」
双子宅に来るなり、和穂に屋根の上にいる鳥の巣を取ってほしいと言われたのだ。一応、中が空であることを確かめてから取り除いた。
「これくらい、どうってことない」
いつもの嫌な予感がひしひしと押し寄せる中、殷雷が答えて踏み台から飛び降りる。
「やっぱり背が高いっていいね」
和穂の羨ましそうな一言が、殷雷の予感を決定的なものにした。

「和穂・・・今夜は覚悟しろ。大人しく眠らせてもらえると思うなよ」

俯いたまま重苦しく呟く程穫。意味がわからない和穂はきょとんとし、殷雷は大きく傾ぎながらも気を取り直して叫ぶ。
「何血迷ったことほざいてんだ変態!」
「背の話題でなまくらと盛り上がったこと、身体の奥まで後悔させてやる・・・」
「に、兄さん、怒ってるの?えと、嫌なこと言ってしまってごめんなさい」

結局その日は夜明けまで言い合いが続き、双子だけではなく殷雷まで眠れぬまま朝を迎えたのだった。