微笑
程穫が笑みを浮かべることはほとんどない。相手を見下すための笑みならそれなりに見ることもあるが、純粋な喜びから来るものはまず見ない。少なくとも深霜はそう認識している。そのため、この光景には顎が外れるのではないかと言う勢いで驚いた。
程穫が雑貨屋の娘の前で、嬉しそうな笑みを浮かべていたのだから。
いつも程穫の傍にいる少女の姿は見当たらない。ここは双子が住む村からかなり離れている街なので、彼女は留守番していたとしてもおかしくはない。
一体どういうことなのだ。あの程穫が他人にここまで心を開くとは。これが人間の成長と言うものか。
深霜の肩が小さく震える。これは面白いネタが手に入ったかもしれない。
口元を緩ませたまま、彼女は急いで身を翻した。
いつものように双子宅へとやってきた殷雷は、卓に肘をついて茶と菓子がもたらされるのを待っていた。
程穫は街に薬草を売りに行ったので、帰りが遅くなるらしい。よかったらゆっくりしていってね、と和穂に言われる前から、今日は晩飯まで馳走になることを心に決めていた殷雷だった。
今日は少なくとも夕方までは二人で静かに過ごせるはずだ。ここでだらだらしてばかりいるのもあれなので、たまには食事の仕度でも手伝ってやるか。これは今回たまたまそう思っただけで、程穫がいようといまいと関係ない。
「ものすごく顔が緩んでるけど、何かいいことでもあったの?」
「っぶぁ!?なっ、ど、どこがだ!全く緩んでなどいないぞ!!」
「程穫がいないからって、相当油断してたわね」
「そ、そんなことは・・・ちうか深霜、お前いつからそこにいた?」
「『たまには食事の仕度でも』の辺りからよ」
殷雷が頭を抱えて床を転がる。扉に背を向けていたとは言え、彼女の気配に全く気付いていなかった。思ったことを口に出していたことにも気付かなかった。これでは油断していたと言われても仕方ない。
「たまにはこっそり入ってみるのもいいものね。とっても面白い物が見られたし」
「暗殺者かお前は!?一般住宅に気配を消して侵入するな!」
「だって和穂がヒステリーでも起こしてるんじゃないかと思ったんだもの。珍しいからじっくりと鑑賞したいじゃない」
「は・・・?何でそんなことになっていると思ったのだ」
訝しげな顔で尋ねる殷雷に、深霜がずずいと詰め寄る。彼女の楽しそうな目に気付いて、殷雷は面倒臭いことになりそうだと予感した。
「さっき街で見ちゃったのよ!程穫の浮気現場!」
「お前の勘違いだ」
「思い込みの激しい男ね。詳しいことを聞きもせずに否定するなんて」
「お前にだけは言われたくないわ!」
「そんな訳で、浮気された和穂がどうしてるかをこっそり見に来たのよ。そうしたら楽しそうに尻尾(毛先)振って独り言を言う変態が見られたんだけど」
「ぐっ・・・う、浮気浮気と言うが、程穫は独り身だろう。誰とどうなろうが浮気にはならないではないか。とは言っても、あれが他の奴に好意を持つとは到底思えんが」
「話を逸らされたとわかってるけど、そっちが本題だからしかたないか。でも本当に見たのよ。雑貨屋の娘にへらへらしている程穫を」
「五億歩譲ってあれがへらへらしていたとしても、理由は和穂がらみに決まっている」
「へらへらさせるのに、どんだけ譲らなきゃいけないのよ。じゃあ、どんな理由なのか和穂に聞いてみるわ」
奥の炊事場へ向かおうとした深霜の腕を、殷雷が掴んだ。
「何よ」
「あいつには言うな」
「何を」
「・・・お前が言おうとしていることだ」
「何で」
「っ・・・理由なんざどうでもいい」
深霜は大きく溜め息を吐いた。殷雷の手を振り払い、腕を数度振る。だいぶ強い力で掴まれたが、痕は残らないだろう。
「そこまで和穂を傷つけたくないの?もしかしたら、これがきっかけであんたになびくかもしれないのに」
「・・・・・うるせい」
否定する気力も失せた殷雷が小さく呟いたところで、盆を持った和穂が姿を見せた。
「あ、深霜、気付かなくてごめんなさい。すぐに深霜のお茶も淹れてくるね」
殷雷の前にお茶と菓子を置き、また炊事場へ向かおうとした和穂の腕を深霜が掴む。
「茶は後でいい。あんたにちょっと聞きたいことが」
「待てこらぁあ!お前、さっきの会話はどうした!!」
「どうしたも何も、あたしはわかったなんて言ってないわよ」
「ぐっ、た、確かにそうだが・・・」
全く話を理解できていない和穂が、二人の会話を追ってきょときょとと首を動かしている。深霜は自分に聞きたいことがあるらしい。殷雷は聞いてほしくないらしい。一体どうすればいいのだろうか。
和穂が結論を出す前に、二人の会話は扉の開く音で打ち切られた。
「やあ、何やら賑やかだね」
「護玄様!お久しぶりです」
喜ぶ和穂と対照的に、顔をしかめる刀二人。
「また余計なのが増えやがった・・・」
「こっちは取り込み中なんだから、さっさと帰りなさいよ」
まさに刀の如く鋭い言葉にうっすら涙する護玄。そんな彼を背後から蹴り飛ばして、空の籠を背負った少年が入ってくる。
「貴様らこそ今すぐ失せろ」
「兄さん!?お、お帰りなさい」
「お前、今日は遅くなるんじゃ・・・」
「たまたま街で会ってね。私も帰るところだったから、一緒に連れてきたんだよ」
戸惑う二人に、護玄が腰を擦りながら言う。歩けば数刻はかかる距離でも、仙人の力を使えば大幅に短縮できるのだ。
「そうだったんですか。ありがとうございます、護玄様」
深々と頭を下げる和穂に、今度は嬉しさでほろりと涙を浮かべる護玄。自分にかけられる言葉は飴か鞭しかないのだろうか。
『余計なことを・・・』
揃って舌打ちをする殷雷と深霜。少し鞭が多いのではないかと護玄は思った。
程穫が扉の傍に籠を置いて、和穂の元へ歩み寄る。
「土産だ」
「え・・・?」
白い紙に包まれた薄いものを手渡され、和穂は何度も目を瞬かせた。
「あ、ありがとう。開けてもいい?」
程穫が小さく頷いたのを見てから、包み紙を開く。
「わっ・・・!」
白い紙から覗いたのは、鮮やかな赤い飾り布。和穂が今身に着けているものとは、少し模様が違っている。
「今のはだいぶくたびれてきたからな」
「・・・・・」
「気に入らないか?」
「っ・・・!!」
尋ねられ、和穂は大きく何度も首を横に振った。紅潮した顔を兄に向けると、はくはくと口を動かす。
「落ち着け。ゆっくりでいい」
落ち着くべく一度大きく深呼吸する和穂。そして目論見に失敗した彼女は、興奮冷めやらぬまま飛びつく勢いで程穫へと突進した。
そんな和穂を、程穫が頬を緩めて受け止める。その表情は、深霜が街で見たそれと同じだった。
「ありがとう兄さん!すごく、すごく嬉しいよう!」
「そうか。よかった」
抱き合う双子を見ないように、殷雷が壁を向いて座り込む。ここに来た直後は何ていい日だと思っていたのに、この落差はなんなのだろう。
「程穫、その飾り布は街の雑貨屋で買ったのよね?」
「・・・それがどうした」
深霜が尋ねると、和穂の首元に埋めていた顔を僅かに上げた程穫が答える。
「今日あんたが雑貨屋の娘の前でにやついてるのを見たんだけど、それってつまり・・・」
程穫が口の端を吊り上げて笑う。実は思った以上に笑う人間なのかもしれないと深霜は思った。
「こうして和穂を抱けると思ったら、にやけて当たり前だろう」
目の前にいた娘ではなく、脳内の和穂に対する笑みだったと言うことか。殷雷の指摘は正しかったようだ。
「だから毎度毎度、紛らわしい言い回しをするなと言っとるだろうがあぁあ!!」
叫ぶ殷雷が流れる様な手つきで程穫だけを殴り飛ばす。彼がちょっとばかり涙目になっているのを、刀の深霜はしっかりと見届けていた。