悩在
殷雷刀はその名の通り刀である。刀とは相手を斬るための道具だ。少なくとも、殷雷自身はそう思っている。
しかし今自分は、森の中で何もせずただ座っているだけだ。人の姿をしているので、他人が彼を見て刀だと思うことはまずないだろう。刀であるはずなのに、刀として存在できない。随分と前からこの状況は続いてきた。自分の欠陥を思えば仕方ないと言う気持ちもあったが、やはり本能は疼く。誰かに使われたい。必要とされたい。
ふと思い立って、刀の姿に戻ってみた。殷雷の身体から白煙が吹き出し、煙が収まった頃には抜き身の刀が地べたに横たわっていた。上着代わりの黒い鞘は、隣りに放り出されている。これなら誰がどう見ても刀だと思うだろう。しかし森の中に刀が落ちていると言うのはかなり不自然な状況だ。誰かが捨てて行ったとでも思われるだろうか。かつて自分がこの森に置かれた時のことを思い出し、彼は刀の姿で苦笑した。
このまま誰かに拾われないかと、殷雷は思う。自分のことを求める相手が、運よく通りかかってくれればいいのに。
「殷雷!!」
鈴を転がすような声が、彼の聴覚をびりびりと震わせた。
驚きのあまり、人の姿に戻ることも忘れる。どうして、彼女がここにいるのだ。まるで自分の求めに応じるかのように。
つんのめる勢いで駆け寄ってきた和穂は、震える手で殷雷の刀身を掴んだ。まさか突然刃を握られるとは思わず、更に驚き慌てる殷雷。
『っば、馬鹿!いきなり鷲掴みにする奴があるか!!』
「・・・いん、らい?」
ぱちりぱちりと目を瞬かせ、和穂が呟くように彼の名を口にする。何が起きているのかよくわかっていないらしい。それは殷雷も同様だった。
とりあえず人の姿に戻る殷雷。座り込んだ和穂を見下ろすような格好になる。ぽかんとした顔の和穂を見ていられず、その鼻先を軽く弾く。
「痛っ!」
鼻を押さえてうずくまる和穂。軽く弾いたつもりだったが、動揺していたのか加減ができていなかったらしい。すぐに謝ればいいものを、殷雷は誤魔化すように別の話題を振った。
「お、お前から尋ねてくるとは珍しいな。一人で来たのか?」
「ううん、恵潤さんが近くまで送ってくれたの」
「恵潤が・・・?」
思わぬ名前が出て、殷雷は訝しげな顔をする。そして同時に和穂が怒っていないことに安堵する。
「殷雷がね、悩んでいるみたいだから、元気付けてほしいって言われたの」
何故恵潤がそう思ったのか、彼には見当がつかない。彼女と顔を合わせたのは随分と前のことである。しかし殷雷が先ほどまで独り悩んでいたのは事実だ。
「それで来てみたら、殷雷が刀の姿で倒れていたから、びっくりして・・・」
だから和穂はあれほど必死に、彼の名を呼び、駆けつけたのだろう。その態度が苦しいほど嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
「殷雷が無事で本当によかった。えと、さっきはいきなり掴んでごめんなさい。痛かったよね」
「い、いや、俺じゃなくて、お前の手が、その、つまり・・・」
「?えっと、殷雷は大丈夫ってこと?それならいいんだけど」
「・・・お前に掴まれたくらいで、俺がどうこうなる訳がないだろう」
またしても謝罪の機会を逃す殷雷だった。和穂がほっとした笑みを浮かべる。それを横目で見ながら、殷雷は彼女の隣りに腰を下ろした。会話が途切れたところで、和穂が控えめに尋ねる。
「よかったら教えてほしいんだけど、殷雷は何に悩んでいるの?私にできることはない?」
「・・・もう、解決した」
「え、そうなの?」
「ああ。だからお前は何も・・・」
言いかけて、止まる。和穂が首を傾げていると、にやりと口の端を上げた殷雷が再び口を開いた。
「お前はいつも通り、美味い飯を作ってくれればいい」
「うんっ、じゃあ一緒に家に行こう!」
嬉しそうに笑って立ち上がり、殷雷へ手を差し出す和穂。
その小さな手は、こうして自分を求めてくれる。刀としてではなくとも、共にいようと言ってくれる。今はそれがとても嬉しい。
「お前の細い腕で俺を引っ張り起こすなんて、無理に決まってるだろう」
「うう、や、やってみないとわからないよ」
「ようし、よく言った。覚悟はできてるんだろうな?」
いつもの意地悪い笑みを浮かべ、殷雷は和穂の手をそっと握った。