涙片
いつものごとく、殷雷は朝から双子宅へとやってきた。今朝はだいぶ冷え込んだので、和穂は熱を出していないだろうか。程穫はまず平気だろう。
そんなことを考えながら戸を開け、彼は硬直する。
「っ・・・・・!?」
そこには妹の肩を抱き、その顎に手を添え、忌々しげにこちらへ視線を向けている程穫がいた。
「あ、殷雷。おはよう」
そしていつものように頬を緩めて挨拶をする和穂。
その頬には、一筋の涙があった。
殷雷の感情が大きく乱れ、膨れ上がる。動揺か、怒りか、本人にも判断がつかなかった。いかなる時も冷静でいなければならない、武器としては失格だ。
程穫に掴みかかることは何とか堪える。彼が和穂を抱き寄せていなければ、どうしていたかはわからない。
だいぶ時間がかかったが、どうにか気持ちを抑え込み、掠れた声を絞り出す。
「・・・・・何が、あった」
「え・・・?あ、これは」
「和穂」
答えようとした和穂の顎を、自分の方に向かせる程穫。そして彼女の黒い目をじっと見つめる。
「兄さん?」
「・・・・・茶を煎れてこい。続きはその後だ」
名残惜しいとでも言わんばかりの表情で、その手を放す程穫。何の続きだと吠えかけた殷雷は、強く拳を握ることでどうにかそれを堪える。頷いた和穂は、殷雷へ「座って待っててね」と促すと、炊事場へ足早に向かっていった。
彼女の姿が見なくなると同時に、程穫の表情が不快感を全面に押し出したものへと一変する。
「断りもなく侵入してきて、何があった、だと?礼儀の足りない奴だな。人に物を尋ねる時は、それなりの聞き方と言うものがあるだろう」
先ほど和穂を呼んだ時の声と、同一人物とは思えないような棘を含んで程穫が吐き捨てる。からかうような物言いとは違い、随分と苛立っているように見えた。
「馬車にひかれた蛙のような格好でそこに這いつくばって、『どうかこのなまくらに教えて下さい程穫様』くらい言ってみろ」
「っ・・・・・お前には聞いてねえ」
「そうだったな。なら『どうかこの救いようのないほどひねくれた金属棒に教えて下さい和穂様』とでも言ってみろ」
「お前に『救いようのないひねくれ者』とか言われる筋合いはねえよ!」
「俺はいつでも素直だろうが」
「どの口が言うか!」
「お前のようにひねくれていたら、和穂に『あんなこと』はしない」
「っぐ・・・!」
声を詰まらせる殷雷。抱き合う双子の様子が脳裏に蘇る。程穫は蔑むような目線を彼に向けていた。そこには怒りの感情も含まれているように見える。
「後もう少しだったものを。貴様のせいで台無しだ」
「っ・・・・・な、にが、だ」
尋ねてよいのか、わからないまま口を開いた。
程穫の目が細められる。薄く開かれた唇から、舌先が僅かに覗いた。そのままちろりと下唇を舐め、笑みを浮かべる。
「・・・・・もちろん、俺が和穂の」
その言葉に割り込んで、軽い足音と鈴を鳴らすような声が響いた。
「お待たせ!今日はお茶菓子もあるんだよ」
殷雷は膝から崩れ落ちた。両手を床につき、うなだれる彼を見て、和穂が首を傾げる。
「殷雷?座っててよかったのに」
「なまくらはもう帰るそうだ」
「えっ、もう!?」
「誰がこの状況で帰るかぁああぁあっ!!」
「あ、そ、そうだよね。ご飯もまだだし。よかった」
卓にお茶と菓子を置き、安堵の息を吐く和穂。殷雷も肩で息をしながら何とか席に着く。
程穫もそれ以上口を開かず和穂と共に座った。
さて、どうする。
茶菓子を口に入れ、殷雷は悩む。和穂に先ほどの状況を尋ねるべきか。さすがに『和穂様』とまでは言わないが、ここで聞かなかったら本当にひねくれ者だ。
「あ、殷雷、さっきはね」
殷雷が答えを出す前に、和穂が話し出す。心の準備は全くできていない。茶菓子を軽く喉に詰まらせ、内心慌てふためく彼を、更なる動揺が襲う。
言葉を途切れさせた和穂が、片目からぽろぽろと涙を零したのだ。
「っ・・・!?」
声なき声を上げて硬直する殷雷。程穫が妹の元へと歩み寄る。そして先ほどと同じように顎を軽く持ち上げその目を覗き込んだ。
そのまま彼女の目の端に指を伸ばし、何やら摘まむような仕草をする。
それを見た殷雷の武人としての思考回路が、ちらりとある可能性を報告してきた。しかし、彼の心はそれを信じまいと否定した。いや、その方が結果としてよいはずなのだが、この後猛烈な後悔と羞恥に襲われることを思うと、できれば信じたくなかった。
「取れたぞ」
「あ、もう痛くないよ。ありがとう兄さん」
殷雷の鷹のような目が、程穫の指先に摘ままれた小さな小さな睫毛を捉える。目の前が少し暗くなった。このまま気絶した方が楽なのではないかと思ったが、武器としての彼の身体はそれを許さない。
「殷雷、さっきはね、目に睫毛が入っちゃって。兄さんに取ってもらっていたの」
「どこかの間抜けな金属棒が邪魔をしたせいで、随分手間取ってしまったがな」
「そんなことないよ。取ってもらえてとってもスッキリした。ずっとチクチクして気になってたの」
「そうか。ならこの礼は、後でたっぷりと返してもらおう」
「うん!何でも言って」
両手で拳を作りやる気を見せる和穂。程穫が嬉しそうに頬を緩める。
双子のそんなやり取りが行われる中、殷雷はこの後どのような態度を取るべきかを一人葛藤しながら、ゆっくりと卓に突っ伏すのだった。