洗待

小川を静かに流れる水が、爽やかな風と共に流れてくる。強い太陽の光は、まばらに茂った木々の葉に遮られて、その熱をほんのりと肌に伝えてきた。
殷雷は小川の傍にある木の根元に腰を下ろし、その幹に背を預けている。そして前方でばしゃばしゃと洗濯をしている和穂を、気の抜けた表情で眺めていた。

今日彼が双子宅へ行ったら、丁度和穂が洗濯物を入れた洗い桶を抱えて、家を出てきたところだった。程穫と家で待っているよう言われたが、茶菓子もなく(あれが自分に茶菓子を出すとは考えられない)延々と程穫の毒舌を聞かされ続けるのは避けたかったので、仕方なく彼女の荷物持ちをすることにした。家に戻って程穫に声をかけようとする和穂から荷物を奪い、彼女を半ば引きずるように小川へ向かって今に至る。

洗濯物を洗う和穂の手は、忙しそうに動き続けていた。額にうっすらと汗も見える。だいぶ暑さも厳しくなってきた。あまり無理をさせると、また熱やら何やらで倒れるのではと気になってしまう。
「まだ終わらんのか」
「うん、もうちょっとだよ。待たせてごめんね」
見当違いな謝罪をされたが、訂正できるほど素直な性根は持ち合わせていない殷雷だった。所在なさげに頭を掻き、何とも言えないもどかしそうな表情を浮かべる。
「・・・・・」
「あ、この後洗濯物を干すからまだかかるんだった。先に戻ってていいよ」
「口を開く暇があったら手を動かせ」
「え、う、うん」
まだ何か言いたそうにしている和穂を視線で黙らせる。先に戻って食事を用意しておくべきかとも思ったが、それはすでに程穫がしているかもしれない。だからやはり自分はこちらにいるべきだ。荷物もあることだし。

和穂は更に急いで洗い物を終えると、手際よく近くの木に紐を結び付け、洗濯物をかけていった。この陽気ならそれほど経たずに乾くだろう。
「本当にいいの?」
隣りに腰を下ろした和穂が、小首を傾げて尋ねてきた。
「くどい」
「だって、怒ってるから」
「何度も同じことを言わせるからだ」
「え?最初から怒ってた気がするけど」
「・・・気のせいだ」
「そうなの?じゃあ私の勘違いだね。同じことを何度も聞いてごめんなさい」
こう言う時、和穂が素直でよかったと思う。

暫し、風と水の音だけが辺りに流れる。そこへ和穂の寝息が加わるまでに、さしたる時間はかからなかった。
己の黒い上着を脱いで、和穂の肩にかけてやる。本当は上着をきちんと着せた方が体調を崩す心配は減るのだろうが、彼にそんな甲斐性はなかった。程穫であれば、問答無用で和穂に上着を着せるのだろう。目を覚まして遠慮する彼女に、風邪をひくから大人しく着ていろとでも言うのだろう。もしかしたら、最終的に二人で上着を羽織って一眠りするのかもしれない。
「・・・・・阿呆か」
頭を振り、それまでの考えを振り払おうと無駄な努力を試みる。そうしてやっと、和穂の肩から上着が落ちていることに気付いた。暫し固まり、極めて慎重に手を伸ばす。ここで彼女に気付かれる訳にはいかない。
虫のごとく息を潜め、気配を殺し、そっと上着をつまみ上げた。和穂はまだすうすうと寝息を立てている。しかし油断は禁物だ。
衝撃を感じさせないよう、そっと、あくまでそっと上着を寄せ。

「・・・・・っ!?」

殷雷の手がびくりと震え、その額にびっしりと汗が浮かぶ。和穂にばかり気を取られ、周囲への警戒を怠っていた。その可能性はいつでもあり得ることだったのに。
ぎしぎしと軋むかのような動きで、頭を後ろへ回す殷雷。気のせいであることを願ったが、彼の武器としての優れた感覚がそれを叶えるはずもなかった。

そこには予想通り、程穫の姿が。

「ちが・・・っ!こ、これはっ」
無言で睨み付けてくる程穫に、何を言おうとしたのか、殷雷自身にもわからなかった。その動揺した声に反応したのか、和穂が重そうに瞼を持ち上げる。
「・・・ふゃ・・・あれ、兄さん?どうしたの?」
「胸騒ぎがしたから迎えにきた。どうやらお前が穢される前に間に合ったようだな」
「お前の頭の方が穢れ過ぎだ!この被害妄想野郎!」
殷雷が突っ込むと、汚物でも見るかのような目を程穫から向けられる。
「さっきから煩いぞ。貴様のせいで和穂が起きただろうが。取り合えず死んでから地べたに跪いて詫びろ」
先ほど程穫が無言だったのは、和穂を起こさないよう配慮していたらしい。返す言葉が見つからず口元をまごつかせる殷雷に、和穂が声をかける。
「えと、そろそろ洗濯物も乾くと思うから、起こしてくれて助かったよ」
「ぐ、な、慰めなど無用だ」
「え、殷雷は慰めてほしいの?」
「んな訳あるか!」
「じゃあ慰めてあげない。さっきも、私が思ったことを言っただけだよ」
にっこり笑って言う和穂に、殷雷はやはりどう言葉を返せばいいのかわからなくなって俯いた。こう言う時に限って、程穫は洗濯物を回収していて声をかけてこない。
「上着もありがとう。とっても温かかった」
「・・・・・お、おう」
何とかそれだけ絞り出す。和穂から受け取った上着は、いつもより随分熱を持っている気がした。