油断

まさかと言うことは、思いもよらないところで起こる。だからこそ、まさかと言うのだが。
程穫は、油断していた己を心中できつくなじった。普段、殷雷に向ける罵詈雑言より数倍は酷いだろう。

両手を伸ばし無様に這いつくばった彼の目の前には、顔をしかめた和穂が座り込んでいる。先ほど尻を強く打ち付けたことによる痛みのためだろう。腰や背骨にも影響が出ているかもしれない。彼らの傍には、脚の壊れた脚立が転がっていた。ここ暫くの長雨で、内から木が腐っていたのだと思われる。

何故あの時、もう少し和穂の近くに歩み寄らなかったのか。彼女の乗る脚立の脚が、折れてしまうことを予測できなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。今となっては無駄な後悔をしかけ、すぐに思い直す。自分が今すべきことは、一刻も早く和穂の傷の具合を確認することだ。

和穂に声をかけようとしたところで、彼女の細い指が己の手首に触れた。

恐らく、痛む尻を擦ろうとでもしたのだろう。見上げると、驚きに目を剥いて青ざめる和穂と視線が絡んだ。自分の尻が兄を押し潰していることに気付いたらしい。と言ってもそれは彼の手のひらだけだったので、すぐに気付かなくて当然だろう。
「ごっ・・・ごめんっ・・・なさい、兄さんっ・・・!」
慌てて立ち上がろうとして、声を詰まらせる和穂。余程尻が痛いようだ。身体を引きずるようにして、程穫の上から退く。彼の両手はやっと自由を得た。このまま彼女の着物をひっぺがして、尻の傷を確認したかったのだが、事はそう簡単にいかない。
「大丈夫?」
泣きそうな顔を寄せて尋ねる妹に、程穫は「それはこちらの台詞だ」と言いたかった。しかしそう言ったところで、和穂は平気だと言い張るだろう。兄に迷惑はかけたくないと、余計な気を遣うのだろう。
なのでやはり強引に着物を脱がせて尻を見ることが最善手だと思うのだが、どうしたものかと思案に暮れる。
「そ、そんなによくないの・・・?」
いつまでも黙り込んでいる兄に耐えかねたのか、和穂の瞳からほろりと涙が零れた。それに気を取られた程穫は、つい思うままに口を開く。

「いや、指を何本か折っただけだ。それよりお前の尻を見たいんだが、これでは両手が動かん」

言ってから、しまったと思った時にはもう遅い。今日はよくよくうっかりが多い日だ。
「っお、折れたの!?たた、大変だ!!」
混乱気味に叫んで立ち上がろうとし、また腰を押さえて呻く和穂。骨折の衝撃が大き過ぎて、尻を見せろと言う要求は耳に入らなかったようだ。
「大変なのはお前の方だ」
「ど、どうしよう!?両手なんだよね!?」
「このくらい放っておけば治る。それよりお前の」
「本当にごめんなさい!私のせいでふっ!」
両手が使えないので、とりあえず騒ぐ和穂に体当たりをかます程穫。その衝撃に奇声を上げた和穂は、兄に押し潰されてひとまず大人しくなった。
「和穂、聞け」
彼女の身体の上を這うようにして、己の口を耳元へ近付ける。
「俺が勝手にお前を助けようとしてしくじっただけだ。お前は関係ない」
「で、でも」
「これから俺は暫く両手が使えなくなる。治るまでは、お前が俺の手になれ」
何か言いかけた和穂を遮って言うと、彼女はまた瞳に涙を溜めてから、深く頷いた。その涙をいつものように拭ってやりたかったが、両手は重い痛みに襲われ言うことを聞かない。
「頼れるのはお前だけだ。期待している」
「うんっ!頑張るよ!」
力強い返事に、程穫は頬を緩めた。和穂もつられたのか涙をこぼしつつ笑みを浮かべる。

とそこで、唐突に双子宅の扉が開く音がした。

いつものごとく、殷雷刀が来たのだろう。一体いつになったらノックと言う礼儀を覚えるのか。
少し間を置いてから、自分たちがいる台所へとやってくる気配がした。

「っな、何してやがるお前ら・・・!?」

そして程穫が和穂を地べたに押し倒している現場に遭遇してしまった殷雷は、一度硬直してから随分と動揺しつつ吠える。
普段なら悪態の一つや二つや百くらいつく程穫だったが、今回は事情が違う。むしろこれ幸いと口を開いた。

「丁度いいところに来た。和穂の尻を見るから、今すぐ着物を脱がせろ」

殷雷だけではなく、和穂まで呆けた顔になったのは言うまでもない。
「・・・・・っ誰がお前の犯罪の片棒を担ぐかあぁあああっ!!」
この状態では、殷雷の深くえぐりこむような一撃を避けることなどできようはずもない。まともに拳をくらった程穫は、壁までふっとんで昏倒した。

□■□

程穫が意識を取り戻すと、折れた両手は治っていた。和穂も普通に歩いている。殷雷はいまだに殺気立った視線で彼をにらみつけていた。
あれから何があったのかを和穂に聞いてみたところ、殷雷が龍華を呼んできたらしい。彼女の術だか道具だかで、自分たちの傷を治したとのことだった。

恐らく和穂の尻の傷は跡形もなく消えているのだろう。尻を見る機会を逃したのは少し惜しいが、彼女の怪我が早く治ったのは素直によかったと思う程穫だった。