互結
辺りにうっすらと漂う異様とも言える雰囲気に、殷雷は警戒心たっぷりの視線を巡らせた。おかしい。何かが起きている。
ここは彼が毎日のように通う双子の家で、いつものように自分と程穫が卓につき、和穂は奥の台所で昼食の仕度をしていた。台所からは美味そうな香りと、彼女の少し調子外れな鼻歌が流れてきている。何かいいことでもあったのだろうか。
台所の方に向けていた視線を、そろそろと程穫へ移動させると、そこには「いつものように」分厚い本を読んでいる彼の姿があった。
しかしその口元には薄い笑み。これが違和感の原因か。
いつもなら無表情、または不快な顔、もしくは企むような笑みを向けてくる程穫が、今はただ単純に嬉しそうなのだ。和穂も鼻歌を歌うほど機嫌がいいようだし、双子たちに何かあったのかもしれない。
彼らが困っているならまだしも、喜んでいるのだから、こちらが心配や詮索をする必要などない。それにこのまま食事が用意されるのを待っていれば、和穂が自分から何があったのか話す可能性も高い。あの程穫がこんなにも浮かれているのだ、余程のことがあったに違いない。
殷雷がこのまま様子を見ようと決めた直後、程穫がふと視線を本から離し台所の方へと頭ごと移動させた。その片目は熱を帯びたかのようにうっとりと細められ、
「さっきからにやにやと気持ち悪いんじゃお前はぁあっ!」
あまりにも早々に我慢の限界を迎えた殷雷は、卓をひっくり返して程穫を押し潰した。よそ見をしていた程穫は警戒心も薄れていたのか、あっさりと卓の下敷きになる。我に返った殷雷が慌てて卓を戻すと、椅子と共に倒れていた程穫が憮然とした顔で睨みつけてきた。よく見る表情につい安堵してしまう。
「随分な暴挙に言い草だな。無遠慮に飯をたかりにきて、突然卓で殴りかかりかった挙句、気持ち悪いだと?」
「・・・すまん」
珍しく素直に謝る殷雷。確かに先ほどの自分は、唐突に難癖をつけてきた当り屋以外の何者でもない。
いつもならこの後にも罵詈雑言を浴びせてくるはずの程穫は、やはり異様なことに無言で椅子を戻して腰掛けた。和穂と同じく機嫌がいいからだろうか。これではますます気になってしまう。
「おい、何があった」
「何がだ」
「しらばっくれても顔にでてるぞ。随分浮かれているじゃないか」
そう突っ込むと、程穫は珍しく呆けたような顔をした。やはり今日の程穫はおかしい。しかもそのまま無言で俯いてしまう。隠された顔はにやけているのか、怒っているのか、全く見えないし推測もできない。と、そこで気付く。
髪の間から覗く程穫の耳が、いつもより赤く色づいていることに。
「っ・・・・・!!」
卓の端をぎちぎちとつかんだまま、殷雷は何とか二度目の攻撃を繰り出すことを耐えた。やっぱお前気持ち悪いと相手を非難することにも耐えた。もし程穫が恥じらう表情をこちらに向けていたら、恐らく耐え切れなかっただろう。こいつは本当に程穫なのか?実は偽物か、または自分を騙そうとしているのではないか?
そうだ、これが彼の演技だと言う可能性は大いにある。自分にまた勘違いをさせて、後でからかうつもりなのだ。きっとそうに違いない。どうかそうであってくれ。
何かに祈りだす殷雷の耳に、程穫がぽつりと零した声が届く。あまりに小さいそれは、途切れ途切れになっていた。
「・・・今朝、和穂と・・・・・・・・・・結ばれた」
ああ、やはりそうだ。こいつは自分を騙している。ここで動揺しては相手の思う壺だ。殷雷は罠に嵌るまいと必死に平静を保つ。
「ほ、ほぉお、そいつぁようござんした」
「・・・意外だな。お前なら、怒り狂うと思っていた」
少し震える声で言う殷雷に、程穫は驚いた顔を向ける。よし、上手くやれているぞ自分、と殷雷は自らを褒めた。
「は、ははは、何を仰るうさぎさん。仲良きことは美しきかな。いいことじゃないか」
「・・・そうだな。すごく、いいことだった」
頬を僅かに赤く染めて、和穂のようなふわりとした笑みを浮かべる程穫。頑張れ自分。ここで我を失ったら負けだ。大人の態度で会話を続けるのだ。
「そ、そうかい、それはよかった。ところで、いいことってナンダイ?」
「和穂の滅多に見られないところが見られたし、聞いたことのない声も聞けた」
自分は武器、自分は冷静沈着な武器、と己に言い聞かせる殷雷。
「は、はっはぁ、それはまたまた、大変喜ばしいことで、こんちこれまた」
「ああ、すごく嬉しかった。あんなことするのは初めてで、少しきつくやりすぎてしまったんだが、和穂は大丈夫だと笑って許してくれた」
子供の頃でも、程穫がこんなに喜びを露わにしてしゃべることはなかった気がする。いいことのはずなのに、何故だかちっとも嬉しくない。
「あ、アー、ああーっ、さいでございますかー」
「明日もまたやりたい。どうせなら毎朝やれるといいんだが、和穂は困るかもしれ」
「どぅるがらっしゃあぁああ!!いい加減にしろこのガキャあ!!卓で平らに伸ばして細長く巻いてやんぞゴルァあぁあ!!」
どんどん恍惚とした表情になっていく程穫を笑顔で見守っていた殷雷の何かがキレた。
普段以上のキレっぷりで意味不明な雄叫びを上げると、程穫の胸ぐらをつかんでぶん投げる。熱弁を奮っていた程穫は、抵抗することももなく壁に叩きつけられた。
「ど、どうしたの!?」
大声と騒音に、和穂が慌てた様子で駆けてくる。
どうしたのって聞かれても・・・程穫がお前との惚気話を長々してくるんで、キレた自分が程穫を壁に叩きつけました、なんてこの殷雷が言える訳もない。
「兄さんっ!だ、大丈夫?」
何も言えず固まる殷雷の脇を抜けて、和穂が壁際に座り込む程穫へと駆け寄る。膝をつくと、程穫の身体をあちこち見回し始めた。
「怪我はない?」
「平気だ」
「本当?我慢しないでね」
「ああ、我慢するくらいなら、お前につきっきりで看病してもらう方がいい」
にやりと笑って言う程穫に、和穂がほっとした表情を浮かべる。
程穫が和穂の手をとって共に立ち上がった。そして今だ動けない殷雷へ、凍り切った蔑むような視線を突き刺す。ああ、これはいつものあれがくるな、と彼が思った直後。
「貴様もかなりの人でなしだな。無遠慮に飯をたかりにきて、突然卓で殴りかかりかった挙句、気持ち悪い奴だと宣って、その上壁へ叩きつけるとは。ああ、元から人じゃなかったか。非情な武器だけあって随分と容赦ないじゃないか。しかしおかしいな、殷雷刀は非情になれない武器だと聞いたのは気のせいだったか。お前も変わったな、武器としてはとてもいい方向に」
いつもの鋭過ぎる物言いだが、今回は自分が全面的に悪い気がする殷雷。程穫に自分をからかったり騙したりするつもりがあったのか、よくわからないのだ。いいことがあったのだと、喜々として報告してきただけのようにも見えた。もしそうなら自分は本当に人でなしだ。確かに人ではないのだが。
「・・・・・すまん」
「殷雷、どうしたの・・・?兄さんに嫌なことを言われたから怒ったんじゃないの?」
またしても素直に謝る殷雷を見て、和穂が驚いた顔で尋ねる。
「いや、俺が勝手に苛ついただけだ・・・」
「どうして?」
だからそれは言えないのだ、と声を詰まらせて苦々しい顔をする殷雷。しかし和穂が心配そうな顔で見てくる以上、何か言わねば納得しないだろう。するとそれまで黙っていた程穫が、和穂の頭を引き寄せて口を開く。
「なまくらが怒った理由なんて聞いてどうする」
「え?」
「あいつが泣こうが怒り狂おうが、俺達には関係ないだろう。放っておけ」
放っておいてくれるのは殷雷としてもありがたい。が、和穂はそれで引き下がりはしない。
「そんなの嫌だよ。殷雷が泣いてたら泣かなくていいようにしたいし、怒ってたら怒らなくていいようにしたいもの」
「・・・どうしてだ」
少しむっとした顔で程穫が訊ねると、和穂はきょとんと目を瞬かせた。
「え?だって殷雷がいつもにこにこしてくれた方が、私が嬉しいから」
殷雷がたまらずしゃがみ込み、程穫はますます憮然とした顔つきになる。もう自分のことはいいからご飯の用意して下さい、と殷雷は胸中で叫ぶ。しかし双子はそれを許さない。
「なまくらは、今朝俺達がよろしくやってたのが気に食わないんだとさ。だから勝手にむくれさせておけばいい」
「え、朝?」
「あいつがしつこく何があったと聞いてくるから『今朝、和穂とお互いの髪を結び合うことになって、無理矢理だったが俺の髪も結ばれた』と言ったら突然殴られた」
「ええっ!?」
「折角お前が俺の髪を結んでくれたのに、さっきなまくらに投げ飛ばされたせいで取れてしまったぞ」
程穫が和穂の前に開いた手の中には、紺色の短い飾り紐が見えた。全くわからなかったが、あの短髪のどこかに結わえつけられていたらしい。最初の違和感には、これも含まれていたのではないだろうか。
『今朝、和穂と』お互いの髪を結び合うことになって、無理矢理だったが俺の髪も『結ばれた』
「いや、聞き間違いにしちゃだいぶ苦しいだろ!」
思わず一人ツッコミをする殷雷。このシスコンならそんなことを宣いそうだと言う思い込みもあったのかもしれないが、それにしてもこの勘違いはどうだろう。
程穫はいつもの不機嫌な表情でこちらを睨みつけている。こちらを騙すつもりがあったのなら、この辺りで馬鹿にした笑みになっていてもおかしくない。今回は本気で浮かれていただけだったのだろうか。
「え、ええと、殷雷も髪を結んで欲しかったの?長いと大変だよね。私も今日は兄さんに結んでもらったから、いつもより綺麗にできてるでしょう?」
「和穂、そんな無礼も甚だしい奴の髪になんて触れるな。お前と、いやお前『に』結ばれていいのは俺だけだ」
「ぐっ・・・やっぱりわざとじゃないのか・・・?」
「何の話だ?一人で勝手に恥ずかしい勘違いをした挙句に暴力を振るう馬鹿の戯言についてか?」
「むぐぐっ・・・」
「い、殷雷?すごく震えてるけど大丈夫?」
ろくに言い返せない殷雷だったが、その日もしっかり双子と共に食事をして、ついでに髪に長い飾り紐を結ばれて帰ったのだった。