解言
殷雷は苦虫を噛み潰したような顔で硬直していた。さてこの状況で自分はどうすべきか。
彼の目の前には、双子と護玄が卓を囲んで座っている。まだ幼い双子の世話を焼くため、護玄がここにいることは少なくない。
「で、これがここに書いてある薬草だ。こいつは時間が経ったから少し色が変わってしまったが、生えている時はもっと緑が濃い」
説明と共に、護玄が手にした薬草を程穫に見せていた。程穫は卓に置かれた薬草辞典とその実物を穴が開くかと言うほど交互に見つめ、まだ短い腕を伸ばして薬草に触れる。
「匂いも覚えておけ。見た目が同じような薬草は山ほどあるからな」
護玄の言葉に小さく頷いて、薬草に鼻を近づける程穫。この子供が素直な態度を見せるのは、妹の前とこの護玄の薬草講座の時ぐらいである。
先日から始まったばかりの薬草講座に、実はあまり同席したくない殷雷なのだった。嫌な汗を浮かべながら、彼が視線を向けた先には、幼い少女が一人座っている。
俯きがちに、一人で何も言わず、和穂は座っているのだった。
いつもの扉ではなく勝手口から入ってきたため、和穂は、そして恐らく程穫も、まだ殷雷に気付いていない。護玄はとっくに気付いているはずだが、程穫の相手を優先しているのだろう、こちらにはまだ何も言ってこなかった。
いつもなら和穂には程穫がべったりくっついているので、彼女が一人になることはほぼない。ただこの薬草講座の時だけは、程穫が和穂から離れて、彼女は遠巻きに一人その様子を見ている。
初日から和穂は程穫たちに近付こうとしなかった。殷雷が共に話を聞かないのかと和穂に尋ねたら、邪魔をしたくないのだと泣きそうな顔にも見える笑みを浮かべて言われてしまったのである。それから彼はこの時間に対して、大いに苦手意識を持っていた。寂しそうな和穂をただ見ているだけの自分に歯がゆさも感じている。
「殷雷刀、そんなところで突っ立ってないで、茶でも淹れてくれないか」
不意にかけられた護玄の声に、ぎくりとすると同時にほっとする。先ほどまで無表情だった和穂がこちらを向いて、「いんらい」と小さく名を呼び顔を綻ばせていた。自分が今ここにきたことは、無駄ではなかったようだ。
茶を淹れるために台所へと向かおうとして、ふと思い立ち声をかける。
「和穂。お前もくるか?」
「っ・・・うん!」
跳ねるようにして、和穂が椅子から下りてこちらへかけてきた。程穫はその様子を無言で凝視していたが、和穂が殷雷の元へ辿り着くとまた薬草に視線を戻す。妹が転ばないか気にしていたのだろうか。
殷雷は和穂の歩幅に合わせて、ゆっくりと台所へ向かった。
「茶菓子はもうないのか?」
湯を沸かし、棚を漁りながら尋ねる殷雷。昨日来たときあったはずの栗羊羹が見当たらない。
「さっき、ごげんさまが、あしたもってくるっていってたよ」
「む・・・あの栗羊羹はどうした?まだ残っていただろう」
「えっと、さっき、ごげんさまとたべちゃった。ごめんね、いんらい・・・」
「なっ・・・い、いや、俺が食いたかったと言う訳ではなく、何もないとお前が物足りなかろうと思ってだな、つまりその」
苦し紛れな殷雷の言い訳を、和穂は目を何度も瞬かせながら聞いていた。その言葉を理解しようと努力しているのだろう。暫くして和穂は力なく項垂れる。
「ごめんね、わたし、いんらいのいいたいことが、わからない」
「いや、別に・・・」
「みんなのいうこと、いっぱいわからないの。ごめんね・・・」
「和穂・・・」
恐らくそれは、先ほどの護玄たちの話を指しているのだろう。一緒に話を聞いてもわからなくて、質問すると邪魔になってしまうだろうから、彼女はいつも一人離れたところで俯いていたのだ。
「いんらいのことも、わからなくてごめんなさい・・・」
瞳にうっすらと涙を浮かべ始めた和穂に、殷雷は内心大慌てしつつも、落ち着いた大人の振りをして、小さな両肩に手を添える。
「っ・・・わからなくていい」
「え?」
きょとんと目をまたたかせた和穂の瞳から、ぽろりと雫が零れた。濡れた頬を指先で拭ってやった殷雷は、それ以上涙が続かないことにひっそり安堵する。
「お前はまだ子供だ。それにまあ、いろいろあってだな、お前は程穫より頭がうまく回らんのだ。だから程穫にわかって、お前にわからないことはたくさんある」
和穂は1年ほど前、頭に大怪我を負っていたのだが、本人は覚えていない。その怪我がいろいろと彼女に悪影響を与えているそうなのだが、細かいことはもっと和穂が成長してから話すべきだろう。
「・・・そうなの?」
「ああ。だからこれからゆっくり、わかっていけばいい。わからないことは世の中に山ほどある。いちいち落ち込んでたらキリがないぞ」
「・・・・・いんらいもわからないこと、いっぱいあるの?」
「そうだな。だが気にならない。お前も気にするな」
「・・・そっかあ」
へにゃり、と和穂が笑った。強張っていた身体からも、力が抜けたようだ。少しは気が楽になったのだろうか。
「お前も薬草のことを覚えてみるか?わからなくても、あいつらに聞けばいい。二人とも大喜びで教えるだろうよ」
和穂は目を丸くするが、首を横に振った。先ほどとは打って変わって、その動きには力がある。
「ううん。てーかくが、がんばってるから、やっぱりじゃましたくない」
程穫が必死に薬草の知識を溜めこんでいるのは和穂の身体のためなのだが、彼女自身はそれをわかっていない。程穫も話すつもりはないようなので、周りも黙って彼に協力している。
殷雷はうっすら笑って、和穂の頭に手を乗せた。これから薬草講座の時も顔を出そう。そして和穂の相手をしよう。それが自分の役割だ。
「そうか。じゃあ、茶を淹れたら散歩にでも行くか」
「え!いいの!?」
驚きと喜びに目を見開き、頬を紅潮させる和穂。興奮させ過ぎないよう気を付けないと、明日は熱を出すかもしれない。
「ちょっとだけな。すぐ帰れば大丈夫だろ」
「うん!うれしい!」
「あんまりはしゃぐな。倒れるぞ」
「うん!はしゃぐってなに?」
「わからないのに頷くな」
頭を軽く小突いても、和穂はにこにこと笑っていた。