行方

ゆやは週に一度だけ来る郵便屋を見送った後も、暫く門の前で立ち竦んでいた。
遠くを見つめ、心配そうに眉根を寄せる。郵便屋から受け取った直後に見た手紙の中に、彼女が探している名前はない。
「どうしたのかしら・・・」
姿を見せなくなってからもう半月近く立つ、辰伶のことを思い浮かべて、ゆやは一つ溜め息を吐いた。

暫く前に起きた『ゆや誘拐騒動(別名、アルバイト事件)』から、辰伶は狂たちのいる屋敷に顔を出さなくなっていた。以前は、狂やほたるを斃すだの、以前の借り(来る度に何だかんだで夕食をご馳走になっているため)を返すだのと言ってはここへやって来ていたのだが、近頃は全く見かけない。
「はあ・・・」
「ゆやさん?」
無意識のうちに溜め息を吐いてしまったゆやは、たまたまここに立ち寄ったアキラが隣りで訝しげな表情を浮かべたのを見て、慌てた後笑顔になった。生憎、アキラに急ごしらえの作り笑いが通用する訳もなかったが。
「心配事ですか?私でよければ力になりますが」
アキラの心遣いに、ゆやは嬉しくなる。そしてアキラは、ゆやの『心配事』を聞いて軽く、いやかなり後悔することとなった。

「最近、辰伶さんが顔を見せに来てくれなくって・・・元気ならいいんですけど、何かあったんじゃないかって心配で」

ここで、『はあ、そうですか』と軽く流せればどんなにいいだろう。しかしそれではゆやは落ち込んだままである。しかも他の男のことで。
僅かな葛藤を終え、アキラは軽く息を吐いた。
「・・・わかりました。私が様子を見てきましょう」
「ええ!?だ、だめですよ!そんな、悪いです!!」
必死で止めてくることはアキラにもわかっていた。彼女は、人に迷惑をかけることが嫌いだから。
引き止めようとするあまり、アキラの腕を掴むゆや。その感触が心地よくて、アキラはくすりと頬を緩めた。
「大丈夫ですよ。少し探して、無理だと思ったら引き返してきますから」
「でも・・・!!」
なおも食い下がるゆやの唇に、アキラの指が軽く触れる。

「その代わり、無事に探し出してきたら、その時はたっぷりとお礼をしてもらいますからね」

「・・・!!」
「では行って参ります。夕暮れには戻ってきますから」
楽しみにしていて下さいね、と言ってアキラはゆやに手を振り屋敷を後にした。

「・・・何してんの?」
門の前で何かを待つように佇んでいるゆやへ、ほたるが声をかけた。一時間ほど前に彼女の姿を見つけた時は、気分転換でもしているのだろうと思ったのだが、まだ空気が冷たいこの時期に一時間後も同じ場所で立ち続けているのはおかしい。
ゆやは、僅かに震えて振り返った。それは寒さか、それともほたるの声に驚いただけか。
「ほたるさん」
「風邪引くよ。召使は身体が資本だから、体調管理はしっかりしないとだめなんでしょ?」
それは以前、風邪を引いて倒れてしまったほたるに、ゆやが看病しながら言った言葉だった。怒っているのか、泣いているのか判断し辛い彼女のお説教は、今もほたるの脳裏で鮮やかに思い出すことができる。
「・・・はい」
力なく微笑んで、頷くゆや。ほたるは、いつもの無表情のまま首を傾げる。
「何、してたの?」
そして先ほど返されなかった問いを、もう一度かけた。苦しそうに眉根を寄せるゆやは、見てるこちらが痛々しい。

「・・・アキラさんが、帰って来ないんです」

もう、夕日は山の向こうへすっかり隠れてしまっていた。

息を潜めて廊下を歩く。できるだけ気配を殺して、足音を立てぬように。
しかし、そんなゆやの努力はあっさりと水の泡になる。

「何してる」

「ひゃっ・・・き、狂!脅かさないでよ!!」
夜中にこそこそと門の方へ向かっていたゆやに、声をかけてみれば怒られて、狂はいつもの憮然とした表情を更にしかめた。
「ぎゃーぎゃーうるせえ。トイレなら逆だろうが」
「違うわよ!!」
「どこへ行く気だ」
「・・・ち、ちょっと散歩に」
「狼や熊がうろうろしている森にか」
「ええと、外に出て涼もうと思っただけよ。森には行かないわ」
「・・・・・」
狂の紅い目が、じっとゆやを凝視する。明らかに何かを隠しているゆやの様子に、狂は気付いていたが何も言わなかった。舌打ちすると、そのまま彼女に背を向け歩き出す。

「・・・心配してくれてありがとう」

遠ざかる狂の背に、擦れるような声でゆやが呟いた。聞こえているのかいないのか、それは振り返らぬ狂自身にしかわからない。

辰伶を探しに言ったアキラは、結局次の日になっても帰ってこなかった。その上、数日たった今も、顔を見せなければ連絡一つ寄越さない。これは明らかに異常事態である。
あの時、意地でもアキラを止めていればと、ゆやは己を責めた。自分はこの屋敷で召使としての仕事があるからと、アキラに頼ってしまったことを後悔した。

そして今、彼女は屋敷の門の前に立っている。

昨日準備しておいた荷物を、傍の茂みから引っ張り出して。中には水筒や保存食、そして彼女が護身用にと兄から押し付けられた短筒が入っていた。心配性の兄は既にこの世におらず、それは形見となってしまったが。初めてゆやはその武器があったことに感謝した。これがあれば、森に出る狼や熊も何とか撃退できるだろう。

「・・・無事でいて」

そしてゆやは、独りで闇に包まれた森へと駆け出した。辰伶とアキラを見つけ、無事を確かめるために。

「・・・・・あの馬鹿女」
気取られぬようにゆやの後をつけていた狂は、門から離れた木の影で、先ほどよりも更に大きく舌打ちをする。
何が散歩だ。そんな必死な顔で涼みに行く奴があるか。
胸中で文句を吐きながら、狂は己の部屋に戻って行った。
「勝手にしろ・・・」
彼の眉間の皺は、普段より確実に増えている。

緊張のためか、ゆやの呼吸は上がっていた。まだ森を歩き始めてから数分しか経っていないにもかかわらず。辺りは僅かに差し込む月明りのみで、進み辛いことこの上なかった。しかし、昼間に抜け出すことは周りの目もあるため不可能に近い。だから、ゆやはこうして夜中に出てきたのである。
ランプも荷物の中には入っていたのだが、野生の動物を呼び寄せてしまうのではないかと思ったら使えなかった。できるだけ、ここでは騒ぎを起こしたくない。
しかし、そんなゆやの心配は無駄に終わる。

「こんなとこで何してるの?」

暗闇の恐怖など欠片もない声が突然上がり、ゆやは思わず叫びだしそうになってしまったのをぐっと堪える。
振り返った彼女の目の前に、いつも通りの笑顔を浮かべている幸村がいた。まるで、たまたま街ですれ違ったとでも言うような気軽さで、なおもゆやに話しかけてくる。
「女の子の一人歩きは危ないよ。迷ったんなら、屋敷まで送ってあげようか」
その、あまりに普通過ぎる態度に、ゆやは軽く混乱した。思わずここが物騒な森の中であることを忘れそうになり・・・

刹那、狼の遠吠えを聞いてびくりと肩を震わせる。

「うーん、囲まれたね。どんどん増えてるみたい」
「ゆ、幸村さん。暢気に構えている場合ではないと思うんですけど」
早く逃げましょう、とゆやは幸村の腕を引いた。しかし、幸村は大丈夫と笑ってそこを動こうとしない。
闇の奥で、鋭い眼光がゆやと幸村を捕らえた。

・・・が、いつまでたっても狼の襲撃は来ない。

それどころか、あれほどざわついていた空気が、今は水を打ったように静かである。何が起きたのか全くついていけないゆやは、困惑した様子で幸村を見上げた。
「ね。大丈夫だったでしょ」
人差し指を立てて幸村がそう言った直後。
「ぬわぁにが大丈夫だったんですか!!勝手にふらふらとしないで下さいと何度言えばわかるんです!?」
幸村の背に、怒り心頭の叫び声がかけられる。ゆやはまたしても驚きに身を震わせたが、次の瞬間すぐに安堵の息を吐いた。
「才蔵さん・・・そっか、幸村さんがいるんだから、才蔵さんもいて当たり前ですよね」
才蔵は、ゆやに律儀な挨拶を済ませてから、再び幸村へ説教じみた台詞を長々と訴える。にこにことしている幸村はそれを聞いているのかいないのか。
「・・・一応、俺もいるんだけど」
背後で上がった少し不満そうな声に、ゆやは顔を綻ばせて振り返った。狼を追い払ってくれたのは、才蔵一人ではなかったらしい。
「サスケ君!」
嬉しそうなゆやを見て、サスケは不満気な顔を少し赤らめる。
「・・・ゆ」
「で、ゆやさんはこんなところで一体何をしてるのかな?」
何か言いかけたサスケを遮って、幸村が才蔵から逃げるようにゆやの隣へ回った。
才蔵はまだ言い足りなさそうな顔をしていたが、こちらはゆやの台詞を遮ることなく待っている。
幸村と才蔵と、また不満そうな顔になってしまったサスケに見つめられて、ゆやは困ったように視線をふらつかせた。
「ちゃんと理由を話してくれたら、力になるから。ね?」
「女性の一人歩きは危険です。どちらへ行くにしろ、我らがお送りします。なあ、サスケ」
「・・・・・ああ」
言いたいことを全て二人に取られ、サスケはますます不機嫌になっていくのであった。

「・・・二人とも音信不通で行方不明、か」
「はい。辰伶さんもアキラさんも、きっとどこかで何かに巻き込まれたんだと思うんです。だから・・・」
「ゆやさん独りで助けに行くつもりだったんだ?」
「は、はい・・・」
全てを話し終えてから、ゆやは大それたことを言ってしまったと軽く後悔した。
「もちろん、アキラさんたちが苦戦してる人を私がどうにかできるとは思ってませんけど、でも、このままお屋敷で何もしないで待っている訳にはいきませんから」
拳を作って言うゆやに、幸村はくすりと微笑む。
「そっか」
「はい!」
「じゃあ仕方ないね。ゆやさんも仲間に入れてあげよう!」
「・・・はい?」
幸村のよくわからない台詞に、ゆやが目を点にする。
「ボクたちが何でこんなとこにいるのか、知りたくない?」
「し、知りたいですけど、それより仲間ってどういうことですか・・・?」
突然、幸村に『仲間宣言』をされて、訳のわからないゆやは目を瞬かせて尋ねた。
「幸村様!私は反対です!!ゆや殿を危険な目に合わせる訳には・・・」
才蔵がうろたえつつも反論する。
「俺もそう思う。ゆや姉ちゃんはこのまま屋敷に帰った方がいい」
それにサスケまでもが賛成したものだから、幸村はどうしたものかと首を捻る。
ゆやはまだ状況がわからなかったが、このままでは屋敷に連れ戻されそうだと判断し、それだけは嫌だと主張した。
「お願いです!足手纏いにならないようにしますから!」
「ゆや姉ちゃん・・・」
そうは言っても、ゆやは確実に自分たちのお荷物となってしまうだろう。ゆやには可哀相だが、彼女を危険な目に合わせないためにもそれを告げなくてはならない。
サスケが意を決して口を開こうとした時、幸村の手がそれを遮った。

「心配でいてもたったもいられない時の気持ち、サスケにもわかるだろう?」

小さく囁かれ、サスケの脳裏を過ぎったのは、先日ゆやが誘拐された時のこと。すぐにでもゆやを助けに行きたかったのに、サスケは怪我が治るまで行くことができなかった。ゆやが心配で心配で、苦しくてたまらなかった気持ちが蘇る。今のゆやは、その時のサスケと同じ気持ちなのだろう。
「・・・わかったよ」
しぶしぶ、サスケは承諾した。そして、顔を綻ばせるゆやに、びしりと指を突き付けて。
「その代わり、絶対に俺の傍から離れるなよ」
「うん!ありがとうサスケ君!」
「・・・・・」
赤くなって頬を掻くサスケを遠目に、幸村は満足気な顔で頷いていた。その隣りでは、才蔵がまだ反論し続けていたが、その意見が聞き入れられることはなかった。こうして、ゆやは晴れて幸村たちの仲間に加わったのである。
「それで、どうして幸村さんたちはこんな時間にこんなところにいるんですか?」
事情を聞き出すべく、単刀直入に尋ねるゆや。
「それはね・・・」
「そ、それは?」
いつになく真剣な幸村の顔に、ゆやがごくりと喉を鳴らし。

「熊狩りに来たら迷子になっちゃったからなんだよねえ」

色々な意味で衝撃の事実を聞かされ、ごん、とゆやは傍の木に頭をぶつけた。
「ゆ、ゆや姉ちゃん!?」
「大丈夫ですか、ゆや殿!!」
「・・・だ、大丈夫です・・・熊狩りは聞かなかったことにして、幸村さんたち、迷子だったんですか?」
「違うよ。迷子になってたのはボクで、才蔵とサスケは迎えに来てくれたんだ」
幸村の後ろで深く頷くサスケと才蔵。どうやら冗談ではないらしい。
「あ、あの、それとアキラさんたちが行方不明なのとは何か関係が・・・?」
戸惑うゆやに、幸村はその通りだと頷いた。

「ボクが迷子になってこの辺りをうろうろしていた時に、男が気絶したアキラくんを抱えて歩いているところを見たんだ」

「・・・そ、そんな!」
ゆやが愕然とする。その男とやらが、アキラを誘拐した犯人なのだろうか。
「追いかけたんだけど、途中で巻かれちゃって。ますます迷子になっちゃったんだよね」
「幸村・・・あんまり『迷子』を連呼しないほうがいいと思うぜ」
「言うなサスケ!そこは突っ込んではならぬところだ!!」
ぼそりと言うサスケに、同じく小声で才蔵が叫んだ。
「ま、そんな訳でボクたちは、謎の男に連れ去られたアキラくんを探してたんだよ」
「そうだったんですか・・・」
幸村とサスケと才蔵が、まさか自分と同じ目的で動いているとは。予想外の展開に、ゆやは驚くばかりだった。
そして、ふと気付く。
「あれ?でも、アキラさんが辰伶さんを探しに行ってからもう何日か経ってますよ?幸村さんがアキラさんを見たのって・・・」
「う~ん、確か三日前位かな」
「・・・幸村さんって、森で迷子になってたんですよね?」
「うん。熊狩りしてたらいつの間にか」
「サスケ君たちと幸村さんが合流したのって、いつの話ですか?」
「今日のお昼だよ」
「・・・・・・・つまり幸村さんは、熊狩りをしていて迷子になって、アキラさんが男に連れ去られるのを目撃して、その後サスケ君たちと合流した」
「うんうん」
にこにこと頷く幸村の後ろで、サスケと才蔵が視線を宙に泳がせている。
突っ込んでいいのだろうかと不安になりつつも、ゆやは口を開いた。

「あ、あの・・・幸村さんて、いつから迷子になってたんですか・・・?」

「五日前くらいかな」
けろりと言い放つ幸村に、ゆやは感動すら覚えた。
「行方不明の幸村様をやっと見つけ出したと思ったら、今度はアキラ殿の捜索です・・・一体いつになったら帰ることができるのか」
「一度言い出したら聞かねえからな。幸村は」
諦め気味の才蔵とサスケ。ゆやは、どう励ましてよいやらわからず苦笑する。
「え、ええと、それでこれからどうしましょう?アキラさんが連れて行かれたのは、どこら辺なのかわかるんですか?」
「ばっちりだよ!ねえ才蔵?」
「はっ。ここより北西に向かい森を抜け山を越えたところに、樹海があります。アキラ殿はそこへ連れ去られたようです」
才蔵の報告に感心するゆや。相変わらずの手際のよさである。どうやって調べているのかはいつも考えないことにしていた。
「じゃあこれからそこへ行くんですね。えっと・・・森を抜けたり山を越えたりするってことは、相当遠いんですか?」
「そうなんだよね。三日はかかると思うんだけど、大丈夫?」
屋敷を留守にすることは、覚悟していたつもりだった。しかし実際にその期間が判明すると、改めてゆやの胸が申し訳なさに軋む。自分の仕事を放り出して、お世話になった人たちに迷惑をかけて、本当にこれでよかったのだろうか。悩んで答えを出したはずだったのに、まだ迷う自分が嫌になる。だが。それでも。

「・・・大丈夫です。辰伶さんが無事なのか確認しないと、ずっと気になったままだし、それにアキラさんは、私のせいで連れ去られたんです。絶対に、助けないといけませんから」

ゆやの瞳を見つめ、幸村は薄く笑みを浮かべる。
「そっか。絶対に二人を見つけ出そうね、ゆやさん」
「はい!」
盛り上がる二人。『えいえいおー』と拳を上げ、やる気満々である。
「・・・・・」
「どうしたサスケ。不機嫌そうだな」
「な、何でもねーよ!」
ぷい、とそっぽを向くサスケを見て、才蔵は首を傾げた。

朝。狂はやはりもぬけのからとなっているゆやのベッドを前に、盛大な舌打ちをした。
夜の森に怯えて大人しく引き返すような性格ではないとわかっていたはずなのに、それでも少し期待をしてしまった己に腹が立つ。
背後にほたるの気配を感じていたが、狂は振り返ることなくもう一度舌打ちをした。

「・・・ねえ、椎名ゆやは?」

ほたるがいつも通り唐突に話題を振る。
昨日の夜はお休みの挨拶をした。いつもなら、この時間は台所で朝食の支度をしているのだが、先ほどほたるが顔を見に行ったところ、そこに彼女の姿はなかった。
てっきりまだ寝ているのだろうと思い、この部屋に来てみたのだが・・・またしてもゆやは居らず。代わりにいたのは、ものすごく不機嫌な様子の狂だけで。

「知らねえな」

確実に眉間の皺を増やしながら、狂が吐き捨てる。ほたるはいつもの無表情で狂を見やった後、ふぅんと呟いて背を向けた。
「探してくる。またゆんゆんとかに攫われてるかも知れないし」
「・・・・・」
「どこかで迷子になってるかもしれないし」
「・・・・・・・」
「無茶して危ない目に会ってるかもしれないし」
「・・・・・・・・・・」
「それに今頃、俺のこと探して泣いてるだろうから」
「んな訳ねえだろ」
何の根拠があるのか、自信満々に言い放つほたるに思わず突っ込む狂。
「じゃあ行ってきます。狂はどうするの?別にここで大人しく留守番しててもいいけど。外が怖いなら、無理して出る必要ないし」
「喧嘩売ってんのかてめぇ・・・」
胸倉を掴まれても、ほたるの表情は変わらない。
「探しに行くのが嫌なら、行かなくてもいいよ。探したいと思ってるんなら、行けばいい」
それだけ、と付け足して、ほたるは部屋を後にした。残された狂は、忌々しげに舌打ちをする。
「誰が嫌だとほざいた・・・!!」

「あと二日で着くんですよね・・・」
「正確には二日と半日です、ゆや殿」
「二日と半日・・・」
疲れが滲み出ている声で、ゆやが呟く。
あれから夜通し森を歩いて、今ゆやたちは街道にいた。屋敷で掃除やら洗濯やらと言った体力仕事をしているゆやだったが、ただでさえ歩き辛い森を一睡もせずに歩き続けたのだ、その身体はもう限界が近い。ちなみに、幸村たちは平然と歩みを進めている。
「ゆや姉ちゃん、大丈夫か?」
「へへ・・・大丈夫よ」
へらりと力なく笑うゆやに、サスケの心配はますます深まって。
「あんまり無理すんなよ」
「うん。ありがとう、サスケ君」
ゆやの笑顔が、先ほどより明るくなって。サスケは少しだけ安心した。

「あ、ほらほら!街が見えてきたよ~!」

数歩先を進んでいた幸村が振り返って言う。
彼の指が指し示すそこには、遠くから見ても賑やかだとわかるほど大きな街。
「夕方くらいまで、あそこで休もうか」
「・・・・や、やったぁ・・・」
「ゆ、ゆや殿!?」
「ゆや姉ちゃん!?」
へたり込んでしまったゆやに、才蔵とサスケが慌てて駆け寄った。

宿に着いた途端、ゆやは倒れるように寝てしまった。今まで必死に幸村たちのペースについて来ていたのだから、それも仕方ない。途中で弱音上げなかった彼女の意志の強さは流石と言える。
すやすやと寝息を立てているゆやの隣りに、サスケは腰を下ろしていた。
ゆやは辰伶とアキラのことが心配で、いてもたってもいられなかったのだと言う。お人好しだ、とサスケは思った。少なくとも自分は、その二人が行方不明でも探そうとは思わない。幸村なら、話は別だが。そして、ゆやがいなくなった時も自分は冷静でいられなくなった。一刻も早く見つけ出さないと、精神がおかしくなってしまうのではないかと言うほど。
今のゆやは、そんな自分と同じらしい。だからこそ、一人で屋敷を抜け出し、幸村の『仲間になるか』と言う問いにもためらうことなく頷いた。

深い眠りについているゆやの髪に触れる。絶対に起きないと確信していた。

さらり、さらりと指から零れ落ちる金糸を眺める。柔らかい感触。一度触れ、二度触れ、少しためらってから、もう一度触れる。
本当は、頬に触れたかった。無性に、その温もりを感じたくて。でも、それはできなくて。
何故できないのか、するりと答えが見つけられなかったので考えてみた。
恐らく、頬に触れたらゆやが目を覚ます。起きない可能性もないことはなかったが、そんな低い可能性にかける勇気は持ち合わせていなかった。そして、寝ぼけた目を擦りながら『どうしたのサスケ君・・・?』と尋ねられるだろう。そうしたら、自分は?己はゆやに向かってどう答えるのだろう。
赤くなって思い切り慌てながら、『つ、つい・・・』と呟く自分の姿が鮮やかに想像できた。
「・・・・・・」
長い重い溜め息を吐いて、肩を落とす。とことん情けない。何が『つい』なのだろうか。そう聞かれたら、自分はどうするのだろうか。考えて、考えて考えて、しかしどうしてもいい言葉が思いつかなくて。

・・・どうしても、触れたかったんだ

「っ・・・・・・・だっせぇ」
目の前を片手で押さえ、力なく呟いた。こんな恥ずかしいこと、ゆやを前にしては死んでも言えない。
「何が言えないの?」
「あ?だから・・・・・・」
途中で言葉を切ったサスケの胸中を占めたのは、いつの間に口に出ていたのだろうという驚きと、『この先を口にしてしまわなくてよかった』と言う深い安堵であった。
ゆやが起きていたことについての驚きや、いつから聞かれていたのだろうなどと言う心配は二の次で。
「だから?」
目の前でサスケの言葉を繰り返し、ぱちりとゆやが目を瞬かせる。そんな彼女に目を奪われつつ、どう答えたらいいのだろうかと必死で悩む。
結局口から出た言葉は。

「つ、つい・・・」

まるで繋がっていないサスケの返答に、ゆやはますます首を傾げるのだった。

「・・・で?」

ほたるに向かってかけられたのは、その一声だけであった。珍しく丁寧に事情を説明したと彼自身が思ったというのに、この返事は不謹慎だ。むっとした顔つきで、ほたるは目の前の男にもう一度同じ事を繰り返す。

「椎名ゆやがいなくなったから返してよ、ゆんゆん」

遊庵は隠された目元を押さえて盛大に溜め息を吐いた。突然家に押しかけて来たと思いきや、第一声がそれである。言葉の意味はともかく、最後の部分がさっぱり理解できなかった。
恐らくほたるはゆやが行方不明になって焦っているのだろうと判断し、もう一度落ち着いて言ってみろと促してみたつもりだったのだが。彼の口から出たのは先ほどと全く同じ、遊庵にはついていけないもので。
「熒惑」
「ほたるだよ」
「・・・とりあえず、ゆやがいなくなったってのはわかった」
「だからそう言ってるし」
「いーから聞け。それでだ、何で俺がお前に『ゆやを返せ』と言われにゃならねーんだ?」
「だってゆんゆん、前科持ちだし」
遊庵がゆやを攫ったのはついこの間のことである。しかし遊庵は、心外だとばかりにうなだれて溜め息を吐いた。
「あのなぁ、俺がこそこそとゆやを攫ったりすると思うか?」
「うん」
「しねぇよ!大体、この間だって盛大に宣言してっただろ!」
「そうだね。ゆんゆんが暴れて色々壊したから、帰って来た時すごく怒ってたよ」
遊庵の怒りがぴたりと収まる。
「・・・怒ってたって、ゆやが?」
「うん」
「・・・マジかよ」
「うん、マジ」
「・・・やるんじゃなかった・・・!!」
頭を抱えて苦悩する遊庵。ゆやにまだ屋敷破壊の犯人を教えていないことを、もちろんほたるは口にしない。

「・・・」
「狂さん」
「・・・」
「狂さんっ」
「・・・」
「あ、ゆやさん!」
「っ・・・!?」
「・・・みたいな金髪に一度なってみたいですわ」
「・・・・・・」
じゃきりと狂の天狼が鳴らされる。視線が合わされずとも感じるものすごい殺気に、阿国は身震いを抑えられなかった。
「・・・もう・・・そんなに心配しなくても、幸村さんたちが一緒なら大丈夫ですわよ」
「・・・・どうだかな」
随分と投げやりな返答に、阿国は頬を膨らませる。
阿国から、ゆやの居場所を聞き出してから、狂はずっとこんな様子だった。何を話しかけても上の空、というより聞く気が全くない。唯一、ゆやに関することは耳に入るようだったが。
「もう、嫉妬してしまいますわ」
「・・・」
「聞いてませんわね・・・」
阿国の呟きも、耳に入っていない様子で、狂はゆやたちのいる壬生へと向かう。

ゆやは、その光景を茫然として眺めていた。
それはゆやの視界をほぼ覆うほど、木々が茂っており、先がほとんどわからない。
「ゆ・・・幸村さん」
「なんだい、ゆやさん」
「・・・え、ええと、この前幸村さんが言ってた壬生って、ここですか?」
「うーん、微妙に違うかな」
「え・・・じゃあ、ここって・・・」
宿を出発し、歩く事半日、幸村が「やっとここまで来たねぇ」と言ったので、ゆやはてっきり目的地に着いたのだとばかり思っていたのだが。
「この樹海の奥に、壬生があるんだ」
首を傾げるゆやに、サスケが言う。
「は、はは・・・そうなんだ。まだ着いてなかったんだぁ・・・」
ゆやは、もう一度広大な森を見回して溜め息を吐いた。

遊庵に仕事の命令が下った時、ほたるはまだ彼からゆやの手がかりを何も得られずにいた。
「つうわけで熒惑、召集がかかっちまったから俺は行くぜ。ゆやは俺も探すから、お前はとりあえず庵曽新んとこ行け」
突然上げられた名前に、ほたるは僅かに目を開く。
「何で?」
すると今度は遊庵が怪訝そうに顔をしかめた。

「はぁ?あのなぁ、俺よりあいつの方が『下』のことに詳しいからに決まってんだろ」

「・・・『下』にいるの?」
ほたるの声に、少し力がこもる。
「さあな。少なくともここよりは可能性が高いと思うぜ」
遊庵はちろりと舌を覗かせると、あまり無茶をするなと言い残してほたるの前から姿を消した。

「・・・『下』に・・・」
ほたるが、窓の下に広がる景色を眺め呟く。
ゆやは何としてでも見つけたい。だが、『下』には、そこにだけはいてほしくなかった。壬生を囲む樹海は、ゆや一人で生き残れる場所ではない。
ゆやの心配をしながら、ほたるは庵曽新のいる場所へ辿り着く。

「今度は何しに来たんだよ熒惑・・・」
「えっと・・・何だっけ?」
「ははは、相変わらずだなお前は」
「すごく棒読みだね庵曽新」
「お前に言われたくねぇよ!」
庵曽新は、こめかみを引きつらせて叫んだ。ほたるの無表情が、悩むように少しばかりしかめられる。
「えーと、思い出すから待って」
「・・・兄貴がまたなんかやらかしたのか?」
不安げに問う庵曽新。兄の遊庵が過去にやらかした、様々な騒動が脳裏を過る。
「・・・ううん、違う。ゆんゆんじゃなくて」
否定されて、どれほどほっとしたことか。
「そ、そうか。んで、何なんだよ結局」
「椎名ゆやのこと」
「・・・は?」
「いなくなったんだけど、知らない?」
「・・・やっぱり兄貴がやったんじゃねえのか?」
前科持ちの遊庵を庇う気が、庵曽新には欠片もない。
「俺もそう思ってゆんゆんの所に行ったんだけど、違うみたい」
「みたいってことはまだ疑ってんだな」
「うん」
「・・・」
「それで、ゆんゆんが庵曽新に聞いてみろって」

「はぁ!?な、何で俺があんな女をさらわなきゃならねぇんだよ!!」

「可愛いから?」
妙にうろたえる庵曽新に、ほたるは首を傾げて答える。
「阿呆か!!っそ、そりゃあ確かに見た目は悪くねぇけど・・・」
「庵曽新」
「つうよりむしろいい方・・・」
「最近、『下』に誰か来なかった?」
色々と弁明を図る庵曽新。それを無視してほたるが尋ねた。
「・・・は?」
「ゆんゆんが、『下』に侵入者がいたら庵曽新が気付くから、聞いてみろって。知らない?」
「・・・・・・よ」
「え?聞こえない」
「だったら始めからそう聞けよ!紛らわしい!!」
「勝手に勘違いしたのはそっちだよ」
「そう言う聞き方をしたのはお前だろ!しかもその後に紛らわしいこと言ったろ!」
「そんなことないよ。庵曽新が『何で』って聞いてきたから、『可愛いから』って答えたんだけ」
「思いっきり惑わしてんじゃねえか!」
「で、『下』に椎名ゆやはいるの?いないの?」
ほたるが、早く言えと庵曽新を急かす。
「いでででで!ピアスを引っ張るな!!」
「じゃあ教えてよ」
「わかったよ!ったく・・・答えは『知らねぇ』だ。満足か?」
「・・・・・」
「あだだだだ!だから引っ張るなっての!!」
無言のほたるにぎゅいぎゅいと顔のピアスを引っ張られて、庵曽新は涙目になった。
「ずるい。嘘つき。変態。教えるって言ったのに」
「誰が変態だ!教えるも何も、まだ見回りに行ってねえんだから仕方ねえだろ!!」
「・・・まだ?」
「ああ、これから『下』の見回りに行こうと思ってたんだよ。そしたらお前が来て・・・」
「今日はまだ見回りに行ってないんだね?」
「そうだよ。昨日までは、別に変わったことはなかったぜ。俺の担当範囲内は、の話だけどな」
「・・・・・」
またしても無言になったほたるに、庵曽新はピアスを引かれまいと身構える。だが、ほたるは何もしてこなかった。
「熒惑、お前も付き合うか?」
「え?」
「見回り。もしかしたら探し人が見つかるかもしれないぜ」

「っ・・・く、ぅ・・・」
身体が重い。少し動くだけで、関節という関節が軋んだ。
先ほどやっと浮上した意識は、何度も沈みそうになる。それを持ちこたえているのは、この身体中に走る痛みのためであった。いっそ、このまま気絶してしまえば楽だったろうに。何故意識を取り戻してしまったのだろうかと、軽く後悔すらしてしまう。
頬にあたる冷たい無機質な床は、何で作られているのか見当もつかなかった。
自分は一体、いつからここに転がされていたのだろうか。

「目が覚めましたか」

その声音は、こちらに尋ねているのか、ただ事実を口にしているだけなのか、判断しかねるものであった。
淡々とした静かな口調は、自分が気絶する直前まで対峙していた男のもの。

「な・・・ぜ・・・」

何故自分をここへ連れてきた?
そう聞くことすらできないほど体力の落ちた身体が疎ましい。
漆黒と言う単語が似合うその男は、彼の目の前に歩み寄って、言った。

「ここは壬生です。あなたには、これから壬生の戦士として働いてもらいます」

「・・・はぁ!?」
どこかの誰かがよく口にする単語が耳に入り、アキラは身体の痛みも忘れて上体を起こした。
「もう傷は癒えたようですね」
「そんなことより、何を言っているんですかあなたは!?」
「傷は癒えたかと言いました」
「そんなことはわかっています!」
「なら聞かないで下さい」
からかわれているのだろうかとアキラは訝しんだが、更に強くなった身体の痛みにそれ以上の追及を遮られる。
「・・・とにかく・・・こんなところで働かされるのはごめんです・・・」
ぎしぎしと軋む関節を根性で動かし、アキラは立ち上がった。
「無駄な体力を使わない方がいいですよ。このまま逃げたところで、壬生から出ることはできません」
「・・・壬生?ここが・・・」
「どうしても、壬生の戦士になる気はないのですか」
「だからそう言ってるじゃないですか。と言うか、つまり具体的には何なんですか。その『壬生の戦士』と言うのは・・・?」
訝しげな表情のアキラに、ひしぎと名乗った漆黒の男は告げる。
「言葉の通りです。壬生の戦士は、壬生のために戦い、壬生のために命をかける」
「こんな所のために命をかけるなんてお断わりです」
「・・・今なら好待遇を約束します」
「ここに連れて来る前に、私を半殺しにした人の台詞とは思えませんね」
「私の攻撃にあれだけ耐えた貴方だからこそ、声をかけたのです」
つまりアキラがそれなりに強いとわかったからこそ、壬生の戦士にしたいと思ったと言うことか。
「・・・お褒めに預かり光栄ですが、何を言われようとこんな所に就職するのはごめんです。第一、私はそんなことをしているほど暇ではありません」

アキラがひしぎと出会ったのは、狂の屋敷を囲んでいる森の中だった。背後から突然攻撃を受け、アキラは応戦するも意識を失い、気付いたら壬生にあるひしぎの屋敷に転がされていたのである。

「・・・そう言えば、人を探していると言っていましたね」
ふと思い出したように、ひしぎが告げた。アキラは苛々とした様子で頷く。
「そうです。私は迷子の辰伶を見つけて、さっさと帰りたいんですよ」
「・・・辰伶を?」
ひしぎは、辰伶のことを知っているようだった。
「彼の居場所を知っているんですか!?」
今まで手がかりがなかったその件が、ここで一気に解決するかもしれない。
「いえ、今の居場所は知りません。途中で見失いましたから」
アキラの期待は、あっさりと打ち砕かれた。しかし。
「途中で・・・と言うことは、会ったんですね。彼に」
もしや、辰伶の失踪はこの男が原因かもしれない。
「とは言っても、随分前の話です」
「一ヵ月ほど前、ですか」
「・・・・・・」
その沈黙は肯定か。
一ヵ月前から、辰伶はあの屋敷に顔を出さなくなった。つまり、ひしぎに会ってから。
「・・・何をしていたのかまでは聞きません。私はただ、彼の居場所と生死がわかればいいんです。あなたは他にも何かご存じですね」
ひしぎは、何も言わずアキラの表情を見やった。閉ざされた眼の奥に、何があるのか探ろうとしてから、小さく息を吐く。
「・・・何故、辰伶を探しているのですか?」
読み取れなかった彼の感情を尋ねると、アキラは少々気分を害した声で答えた。

「彼がいなくなると、間接的に私が損害を被るんですよ・・・」

行方不明になった辰伶の心配をするゆやを見たくないが故に、アキラがこんなことをしているのだと、ひしぎに今の言葉のみでわかる訳もなかった。
「・・・辰伶は、壬生の周りにある樹海で見失いました。あそこに身を隠されると、見つけるのは容易い事ではありません」
「そうですか。情報提供ありがとうございます。それでは、私はこれで」
まだ重い身体を引きずるように歩いて、アキラは扉を開ける。
「何も知らぬ者が樹海に入っても、命を落とすだけですよ」
ひしぎの言葉に、アキラはうっすらと笑った。

「樹海ごときにやられるほど、柔な生活はしていませんから」

「・・・・・・」
部屋を出ていくアキラを、ひしぎは無言で見送る。
アキラは壬生の戦士にされかけた件が気になったが、むし返してまたややこしいことになったら困るので、あえて言わずにおいた。
背中に突き刺さるひしぎの視線は、何故か部屋を出た後も残っているような気がした。

ゆやの悲鳴が、樹海に響き渡った。

「ゆや姉ちゃん!?」
「ゆや殿!?」
傍を歩いていたサスケと才蔵が、素早く振り返るとそこには。
「あ、随分大きな蜘蛛だねぇ」
真っ青になっているゆやの隣りで、幸村が珍しいと感心していた。
「・・・何だ蜘蛛か」
「何だ蜘蛛か、じゃないわよサスケ君!あのでかさは異常よ!!」
ゆやに指で示されて、やっとサスケは問題の蜘蛛を見た。
ついでに才蔵は彼の隣りで思い切り硬直している。

その蜘蛛とやらは、サスケを三人ほど縦に重ねた程度の高さについた頭で、彼を見下ろしていた。

「っな・・・!!」
どう贔屓目に見ても化け物である。足一本は、そこらの小さな木に相当するほどの長さで、薙ぎ払われたら骨の一、二本は折られるだろう。
鋭い牙らしきもののついた口は、何故かカションカションと金属音のようなものを発している。立ち上る殺気と言い、襲う気満々に伺えた。
「ど、どうすんだよ幸村!?」
サスケが叫び、ゆやを己の背後に庇って背の刀を抜く。この巨大生物には、とりあえず速さでかく乱してから倒す手立てを考えた方がよさそうだ。

「うーん、じゃ、逃げようか」

サスケの作戦は口にする前に水泡へ帰した。
すたこらと逃げ出す幸村に、慌ててゆやとサスケと才蔵が続く。その後を蜘蛛が追う。
辺りの木々をなぎ倒し地を這うその様は、サスケの想像よりずっと素早かった。今はまだ姿が木に隠れるほど後ろにいるが、このままでは間もなく追いつかれてしまうだろう。

「幸村!ここは俺が止める!!お前らは先に行け!!」
「頼んだよサスケ!」
「えぇえ!?サスケ君だけじゃ危ないですよ!!」
あっさり承知した幸村に、ゆやが慌てる。サスケは、自分の強さを信用されていないようで少しショックを受けた。
「大丈夫ですゆや殿!あんな蜘蛛の一匹や二匹、サスケの相手にはなりませぬ!!」
才蔵のフォローに、ゆやはしぶしぶと言った感じでサスケに言った。
「・・・ちゃんと戻って来てね。サスケ君」
サスケは苦笑して、もちろんと頷いた。

「樹海の出口にて明日の日の出まで待つ!さらばだサスケ!!」

才蔵が吠え、幸村が手を振り、心配そうなゆやの視線を受けてから、サスケは足を止め背後を振り返った。
巨大蜘蛛の木々を倒す音は、もう目の前に迫っている。

壬生の地をぐるりと取り囲む樹海は、広い。
ほたるが仕えている屋敷も森に囲まれているが、その十数倍はある。その一角を、庵曽新は担当していた。仕事内容は主に見回りと、侵入者の排除である。
「こんなに広いと、侵入されてもわかんなくない?」
ほたるが、歩きながら言った。侵入者がいないか、気配を探ろうにも、獰猛な獣などが多くてわからないのだ。しかし庵曽新は平然としていて。
「大抵の侵入者は、そこらの獣に襲われて死ぬからな。逆にやられた獣を見つけたら、気にすればいい」
「じゃあ庵曽新は毎日ここで獣の死体探しをしてるんだ」
「・・・まあな」
少し不満そうな顔をしつつも、庵曽新は頷く。

「じゃあ虫の死体は気にしないの?」

「あのな、虫は死体じゃなくて死骸・・・は?」
庵曽新がほたるの指差す方へ視線を向けると、そこには巨大な蜘蛛が焦げて真っ二つになっていた。
これは明らかに誰かが侵入している。ほたるの探し人なのだろうかと、庵曽新は思ってから不安になった。

「・・・気にするに決まってんだろ。つうかよ、熒惑が探してる女は、火でも吐くのか?」

尋ねつつも、これをゆやがやったとは到底信じられなかったが。しかし庵曽新の周りには、大人しそうな顔をして、物騒なことをやらかす人間が結構いるので、念のための確認だった。

「椎名ゆや」

「は?」
「椎名ゆやだよ。まだ名前覚えてないの?」
「突っ込むとこ違うだろ」
「ゆやだよ。似てるけど遊庵じゃないよ」
「聞けよ人の話!」
ほたるは、憤慨している庵曽新をまたしても無視すると、焦げた蜘蛛の足をしげしげと見た。
「・・・火で焦げたんじゃないよ、これ」
「そんなに黒いのにか?じゃあ何で焼かれたんだ?」
指で突くと、蜘蛛の足はぼろぼろと崩れた。

「わかんないけど・・・炎とは、違う」

きっぱりと、ほたるは言い切った。
「熒惑・・・」
庵曽新は深刻な顔でほたるを見やり、先ほどから気になっていることを尋ねた。
「・・・で、さっきの話なんだが、椎名ゆやは炎を吐くのか?」

「・・・そんな訳がなかろう。その男に何を吹き込んでいるのだ、熒惑」

「っ!?」
突然背後からかけられた第三者の声に、庵曽新は慌てて振り返る。ここまで近付かれても気配に気付かなかったとは。
「あ、辰伶・・・そんな傷だらけになって、何してるの?」
対してほたるの声には、大した驚きもない。ほたるの言葉通り、木にもたれかかっている辰伶の身体は、至るところに傷がある。
「貴様こそ何をしている。死にたくなければ、今すぐあの屋敷へ帰れ」
辰伶の言葉に、ほたるは今度こそ軽く目を見開いた。普段から彼に、壬生へ戻れとばかり言ってくる辰伶にしては、珍しい言葉である。
「んー、でもまだ見つけてないし」
「・・・重要な単語を省略するな」
「椎名ゆや」
「単語だけで話すな!・・・・・・は?」
突っ込んでから、辰伶はその重大さに気付いた。

「いなくなった椎名ゆやをまだ見つけてないから、帰らない」

これで文句はなかろう、とほたるはふんぞり返る。生憎、辰伶にはそれどころでなかったが。
「っ・・・何だと!?し、椎名ゆやが、失踪・・・!?」
そのゆやは、辰伶を探すために旅立ったのだか、生憎この場にいる面々はその事を知らない。
「探しにも行かず、何を遊んでいるのだ!?」
「だから今探してるし」
思い切りうろたえている辰伶に、ほたるの言葉は届かない。
「では手分けして椎名ゆやを探すぞ!」
『おー』
「声が小さい!」
「つうか、満身創痍のお前が何でそんなに元気なのかわかんねえよ」
「辰伶はいつも暑苦しいから。殺しても治んないと思うよ」
何やら燃え上がる辰伶と違って、テンションが低いほたると庵曽新だったが、二人ともゆやを探すことに異議はなかった。
簡単に捜索範囲を分担し、集合時間と場所を決める。
「やばい相手に会ったら、すぐ逃げろよ」
「やばい相手って?」
庵曽新の台詞に、ほたるが首を傾げる。その問いに答えたのは、辰伶だった。
「・・・太四老がいるかもしれん。気を付けて行け」
「は?太四老がこんなとこにいるわけねえだろ」
庵曽新が訝しげな顔をする。
「かもしれん、と言っただろう。用心するにこしたことはない」
ほたるは、その台詞に疑問を抱いた。
太四老を、そしてその長である人物を何よりも尊敬しているはずの彼が何故。

「何で、太四老を警戒する必要があるの?辰伶は別に見つかっても困らないじゃん」

辰伶の表情が、はっきり変わった。隠し事は苦手のようだ。
「もしかしてその怪我、太四老の誰かにやられたの?」
「違う!と、とにかく太四老に見つかって困るのは貴様も同じだろう熒惑!」

『・・・も?』

同時に指摘され、辰伶はほたるに指を突き付けたまま固まった。
「墓穴だね」
「墓穴だな」
「う、うるさい!」
「で、太四老に狙われるなんて、何やらかしたんだ?」
当然の疑問を尋ねる庵曽新。俯いた辰伶の代わりに、ほたるが口を開く。
「たぶん敵に何度も夕飯をご馳走になったりして、裏切り者だと思われたんじゃない?」
「はぁ?そんなことする馬鹿がどこに・・・」

「そ、その敵の屋敷に住み込みで働いている貴様に言われたくないわ!!」

思い切り反応している辰伶を庵曽新は唖然として見やる。
「また墓穴掘ってる」
ほたるに言われ、またしても辰伶はほたるを指差したまま硬直した。

「あー・・・、つまりお前等は太四老に見つからねえように行けってことだな。あ、そうだ辰伶、兄貴に会ったら俺の名前を出して攻撃をやめてくれるように説得してみな。無理だと思ったらすぐ逃げろ。じゃあな」
そう言って、庵曽新は森の奥へと進んでいった。
「兄・・・?」
「ゆんゆんのことだよ。じゃあね」
「ゆ、ゆんゆん・・・?」
混乱している辰伶を残して、ほたるもゆやを探すため歩き出す。
「・・・あいつの兄はおかしな名だな」
呟き、やっと辰伶は「ゆんゆん」なる人物の顔を知らない事に気付いた。
庵曽新の兄が太四老の遊庵だとは、夢にも思っていない。

「じゃ、状況がどうなっているのか聞かせてくれるかな?」
幸村は、いつも通りのにこにこ顔で尋ねる。そして、その隣にいるゆやも、揃ってにこにことしている。
笑顔の二人に見守られ、サスケはかなり重そうに口を開いた。
「蜘蛛は斃したぜ。ここに来るまでは、特に何もなかった。・・・以上」
「そうかそうかぁ。偉いねサスケ。よく頑張った!」
ぐりぐりと幸村がサスケの頭を撫でる。
「や、やめろよ!あんなの大したことねえし・・・」
「そんなことないわ!サスケ君は本当にすごいもの!」
両手を拳にして力説するゆや。
「え、いや、その・・・」
他にも数々の称賛がサスケを襲い、彼は蜘蛛を倒す時より疲労したのだった。
「羨ましいぞ、サスケ・・・」
陰で才蔵がぽつりと呟いた。

「じゃあサスケも戻ってきたことだし、今日はここで野宿しようか」
幸村の提案に、皆は揃って頷いた。
「私、焚き火用の枝を拾って来ますね」
ゆやが駆け出そうとすると、その裾を掴まれた。
「・・・危ないから、俺も行く」
行ってもいいか、と幸村へ視線を向けるサスケ。もちろんと幸村は笑顔で頷く。
「ありがとうサスケ君」
「・・・」
ゆやの礼に、サスケは少し顔を赤らめて俯いた。

「いってらっしゃい。気を付けてね」
「サスケ、きちんとゆや殿をお守りするんだぞ」
幸村と才蔵に見送られ、二人は森の奥へ戻っていった。

手頃な枝を見つけて、次々とゆやの荷物は増えていく。
「俺も持つよ」
サスケは何度か口にしたことを再度申し出るが、やはりゆやに断られてしまった。
「サスケ君は、護衛っていう大事な役目があるんだから。いざって時に手が薪で塞がっていたら困るでしょう?」
にっこりと笑顔でそう言われては、無理に薪を奪う訳にもいかない。
「・・・辛くなったら、言えよ」
「うん。ありがとう」
「・・・・・・」
ゆやはよくサスケにありがとうと言って笑みを浮かべる。それはそれは嬉しそうに。何度見ても、サスケの顔は赤くなるのを止められない。いつか余裕で笑みを返せる日がくるのだろうか。

「よし、これくらいあれば大丈夫ね。そろそろ戻ろうか」
「・・・・・・」
「サスケ君・・・?」
突然、厳しい目付きで辺りを見回し始めたサスケを見て、ゆやも緊張する。
サスケは、舌打ちして背の刀を抜いた。
「ゆや姉ちゃん」
「な、なあに?」
ゆやに聞き取れるか否かという声でサスケが呟く。
「帰り道は覚えてるか?」
「う、うん」

「俺が合図したら、薪を捨てて逃げろ」

「っ・・・!?」
「先に行けって、幸村に伝えてくれ」
「さ、サスケ君は?」
不安そうなゆやに、サスケは自信に満ちた笑みを返す。
「後から行く」
ゆやは、悔しそうに唇を噛んだ。サスケを独り置いていくのはとても嫌だったが、無理やり残っても足手纏いになってしまう。
「・・・絶対よ。絶対に、後から来て」
「ああ・・・今だ、走れ!」
サスケの声に弾かれるように、ゆやは薪を放り出して走り出した。一度だけ、背後で金属音を聞いたが、それ以外は何もわからない。

「サスケ、ちゃんといい子にしてるかなぁ」
「・・・まあ、あいつのことですから心配はいらないでしょう」
そわそわしている幸村に才蔵が答える。
「うーん、ボクとしては悪いことの一つくらいしてくれた方がいいんだけど・・・」
「は・・・?っな、何を言ってるんですか!!」
にんまりと笑みを深める幸村を引き戻すかのように、才蔵が叫んだ。
「そろそろ大人になってもいい時期だよ、サスケは」
「まま、まだ早過ぎます!」
「何だか子持ちの夫婦みたいな会話だね~。あはは」
気楽そうな幸村の声に、才蔵は更に疲れが増すのを感じた。

刹那、二人の顔に緊張が走る。

「才蔵、サスケたちを迎えに行ってくれるかな」
「・・・はっ」
才蔵は始め、ためらいを見せたが、それも一瞬のことですぐに姿を消した。

「さてと、それで君は誰なのかな?」
幸村が声をかけた場所から、一人の男が姿を現す。
「何だ、外れかよ・・・」
顔の色々な部分にピアスをはめた彼は、長い針を片手に溜め息を吐いた。

「この森に侵入した奴は、とりあえず始末することになってる。あんたには悪いが、死んでもらうぜ」

庵曽新は、針を持った手を上げ、言った。対する幸村は、刀を抜かず目を見開く。
「うわぁ、それに刺されたら痛そうだねえ!」
「・・・痛みは感じねえようにしてやるよ。抵抗しなければ、の話だけどな」
「う~ん、それは無理な相談だね」
困ったように幸村が笑った。
「ここでおとなしく斃される訳にはいかないんだ」
「なら抵抗しな。悔いの残らないように」
「死んだらどっちにしろ悔いが残ると思うんだけどなぁ」
へらりと笑いながら幸村が言う。

刹那、庵曽新の針が、幸村の眉間に向かって放たれた。

目に止まらぬ速さのそれを、幸村は寸でのところでかわす。死角に来ていた次の針も全て避け、庵曽新の繰り出した蹴りも後ろに飛んでやり過ごした。
「思ったよりやるな・・・」
「君もね。まさかこんな森の中に、君みたいな強い人が住み着いてるとは思わなかったよ~」
その台詞に、庵曽新は違和感を感じた。暫し腕を組んで考え込み。

「住み着いてねぇよ!!」

「あれ、そうなの?」
「当たり前だ!!」
「なぁんだ。じゃあこんなところで何してるんだい?」
聞かれてほいほいと答えるほど、庵曽新は不用心ではない。
「・・・そう言うてめぇは何してんだよ」
「ボクは人探しだよ」
あっさり答えられ、ちょっと虚しさを感じる庵曽新だった。項垂れてしまいそうになるところを、何とか耐える。それよりも重要なことがあるからだ。
「その探してる奴ってのは、金髪の女か・・・?」
もしやこの男も、ゆやを探しているのではないかと思ったのだが。
「ううん。ボクが探してるのは、二人とも男だよ」
「・・・二人も探してんのか。大変だな」
こちらは一人でもこんなに苦労していると言うのに。
「ま、探してればそのうち見つかるよ」
「・・・そんなもんか?」
「うんうん。ところで、茶色い髪で盲目で刀を二本持ってる人、見たことない?」
「知らねえな・・・」
「じゃあ、変な形の刀を持った・・・」
幸村の言葉が途切れ、庵曽新は不審な表情を浮かべた。
「どうした?」
「うーん、何て説明すればいいのか・・・」
他に探し人の特徴が思い浮かばないらしい。刀しか特徴がないとは、余程影が薄い人物なのだろうと庵曽新は思った。
「暑苦しい・・・いやいや、それは見た目じゃないし・・・」
考え込む幸村。庵曽新も、だめ元で自分の探し人を彼に尋ねてみることにした。
「あんたは俺の探してる奴を知らないか?金髪の女なんだが・・・」

「金髪の女の子?知ってるよ」

さらりと言われ、庵曽新は唖然とする。
ゆやを探していて、幸村を見つけた時は外れだと思っていたのだが、あながちそうではなかったらしい。

「で、どの子を紹介してほしいの?」

「・・・は?」
「金髪の女の子でしょ?知り合いに結構いるよ。あ、金髪に染めてる子も候補に入れる?」
「誰も女を紹介しろなんて言ってねぇよ!」
聞くだけ無駄だったらしい。期待してしまった分、落胆も大きかった。幸村も何か別のことを期待していたらしく、少しがっかりした様子を見せた。
「なんだ、金髪の子が好みなのかと思ったのに」
「っべ、別にあんな女、好みじゃねえ!」
「・・・ならいいけど」
幸村の気配が、一瞬だけ固いものに変化する。
「何か言ったか?」
「ううん、何も言ってないよ」
「とりあえず、てめえに聞いても無駄だってことがわかった」
今まで下ろされていた庵曽新の持つ針が、再び上げられる。
「そう言えばキミって、侵入者を排除しに来たんだっけ?」
「ああ。お前がその侵入者だ」
庵曽新から殺気をぶつけられても、幸村はその笑みを絶やさない。
「刀を抜きな。それくらいは待ってやる」
抜いた直後に、幸村は地面に倒れているだろう。少なくとも、庵曽新はそうするだけの自信があった。
暫し、沈黙が流れる。幸村は刀を抜かない。
「・・・その刀は飾りか?」
「違うよ。何度も死線を潜り抜けてきた、ボクの相棒さ」
「なら、何故抜かない」
幸村は楽しそうに笑う。
「キミと死合いをするのも面白そうだけど、今はそれどころじゃないからね」
「それどころじゃない・・・?」
「探さなくちゃいけない人もいるし、ここで待たなきゃいけない人もいるから」
「さっき逃がしたバンダナの男か」
「うん、才蔵も」
「・・・も?」
「あと二人、戻ってくるのを待ってるんだ。それまでキミも待っててくれないかな?」
幸村と庵曽新の間に、一陣の風が吹き抜ける。
「・・・・・・そいつは無理な相談だ」
言って、庵曽新は地を蹴った。

ゆやは走っていた。走って走って、走り続けてやっと気付く。
「ま、迷った・・・!!」
先ほど、右に曲がったのが行けなかったのだろうか。
「・・・も、戻らなきゃ」
振り替えって、硬直。ゆやの前には、右も左も同じ景色が広がっていた。
「え、えぇと、戻りたいけど、こういう時は下手に動かない方がいいの、よ・・・ね」

言いながらふと横を見たゆやの視界に、巨大蜘蛛がはっきりと映し出された。

『・・・・・・』
暫し見つめあう、ゆやと蜘蛛。

刹那、つんざくような悲鳴と、木々を薙ぎ倒す音が上がった。

「なななんでこんなところにいるのよ!?サスケ君が倒したはずじゃ・・・」
蜘蛛から必死に逃げるゆやは、再び足を止める。

彼女の目の前には、新たな蜘蛛が鎮座していた。

「・・・・・」
この辺りは蜘蛛の巣窟になっているらしいことを、ゆやはたった今思い知るのだった。
こうしてゆや対二匹の巨大蜘蛛による鬼ごっこが幕を開ける。
ゆやは丸腰ではなかった。屋敷から出てくる時に用意していた荷物の中に、短筒が入っている。しかし、この獲物で巨大な蜘蛛を二匹も片付けられるとは到底思えなかった。
どうすればいいか、走りながら必死に考える。
自分はこんなところで蜘蛛に喰われるために、屋敷を出てきたのではない。
「・・・っ」
木の枝や草の葉が、ゆやの肌を傷つけていく。痛みはないとは言わないが、それよりも焦りと恐怖が強かった。
いつまでも走り続けてはいられない。力尽き、やがて追い付かれてしまうだろう。現に今、蜘蛛の足はすぐそこに迫っている。木々のお陰で、蜘蛛の速度が落ちているだけだ。
ゆやは、前方が明るくなってきていることに気付いた。
もう少しで、森の出口かもしれない。外に出たら、ゆやと蜘蛛の障害物はなくなる。そうしたら、すぐに捕まってしまうだろう。
引き返すべきか、僅かに迷い、ゆやはそのまま走った。
視界が開ける。久しぶりに見た空は、目が眩むほど紅く綺麗な夕焼けで。

しかし生憎、崖から飛び出してしまったゆやには、そんな空を鑑賞する余裕などなかった。

森の出口だと思ったそこは、切り立った崖の上だったようだ。今頃気付いても、もう遅い。
「っきゃあぁああぁ!!」
ゆやを追ってきた蜘蛛たちは、同様に勢いづいて崖から飛び出し、真っ逆さまに落ちていった。
暫し、その場に沈黙が流れる。
「・・・た、助かった・・・?」
崖の淵にしがみ付いて、いまだ放心気味のゆやがぽつりと呟いた。

ゆやを逃がした直後に、その重い一撃は来た。それを何とか受け止めて、サスケはその場を飛び退く。
強い。攻撃を受けるのが精一杯で、相手を見る暇もなかった。
十分に距離を取って、やっと相手の顔を見るため視線を向ける。
「・・・は?」
そこには、どこかで見たような刀を持った熊がいた。

「・・・あ、サスケだ」

しかも喋った。そして自分のことを知っているらしい。
大いにうろたえるサスケの前に、熊が倒れた。
「な・・・っ?」
「そんなに熊が好きなの?」
何が起きたのかサスケの理解が追い付かないでいると、横からほたるが不思議そうな顔で覗き込んできた。

「お、お前っ、何してんだよ!?」

「え?お腹が空いたから、ご飯にしようと思って熊を・・・」
その発想はサスケのよく知っている人物を彷彿とさせた。
先ほどサスケに攻撃してきたのは、熊を背負ったほたるだったらしい。どうりで重い攻撃な訳である。何故斬りかかってきたのかは知らないが。
「そうじゃなくて、何でお前がここにいるんだよ!?」
無駄に警戒してしまったサスケは、己の未熟さに苛々しながら尋ねる。
「何でって、椎名ゆやを探しに来たから」
「・・・・・・は?」
そう言えばゆやを逃がす必要も全くなかったなあ、とサスケは頭の隅で思った。

「サスケ、料理できたんだね」
「・・・いや、知り合いに得意な奴がいて、たまたま・・・」
ぐつぐつと熊鍋が煮えている前で、サスケは頬を掻く。
「あとは待つだけ?」
「ああ。具が煮えたら完成だ」
「そっか。んで、サスケはここで何してんの?」
「・・・そう言うのって、普通は飯より先に聞かないか?」
「だってお腹空いたし」
「・・・ま、いいけどさ」
サスケは今の状況を簡単に説明した。幸村と才蔵が森の入り口付近にいること、その二人の元へゆやが向かっていることなど。ゆやがいると聞いた途端、ほたるの気配が柔らかくなったような気がしたのはサスケの気のせいだろうか。
「そんなに距離もないから、もう幸村たちと合流してるだろうな」
「そっか・・・。あのさ」
「何だよ」
「皆近くにいるなら、俺たちも合流してから熊鍋作ればよかったね」
「・・・・・・言うな」
サスケもすでに気付いていた。しかしその時にはもう熊鍋に火をかけた後だったのだ。
「じゃあ早く食べてみんなのとこに行こう」
「あ、もう少し煮込まねえと・・・」

「何を煮込んまなきゃならんのだぁ!!」

ごいん、と音がして、サスケは頭部への強烈な痛みを感じた。
「あ・・・サスケの保護者その二」
ほたるが指を差した先には、怒りに震える才蔵がいた。
「全く、帰ってこないと思ったらこんなところで熊鍋なんぞ作って!!お前は鎌之助か!?その影響なのか!?」
「わ、悪かったよ。ちょっと落ち着け・・・」
サスケは才蔵を宥めるべく下手に出てみたが、無駄だった。
「これが落ち着いていられるか!幸村様のとこには変な男が来るし、お前とゆや殿を迎えに来てみれば、熊鍋囲んでるし・・・」

その台詞に、サスケとほたるの顔色が変わる。

「ゆや姉ちゃんとまだ会ってないのか!?」
「は?ゆや殿はお前と薪取りだろうが」
そう言えばゆやの姿が見えないと、才蔵は首を傾げた。
サスケは、怪しい気配(正体はほたる)が近付いていたので、ゆやを幸村の元に向かわせたことを告げる。
入れ違いであってくれと、願わずにはいられない。
しかし才蔵は首を横に振る。
「お前たちの足跡を辿って来たが、ゆやどのには会っていない」
「・・・つまり」
言い辛そうなサスケに代わり、ほたるが口を開いた。
「この森で迷ってるんだね」
かくして熊鍋を放り出し、三人はゆやの捜索を開始したのだった。

きゅうぅ、とゆやの腹が可愛らしく鳴いた。
普段なら恥ずかしがるところだが、樹海の中で独り歩いているこの状況ではその必要もない。
「お腹空いたぁ・・・」
きゅるきゅると鳴り止まない腹を押さえて、ゆやは歩き続ける。
「どこかに果物とかないかしら・・・」
その希望が食べられる茸でもに変わり、食べられる草でもいいになるまで大して時間はかからなかった。
ゆやの知識と照らし合わせた結果、この辺りに食べられるものはない。
「うぅ・・・だめよ、ゆや。諦めちゃ・・・っ!?」
ひくりとゆやの鼻が反応する。匂いのする方へ視線を向けると、一筋の煙が見えた。

「っ・・・!!」
煙の元へ辿り着いたゆやは我が目を疑った。空腹のあまり、幻覚を見ているのではないかと。
しかしこの美味しそうな匂いは夢ではない。目の前の熊鍋を前に、ゆやはごくりと喉を鳴らした。

「む・・・?」
辺りを見回し、辰伶は眉を潜めた。何故こんなところで、食欲を誘うような匂いがするのだろう。
「もしや、近くに幻術使いが・・・!?」
歩みを止め、更に気配を研ぎ澄ませる。
「・・・向こうか!」
匂いの漂ってくる方へ、辰伶は駆け出した。幻術使いが美味しそうな匂いを漂わせて自分を油断させようとする必要が本当にあるのかは、考えもしない。

「い、いいですかー?食べちゃいますよー?」
消えるようなゆやの声に、返事はない。
「よし!じゃあいただきまーす!」
ゆやがほどよく煮込まれた熊鍋に手を伸ばしたその時。

「あら、ゆやさん。少し見ない間にますます意地汚くなりましたわね」

背後からの声に、ゆやは肩を大きく震わせる。
「こっ、これは仕方なく・・・って、お、阿国さん!?」
ゆやの叫んだ通り、そこにはにっこりと微笑んで手を振る阿国がいた。
それだけでもゆやにとっては衝撃的なことだったのだが、彼女の少し後ろにいた人物を目にして、ゆやは更に目を見開く。

「っ・・・狂・・・」

「・・・随分と長い散歩だな、チンクシャ」
その声を聞いたのは、とても久しぶりのような気がした。
「な、何で二人がこんなところに・・・?」
「それはもちろん、私たちが結婚したからに決まってますわ」
「そっ、そんなことある訳ないです!」
狂に寄り添って言う阿国に、ゆやがすかさず突っ込む。
「それで、ゆやさんはどうしてこんなところで摘み食いをしているのかしら?」
「うっ・・・お、お腹が空いたんだから仕方ないじゃないですか」
「ではどうして遭難してお腹が空くような森にいるのかしら」
「ううっ・・・さ、散歩をしていたら、いつの間にかこんなところに・・・」
「あなたのいたお屋敷から、歩いて三日もかかるこの森に辿り着くのは大変でしたでしょうねぇ」
「うううっ・・・」
冷や汗の量を増やしてうろたえるゆやの反応は、阿国を十分楽しませた。
次は何を言ってやろうかと彼女が思案していると、それまで黙っていた狂が口を開く。
「チンクシャ」
「な、きゃあっ」
突然、狂に首ねっこを掴み上げられ驚くゆや。
「帰るぞ」
「か、帰る!?だめよ、まだ・・・っ!」
「・・・『まだ』、何だ」
狂の声が更に低くなる。慌てて口を押さえていたゆやは、もう散歩の言い訳は通用しないであろうことを理解した。
「あ、うっ、ええと・・・」
「いい加減に白状しなさいな。もうバレてますわよ」
「っそ、そうなんですか!?」
「私を誰だと思ってますの?」
出雲の阿国、彼女の情報収集能力は真田十勇士にも引けをとらない。それはゆやもよく知っていて。
「・・・ごめんなさい。勝手にお屋敷を出ていったりして」
深々と頭を下げるゆやに、狂は何も言わない。
「そうですわ。どれだけ心配したと思ってますの?」
腕を組んだ阿国が唇を尖らせて言う。
「すみません・・・」
「あなたがいなくなるから、ほたるさんまであなたを探しに行きましたのよ」
「っええ!?」
「ま、ほたるさんは放っておいても独りで帰ってこられそうですから構いませんけど」
「・・・・・・」
「それで、あなたはどこまで掴んだのかしら?」
「・・・・・・」
「ゆやさん?」
「・・・っえ、あ、はい?」
きょとんとしているゆや。聞いていなかったのだろうかと、阿国は子供に言い聞かせるような感じで再度尋ねる。
「あなたはアキラさんたちの手がかりをどこまで掴みましたの?」
辰伶がこの森にいることなど知りもしないゆやは、深く項垂れる。
「あ・・・その、ま、まだ、何も。この森にいるんじゃないかなぁ・・・て、わっ」
突然支えを失ったゆやは、とすんと腰をついた。
ゆやから手を放した狂は、面倒臭そうに舌打ちをする。

「・・・さっさと見つけて帰るぞ」

「っ・・・ありがとう!」
ぱ、と顔を綻ばせるゆや。狂は何も言わずもう一度舌打ちをした。
そしてゆやたちに背を向け歩き始める。その後を追って、ゆやと阿国も駆け出した。
「そういえば、阿国さんはアキラさんと辰伶さんが今どうなってるか知ってるんですか?」
ゆやが尋ねると、阿国はふぅっと溜め息を吐いた。
「知っていれば、今頃二人を探してこんなところをうろついたりしないですわ」
「なぁんだ・・・」
「ご・め・ん・な・さ・い・ね。がっかりさせてしまって」
「すす、すみません!お、阿国さん、顔が怖いです・・・!!」
貼り付けたような笑みで凄んでくる阿国に、ゆやは涙目で謝った。
「全く、私にだってわからないことの一つや二つ、ありますわよ」
「そ、そうなんですか」
「まあ、ゆやさんよりはずっと色々知ってますけれど」
「はあ・・・色々ですか」
「ええ」
にんまりと、阿国が微笑む。この顔はまた何やら言いだす気だ、とゆやは覚っていた。

「まだゆやさんが見たこともない、狂さんの姿とか」

「・・・は?」
ゆやの目が、点になった。前を歩く狂は、何も言わずに黙々と進んでいる。
「あんな格好をする狂さんは、もう二度と見られないと思いますわよ。残念ですわね、ゆやさん」
「べ、別に見たくもないですよ、そんなもの!」
拳を作って主張するゆや。狂の肩がぴくりと動いたのを、阿国だけは見逃さなかった。

「んぁ?辰伶じゃねーか」
「っ・・・!?」
向かった先に欠片も予想しなかった相手がいて、辰伶は声を失う。何とか気を取り戻し、渇いた喉で呟いた台詞は酷く擦れていた。
「太四老、遊庵・・・」
何かを煮込んでいる小さな鍋の中味をかき回しながら、遊庵は口の端を釣り上げた。
「何故、ここに・・・!?」
「いや、何でもちょっと厄介な奴がここに逃げ込んでな。そいつを始末するように言われたんだよ」
「厄介・・・?」
訝しげな表情で眉を潜める辰伶。
厄介な人物とは、まさかゆやのことではないだろうか。恐らくほたるたちも、始末する対象になっていただろうがそれはどうでもよかった。

「俺も運がいいぜ」

遊庵が鍋を掻き混ぜる手を止め、ゆらりと立ち上がる。辰伶の足が、一歩下がった。その事に、彼自身は気付いていない。
それよりも今は、太四老の気に負けぬよう己を保つのが精一杯で。

「辰伶。反逆罪でお前を始末する」

遊庵は、辰伶がひしぎと別の森で会った時に言われたものと、同じ台詞を口にした。
あの時はこの森に隠れてやり過ごしたが、今度は逃げられそうもない。
刹那、辰伶の皮膚が、文字通り裂けた。
「っぐ・・・!!」
焼けるような痛みに、思わず声が零れる。常人ならば叫んで転げまわっていただろう。
「どうした、反撃しねえのか?」
遊庵の余裕に満ちた声が、辰伶の闘志をかき消していく。ひしぎにやられた傷も残っている今、彼が勝つ可能性は無きに等しい。
「・・・・か・・・」
「ん?何だって?」
耳元に手を添える遊庵。
辰伶は、指が白くなるほど強く刀を掴む。

「負けてたまるか!!」

轟音を立て、大地から水柱が上がった。
「っお・・・」
水龍と化したそれは、遊庵を頭から飲み込む。
辰伶は、攻撃の手を休めることなく更に水龍を放った。
それらは遊庵を喰らったまま大地にぶつかり、飛沫となる。
暫くして、辺りは水蒸気が立ちこめ視界は全くなくなった。

「ほぉ、まだこんな元気があったとはな。見直したぜ」

全身を濡らしつつも、傷一つ負っていない遊庵が口笛を吹く。
「さあ、今度は俺の番・・・」
言いかけて、はたと気付く。
辰伶の気配が、忽然と消えた。
「あ、あいつ、どうやって逃げたんだ・・・!?」
辺りに気を配っても、全く見つけられない。この程度の霧、元から目隠しをしている自分には関係ないと高を括っていたからだろうか。
「ちっ・・・年だな、俺も」
舌打ちをしながらも、その口元は楽しそうに吊り上げられていた。

「アキラさ~ん、辰伶さ~ん、ほたるさ~ん、どこですか~?」
「それで見つかったら苦労しませんわよ」
「はぁ、でも何か言わないと落ち着かなくて」
「それでまた蜘蛛やら狼やら呼び寄せて、狂さんに斃させる訳ですわね」
「ぐっ・・・」
言葉に詰まるゆや。勝ったとほくそ笑む阿国。狂はいつも通りに無言で歩き続ける。

そんな調子で歩いていた一行の視界が、突如白く染まった。

「わっ・・・き、霧?」
「おかしいですわね。こんなところに霧が出る訳がありませんわ」
訝しげな顔をする阿国。ゆやは、涼しくなってよかったわ、と独り言を口にする。
「でもこれじゃあ、誰かいてもわからな」

刹那、むぎゅ、と言う感触が足から伝わり、言葉を途切れさせるゆや。
『・・・?』
恐る恐る足元を見たゆやと阿国の視界に、気を失っている辰伶が倒れていた。
「いつまでそいつを踏み潰してるつもりだ?」
久々の狂の台詞は、随分と鋭い突っ込みだった。
「し、辰伶さん、何があったんですか!?」
「ゆやさん、それ以上揺さぶると死にますわよ」
阿国の忠告に、ゆやがはっとして手を離す。がくがくとしていた辰伶が、支えを失いぼとりと地面に落ちた。
「ああっ、辰伶さん!!」
「チンクシャ、それ以上ややこしくすんじゃねえ」
「わわわ、ちょ、何すんのよ!」
狂に首根っこを掴んで引き離され、ゆやが憤慨する。拳を振り上げるゆやを気にもせず、狂は辰伶の頭を蹴り飛ばした。
「ちょ、ちょっと狂!辰伶さんが死んじゃうじゃない!」
「ぐっ・・・!!」
「え、起きちゃうの?」
先ほど何度揺すっても意識を取り戻さなかった辰伶は、重そうに上体を起こした。

霞む視界。うるさいほどの耳鳴り。それらが波のように引いていく。
遠くで響いていた声が近付き、目の前に広がるは明るく柔らかい黄色。

「辰伶さん!大丈夫ですか!?」

自分は死んで天に召されたのかと、辰伶は思った。
「・・・し、いな、ゆや・・・?」
「はい!ちゃんと起きてますか?一足す一はいくつですか?」
「・・・・・に」
「正解です!よかった!!」
「彼がちゃんと答えている姿が既に危ないと思うのは私だけかしら・・・?」
頬に汗を流し、阿国はぽつりと言った。
狂が再度ゆやの首根っこを掴んで辰伶から引き離す。
「ひゃっ」
「お前は暫く黙ってろ」
何とか立ち上がった辰伶の前に、狂が歩み寄った。
「おい」
「・・・鬼眼の狂・・・」
「てめえ、ここで何してやがった」
「・・・・・」
唇を噛んで俯く辰伶。余程言いたくないことがあったのだろうと言う事はゆやたちにもわかった。
しかし、そこで尋ねるのを諦めるほど、皆大人しくはない。
「っうぉ!?な、何をす」
鉄線が腕に巻き付き、辰伶の動きを封じる。
「暴れるほど喰い込みますわよ」
「さっさと吐け」
「お願いします辰伶さん。何があったのか話して下さい」
阿国が楽しそうに笑う。
狂が紅い目で凄む。
そして手を組んで瞳を潤ませるゆやに、辰伶はだらだらと汗を流す。
辰伶は、じりじりと迫り来る三人の背後に修羅を見た。

「じゃ、じゃあ、遊庵さんがこの森のどこかにいるってことですか」
ゆやの言葉に、険しい顔をしたまま事情説明を終えた辰伶は、更に表情を固くして頷く。
「それで、辰伶さんは太四老全員に狙われているのですわね」
阿国が言うと、辰伶は多少青ざめた顔で頷く。ひたすらに重くなる空気。

「んなこたどうでもいいんだよ。さっさとアキラを見つけて帰るぞ」

吐き捨てるように狂が言い、三人に背を向け歩き出す。
慌てて後を追う阿国。ゆやも続こうとするが、ふと弾かれたように振り返る。
「辰伶さん、行きましょう!」
突然手を差し出され、唖然とする辰伶。
「は・・・?し、しかし俺は太四老に」
「そんなこと関係ないです!辰伶さんも一緒に帰りましょう」

ぽかん、と辰伶が口を開けて固まった。

「・・・・・・・かえ、る・・・」
「はい!」
にこにこと満面の笑顔で頷くゆや。
辰伶は彼女の顔と、差し出された手を交互に見やる。それはとても眩しくて、触れるのはためらわれた。
しかし、酷くそこに引き寄せられるのも事実で。
ふらふらと辰伶の手が持ち上がり。ゆやの手がそれに触れ。

「さっさと来い」

げしっ、と音を立てて辰伶の手を蹴り飛ばす狂。地味な激痛に地面を転がる辰伶。
「ち、ちょっと狂!」
「チンクシャ、てめぇも蜘蛛の餌になりたくなかったら遅れんじゃねえ」
「うぐっ・・・わ、わかりました・・・」
色々と嫌な思い出が蘇り、ゆやは素直に頷いた。
辰伶はまだ地面を転がっている。

「どうだった?」
尋ねる前から、どんよりとしているほたるの空気を感じていたサスケは、だめだろうと確信しながら尋ねる。
「・・・サスケは?」
「こっちはいない。そっちもだめか・・・と、なると」
「才蔵はどうしたの?」
あれほど集合時間に遅れるなと言い聞かせて来た張本人がいない。
「さあな。途中で死合いでもしてんじゃねぇの?」
「ずるい」
「もしかしたら、太四老に鉢合わせして」
「ずるいずるい」
「それともゆや姉ちゃんを見つけたのかも・・・」
「ずるいずるいずるい」
「・・・途中で拾い食いして倒れたとか」
「ずるいずるいずるいずるい」
「聞いてねぇな」
「ずるいずるいずるいずるいず」

「こんなとこで漫才ですか?二人とも暢気ですね」

突然背後からかけられた声に、二人が刀を抜きつつ振り替える。
しかし、そこにいたのは。
「・・・・・・っ!?」
「あ・・・アキラ・・・?」
呆然とするサスケとほたるの前で、アキラは溜め息を吐いた。
そして、何も言わずに凝視してくる二人に気付いて、軽く首を傾げる。
「どうかしたんですか?二人とも顔が腑抜けのようですよ」
「本物だ」
「本物だね」
少しでも、このアキラは偽者かもしれないと思った自分が馬鹿だったと二人は思った。
「今までどこに行ってたんだよ。しかもそんな傷だらけで・・・」
「そうだそうだ」
サスケに尋ねられ、アキラは僅かに顔を歪める。
「別に・・・あなたたちには関係ありません」
「お前に関係なくても、俺には関係あるんだよ。さっさと幸村たちを見つけねえと・・・」
どうすべきか、ぶつぶつと呟いて悩み出したサスケ。
「誰を見つけるって・・・と言うか、むしろあなたたちこそこんなところで何をしているんですか?」
「まあ、色々あって・・・」
「サスケたちは迷子のアキラと辰伶を探してたんだって」
どこから説明しようかとサスケが悩みかけたところで、ほたるがある意味的確に事情を説明した。
迷子扱いされたアキラはもちろんこめかみを引きつらせる。
「誰が迷子ですか!」
「アキラ。だから椎名ゆやが家出した」
「はあ!?」
顔が崩れる勢いで驚愕するアキラ。ほたるの胸倉を掴んで詰め寄る。
「っど、どど、どう言うことですか!?」
「苦しい」
「とにかくゆや姉ちゃんがこの森にいるんだよ。とりあえずもう少し才蔵を待って、それでも来なかったら今度は三人でゆや姉ちゃんを探しに行こうぜ」
分かれて探して、また誰かはぐれるのは御免だとサスケは提案する。二人も、それには賛成した。

才蔵を待つ三人。
『・・・・・』
更に待ち続ける三人。
「・・・・・・・・・ねえ」
「何ですか」
「何だよ」
ぽつりと呟くほたるに、妙に素早い反応を返す二人。

「もう、探しに行かない?」

ちなみに、才蔵を待ち始めて、まだ数分しか経っていない。
「そうですね。行きますか」
「ああ。行こうぜ」
「あ、そー言えば庵曽新と辰伶とも他のところで待ち合わせしてるんだった」
ぽん、と手を叩いてほたるが言う。
「そうですか、なら行ってきなさい」
冷たく言い捨てるアキラ。ゆや探しに関係ないことは全く興味がないらしい。
しかし、サスケはそれに待ったをかける。
「待てよ。そいつらもゆや姉ちゃんを探してるんだろ?なら合流した方がいいんじゃねえのか?」
「・・・それもそうですね。可能性はかなり低いですが、彼らがゆやさんを見つけているかもしれません」
ゆやが関わっているとわかった途端、豹変するアキラ。その事について突っ込む者はこの場にいない。
「じゃあ行こうか」
向きを変えて歩き出すほたるの後を追うアキラとサスケ。

黙々と歩き続けること暫し。
「・・・集合場所、ちゃんとわかっているんでしょうね?」
「集合時間、ちゃんと合ってんだろうな・・・?」
「・・・・・」
『答えろよ』
沸いた疑問に、答えが返ることはない。

そして三人は、再び沈黙して歩き続けるのだった。

・・・奇跡だ。
アキラとサスケは全く同じ感想を抱いた。
「ほら、やっぱり」
ふんぞり返って言うほたる。先ほどまで散々二人に疑われた仕返しらしい。
「サスケ!無事でよかった」
辿り着いた場所には、庵曽新だけではなく幸村もいた。彼に頭を撫でられ、サスケは逃げるように首を巡らせる。
「当たり前だろ。お前が心配する必要なんかねえよ」
「あはは」
「・・・すぐ戻らなくて、悪かったな」
「ん、無事だったから、許してあげよう」
ほのぼのとした雰囲気の隣では、正反対の空気が流れている。
幸村との戦いでぼろぼろになった庵曽新は、息を切らせながらほたるの胸倉に掴みかかっていた。
「ほたる・・・集合時間がいつだったか言ってみろ・・・」
「今」
締め上げられながらも、ほたるがずっぱりと言い放つ。同時に三度ほど、『ぷち』と音が立った。それが庵曽新の頭の方から聞こえたことに、気付いたのは傍で見ているアキラだけだろうか。

「三時間も遅れて来といて何ほざいてやがんだてめえはあぁああ!!」

庵曽新が幸村と出会い、死合いを始めたのは三時間前のことである。集合時間に集合場所へと来た彼は、そこで幸村と鉢合わせしたのだった。
渾身の力で投げられたほたるは、木よりも高く舞い上がり、少し離れたところへぼとりと落ちる。
「きゃ・・・!?」
ばきばきと枝を折りながら落ちてきたほたるの耳に、随分と懐かしい声が聞こえた。
それに動揺したせいか、受け身に失敗して地面に叩きつけられた彼の上から影が差す。
やはりこの時間にここへ来てよかったとほたるは思った。
「ほ、ほたるさん!?だだ、大丈夫ですか!?」
その顔を見るのも、とても久しぶりで。ほたるの胸は何故か苦しくなる。
「ほたるさん、どうしてこんなことに・・・」
横たわったままぴくりとも動かないほたるの手を握り、ゆやはぽろぽろと涙を零す。
ほたるの頬に、涙が落ちる。彼の瞼が、震える事はない。
「ほたるさん・・・ほたるさんっ・・・」
穏やかなその顔は、まるで寝ているかのようだ。
屋敷で最後に会った時、交わした言葉は「お休みなさい」だった。
そんなことを思い出し、ゆやの涙はますます止まらなくなって。
「っ・・・ほたる、さん・・・目を開けて下さい・・・」

『さっさと起きろ』

げっし、とかなり重く痛そうな音が立つ。狂とアキラと辰伶の容赦ない一撃に、ほたるはぐらぐらと揺れながら起き上がった。
「・・・痛い」
「ほ、ほたるさんっ!」
「何?」
「だ、大丈夫なんですか・・・?」
「あんたは?」
「へ?」
「平気なの?」
「は、はい。すごい怪我とかはしてないです」
こくこくと頷くゆやを見て、ほたるが口元を緩めた。
「そっか」
「はいっ」
「っち・・・・」
ほのぼのしているゆやとほたるの横で、狂が盛大に舌打ちをする。
「あら狂さん、嫉妬ですの?」
突っ込みを入れる阿国に狂は視線を向けることもしない。
「おい」
代わりにゆやの肩をがしりと掴む。
「え?」
「アキラと辰伶は見つけたんだ、これで文句はねえだろ」
「あ」
不機嫌な狂に言われて、『アキラと辰伶を見つけたら帰る』と言ったことを思い出すゆや。
何だかんだで最後まで付き合ってくれた狂に、ゆやは感謝の気持ちで一杯になった。
「ありがとう、狂」
満面の笑みで礼を言われ、狂は視線を逸らしたまま再度舌打ちをする。
「・・・さっさと帰るぞ」
うん、と頷こうとして、ゆやがぱちりと目を瞬かせた。

「・・・才蔵さんは?」

一同を見回すが、才蔵を見つけることができなくて。幸村のところで視線を止めると、困ったように笑う彼と目が合う。
サスケを見ると、どこか疲れたような顔をしている。幼いのに大変だとゆやは思った。

「探しましょう!才蔵さんを見つけないと帰れません!!」

また人探しかよ、と全員が心の中で突っ込む。
こうしてゆやを筆頭に才蔵探しの旅が始まったのだった。

才蔵は、皆で探し始めた直後に、巨木に引っかかっているところを発見された。
「変な黒い男に無表情で追いかけられたんですよ!必死で逃げたんですから・・・!!」
「黒い?」
涙目で語る才蔵。余程怖かったのだろう。
ゆやが首を傾げ、アキラは険しい顔を露にする。心当たりがあるのかと幸村が尋ねると、ありませんと言ってまた考え込んでしまった。

「やっと全員揃ったな・・・」
サスケが感慨深く呟いた。誰かを見つけては誰かがはぐれ、もう何日費やしただろうか。思えば最初は幸村の散歩について行かなかったことが全ての始まりだった。
「皆無事で本当によかったです!」
ゆやが嬉しそうに言う。この笑顔が見られただけで、今まで頑張ったかいがあると、男たちは思った。
「お屋敷を出てから、沢山危ない目にあったんですけど、皆さんのお陰で助かりました。本当にありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げるゆや。顔を上げた途端、狂がその肩を掴む。
「俺様がここまで面倒見てやったんだ・・・礼だけで済むと思ってんのか?」
「う、えぇ、あ、あの、これからもお屋敷で精一杯働かせて頂きます・・・」
「お前は俺様の下僕だっつうことを忘れんなよ。てめぇらもだ」
狂が男たちにびしりと指を突き付ける。
「忘れてないよ」
「四聖天ですから」
「あはは、了解~」
「幸村様!」
「了解していいのか?」
「断る」
「ろくに面識ない奴にまで何言ってんだよ」
色々な反応を全て無視し、狂は身を翻す。
「とっとと帰るぞ」
頷く一同。こうしてやっと、それぞれの家路へとついたのだった