喪失

久しぶりに通す袖。メイド服を身に付け、白いリボンで髪をまとめる。
「・・・ふふ」
何となく、顔がにやける。帰ってきたのだと言う実感は、屋敷についた時から何度も沸いてきていたが、その度に頬が緩むのを止められない。

「何笑ってんの?」

突然、肩越しに声をかけられ、ゆやは大きく肩を跳ねさせる。
「ひゃっ・・・!ほ、ほたるさん!」
「何?」
名を呼ばれたので、ほたるはやはりゆやの肩越しに返事をする。
「あ、ええと、何でもないです。いきなりだったから、びっくりして・・・」
ほたるが肩の傍から顔を退かさないので、ゆやは何となく振り向くことができない。どいてくれと言うのも変だし、左から呼ばれているのに、わざわざ右から振り向くのもおかしい。
困ったゆやは、前を向いたまま話を続ける。
「あ、あの、ほたるさんはどうかしたんですか?」
「ん?」
「何か用事があって来たんじゃ・・・」
「ああ、そうだった」
彼がぽんと手を叩くと同時に、ほたるの頭が離れた。今がチャンスだとばかりに振り向くゆや。
「・・・え」
そして目を点にする。

「俺の服、知らない?」

かろうじて下着を身に着けていてくれてよかったと、頭の隅で思いつつ、ゆやはとりあえず悲鳴を上げた。
ゆやが悲鳴を上げた途端、扉が勢いよく開かれる。
飛び込んできたのは、この屋敷の主である狂と、居候状態の辰伶である。
この屋敷の主である狂はともかくとして、何故辰伶がここにいるのか。ほたるはそれがいまだに不満だった。ほたる自身も、元は辰伶と同じ場所にいたのだから、文句を言える立場ではないのだが。
「っな、何をしているのだ貴様・・・!!」
「・・・・・」
ゆやの悲鳴、部屋ではほたるが下着のみで彼女の傍に立っている。その状況を見た彼らが、どんな解釈をしたのか、立ち上る殺気が示していた。
普通ならここでいい訳なり否定なりする場面なのだが。

「何って、椎名ゆやに会いにきたんだけと」

重要なことを色々省いてあっさり答えるほたるに、男たちのこめかみがぷつりと音を立てた。
「裸で女性の部屋に踏み込むとは何事だぁああ!!」
辰伶の咆哮と共に、水龍がほたるを襲う。それはほたるの生み出した炎に蒸気へと変わる。
「水は嫌いだって言ってるじゃん」
「うるさい!貴様のような不埒者には水責めでも足りぬわ!!」
兄弟喧嘩を始める二人は無視して、狂はゆやの前にずいと立ちはだかった。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・・・・」
「な、何よ?」
紅い眼でじっと見下ろしてくる狂に、ゆやはうろたえつつ尋ねる。
狂の口が僅かに開かれ。
「チンクシャ」
「?」
「・・・・・・・・・・酒を買って来い」
拳を振り上げて文句を言うゆやを、狂は部屋から放り出した。

「何よ何よ!意味有り気な顔して睨みつけておいて、酒ですって!?」
廊下を歩きながら、ゆやはまだ文句を言っていた。しかし、向かうのは屋敷の外。狂の言いつけ通りゆやは酒を買ってくるつもりだった。先日、色々と心配をかけたこともあり、最近のゆやは狂に優しい。
屋敷を出て、森に入る。以前外出した時はこの森で狼に囲まれたりもしたが、今は朝なのでその点は心配ない。
「よく考えてみれば、この前も朝早くに出ればよかったのよね」
こっそり抜け出すには夜中しかないと、ゆやは思い込んでいた。そして森の中で幸村と出会い、更に狼に囲まれそうになったところを、サスケと才蔵に助けられたのはついこの間の事である。
「でも、そうすると幸村さんたちに会えなかったから、やっぱり夜中に出てよかったのよ」
「そんなに僕に会いたかった?」
「はい。じゃないとアキラさんたちも見つけられなか・・・って、ゆゆ、幸村さん!?」
ゆやの独り言にちゃっかり加わってきた幸村は、驚く彼女にぱたぱたと手を振った。
「やあ、ゆやさん。何だか最近は森の中でよく会うね」
「ほ、本当にそうですね。こんなところでどうしたんですか?」
辺りを見回すが、サスケや才蔵はいないようだった。もしやまた、とゆやが思った直後に、照れたような笑いを浮かべた幸村が言う。

「ちょっと迷子になっちゃって」

彼はそんなキャラではないはずだ、とゆやは眩暈のする頭で考える。
「え、ええと、何日前から迷ってるんですか?」
「うーん、三日前の朝だったかなぁ」
別人ではないかと疑いたくなったが、何度見直しても目の前の人物は幸村に間違いなかった。
「もしかしてまた熊狩りの最中だったんですか?」
前回会った時も、幸村は迷子になっていた。原因は熊狩りらしい。
「あはは、そうなんだよ~」
「そ、そうなんですか・・・」
色々と突っ込みたい気持ちを抑えつつ、ゆやは相槌を打つだけに留めた。
「ゆやさんは何してるの?お出かけ中?」
「はい、ちょっと街まで買い物に行ってこようかと・・・あ、とりあえず一緒にお屋敷まで行きますか?森の中を歩き回るより、あそこでサスケ君たちを待った方がいいと思いますよ」
言って幸村を屋敷に連れて行こうとしたゆやだったが、彼はくすぐったそうに笑って首を振った。
「ごめんね。そろそろ見つかりそうだから、もう少しここで探してるよ」
「え・・・あ、えと、熊を、ですか?」
「そう、『熊』をね」
にっこりと笑って言う幸村に、ゆやは何か引っかかるものを感じた。
「・・・大丈夫、ですか?」
「ん?」
何が、と首を傾げる幸村に、ゆやはどう説明したものか迷う。その台詞は、意識せず口にしたものだったから。
「あ・・・いえ、その、危なくないのかな、と思って。えと、幸村さんなら、全然そんなことないと思うんですけど、でも」
「ありがとう」
嬉しそうに言う幸村を見て、ゆやはそれ以上の言葉を失った。
「大丈夫だよ。ちょっと強いけど、僕には心強い仲間もいるし!」
それは十勇士のことだろう。彼に何かあれば必ず、彼らはやってくる。
「・・・そう、ですね」
「うん」
「じゃあ、気を付けて下さい。またお屋敷に遊びに来て下さいね」
「ありがとう」
「絶対ですよ」
念を押すように、ゆやが言う。幸村が頷くまで、彼女は離れないつもりだった。
また、彼がくすぐったそうに笑う。嬉しそうに。
「・・・うん。必ず、行くよ」
ゆやがやっと納得し、口を開きかけたその時。

幸村がゆやの身体を抱き寄せ、大きく跳んだ。

ゆやが驚きに目を見張る。
何が起きたかを理解する前に、ぎぃんと耳障りな金属のぶつかり合う強い音が聞こえた。

着地すると同時にゆやを自分の後ろへやる幸村。その手には己の獲物。
吊り上げられた口端は、不自然なほど高く。

「やっと見つけたよ・・・佐助」

目の前に佇む男は、どう見ても熊ではなかった。
身体中に刻まれた刺青が黒衣の隙間から見え、ゆやは肩を震わせる。だがそれよりも、ゆやは気になることがあった。
「サスケって・・・?」
「私の名はシンダラです。死なずの真達羅」
「え、そ、そうなんですか。あの、私は椎名ゆやです。初めまして」
佐助と呼ばれた男が名乗る。意外と礼儀正しいと感心したゆやは、とりあえず自分も自己紹介した。
「ゆやさんは買い物があるんでしょ?気にしないで行っておいで」
「気にしないでって・・・言われても」
いきなり斬りかかってきた真達羅に、彼を探していたと言う幸村。この緊迫した状況で、酒を買いに行くなどできるはずもない。
この場に残りたいのだとゆやが言う前に、真達羅が口を開いた。

「行かせる訳にはいきません。やっと見つけたのですから」

台詞の意味がわからず、きょとんとするゆやと対照的に、幸村は珍しく苦笑する。
「なるほど・・・最近この森をうろうろしていたのは、ゆやさんを探していたんだね。一人でいるところを攫うため、かな」
「・・・え?」
突拍子もない展開に、ゆやはついていくことができなかった。
これまでの状況を理解すべく、ゆやは混乱気味の頭を振り絞って考える。
佐助と呼ばれた真達羅と言う男は、自分を連れ去るため、この森に暫く前から出没していたらしい。
そして幸村は、その真達羅を探していたらしい。今回も前回も熊狩りで迷ったと言っていたが、本当はこの男を探してここに来ていたのだろう。

「で、でもどうして真達羅さんは私を探していたんですか?それに幸村さんもどうして真達羅さんを探していたんですか?」

こればかりは当人たちに聞かなければわからない。
ゆやが尋ねると、幸村はいつものように笑みを浮かべる。答える気はないのだろうな、とゆやは何となく気付いてしまった。
「彼とはちょっと色々あってね」
「色々、ですか」
「そ。色々・・・ごめんね」
人差し指を立てて言う幸村。最後に小さく呟かれた謝罪に、ゆやは苦笑する。
「もし幸村さんが話してもいいって思ったら、教えて下さいね」
「うん」

「話は済みましたか。そろそろ椎名ゆやさんをこちらへ引き渡して頂きたいのですが」

それまで沈黙していた真達羅が口を開いた。彼にも、ゆやの問いに答える気はないらしい。無駄だと思いつつも、尋ねてみる。
「っな、何で私があなたについていかないといけないんですか!?」
「それは知りません。私は貴女を連れてくるよう命じられただけですので」
「誰に言われたのかな?」
幸村が訊くと、真達羅は言えないと首を横に振った。幸村がくすりと笑う。
「じゃあ、君を斃して聞き出すしかないね」
「貴方では無理だ」
「それはやってみないとわからないよ」
「私は『死なずの真達羅』。この肉体に死が訪れることはない」
「そう言うことは言い切らない方がいいよ。後で後悔するからね」
刀を抜き放つ幸村。真達羅の黒衣の下が小さく動いた。彼も獲物に手をかけたのだろう。
ゆやは幸村に促され、一歩下がる。もう自分に止められないところまで来てしまったと思った。

その頃、狂と辰伶は半裸のほたるからやっと事情を聞き出したところだった。
「服がないならまず代わりの服を探せ!」
「だから探しに来たんだよ」
「それで何故、椎名ゆやの部屋に行くのだ!?」
「だって一番服のこと知ってそうじゃん。洗濯してるし」
ゆやがこの屋敷の洗濯物を全て洗っているから、彼女に聞けば自分の服の在り処がわかると思ったらしい。
狂は『ほたるの服喪失事件』に興味がないのか、ベッドに腰かけ窓の外を見ている。その方向には、ゆやが酒を買いに行くはずの街があった。ここからは見えないが。
「とにかく服を着ろ!貴様の仕事着はそれから探す!」
「だから着る服がないんだって言ってんじゃん」
「うるさい!いいから何かそこらにあるものを着ろ!」
「うるさいのはそっちじゃん」
「何だと!?」
更に憤慨する辰伶を無視して、ほたるは辺りを見回した。
そこはゆやの部屋である。きちんと整頓されたそこには、もちろんほたるの服など置いていないのだが。
「・・・そこらにあるものって・・・これ?」
ほたるが手に取ったそれは、ゆやが寒い時に部屋で着ている赤いはんてんだった。とりあえず羽織ってみる。

「気色悪ぃからやめとけ」

間髪入れずに狂からの突っ込みが入る。素肌にはんてんは確かにおかしい。上が厚着なのに、下は素足と言うアンバランスさが、見る者に困惑しか与えない。
ほたるは温かいからこのままでもよかったのだが、狂に言われたので渋々それを脱いだ。
「そうだ!とりあえずここは寝巻を着ていればいいではないか!」
辰伶が名案だとばかりに手を叩く。何故こんな簡単なことを思いつかなかったのか。
意気揚々と辰伶がほたるへ命じようとした直後。

「俺、寝る時は何も着てないんだけど」

思い切り出鼻を挫かれて、辰伶は暫し硬直した。
「・・・・・・・・・貴様それでも壬生の戦士かぁあ!!」
「壬生の戦士と寝巻は関係ないじゃん」
「うるさい!!」
「だからうるさいのは辰伶だってば」

とりあえずほたるは辰伶の寝巻を着ることで落ち着いた。
「辰伶、今着てる服と寝巻以外は持ってないの?」
「し、仕方なかろう。ここは俺の住居ではない」
彼の寝巻も、ゆやが用意してくれたものだった。ほたるがジト目で辰伶を見やる。
「じゃあ辰伶って、いつも同じ服着てるんだ。不潔なんだ」
「っき、貴様こそ同じ服だろうが!!」
「同じのが二着あるもん。椎名ゆやが洗濯してくれるもん」
「何だその腹が立つ口調は!俺だって洗濯くらいしているぞ!!」
「その一着しかないのに?洗濯している間は何着てんの?」
「寝巻に決まっているだろうが。洗濯は夜にしているのだ」
「・・・寂しい」
口元を押さえてぽそりと呟くほたる。ぷっ、と吹き出して笑う弟に、辰伶は怒りに任せた水龍を放った。
珍しく、狂が目を見開いて慌てたように立ち上がるが、間に合わない。
こうして三人は、びしょ濡れになったゆやの部屋で呆然と立ち竦むことになるのだった。

幸村と真達羅の死合いは、始まる前に幕を引く結果となった。
明後日の方向を見やった真達羅が、突然姿を消したのである。
困惑するゆやだったが、そこに小助が駆けつけたことで、幸村に疑問をぶつけることはできなかった。
「幸村様!あれほど一人で出歩かないで下さいと申し上げたのに・・・!!」
「あはっ、ごめんね小助。どうしても熊鍋が食べたかったんだ」
「熊なら小助が狩って参ります!」
その会話に、ゆやは首を傾げる。小助は幸村が熊狩りをしに来たと思っているらしい。始めはゆやもそう思っていたが、実際は真達羅を探して幸村はこの森にいたのだ。幸村の部下である十勇士は、その事を知らないらしい。
言ってはいけないことなのかと、ゆやは尋ねかけた疑問を飲み込む。それに合わせて、幸村がウインクをゆやに送った。やはり黙っていてくれと言う合図なのだろう。

「見つけてくれてありがとう、小助。熊が狩れなかったのは残念だけど、もう諦めるよ」
「そうして下さいませ。後ほど小助が熊を狩って参ります」
「あ、でもまだ帰る訳には行かないんだ」
『え?』
小助とゆやが、同時に声を上げる。
「ゆやさんが街まで酒を買いに行くんだって。酒瓶は結構重いから、それを手伝ったら帰るよ」
「でしたら私がお手伝い致します。幸村様はお先に・・・」
「僕もゆやさんと買い物したいんだけどなぁ。頼むよ小助」
「はぁ・・・では私もお供致します。よろしいでしょうか、ゆやさん」
強請られて、小助は困惑気味に頷いた。ゆやに尋ねると、彼女はもちろんと返す。
「よろしくお願いします。幸村さん、小助さん」
「こちらこそ」
「この三人で買い物なんて初めてだよね。嬉しいなあ」
真達羅のことが気にならなかった訳ではない。だが、幸村と小助が一緒にいてくれるのだから大丈夫だろうとゆやは思った。

森を抜け、更に歩き続けること暫し、街へ辿り着いた一行。
普段はゆやにとって長く感じる道のりも、幸村と小助がいてくれたお陰であっという間に過ぎていった。
「酒はいつもどこで買うの?」
「もう少し真っ直ぐ行ったところにある酒屋さんです」
ゆやの言葉に、幸村は人差し指を立てて振る。
「そこよりもっといいところがあるから連れて行ってあげるよ。あの店の酒は絶品だから」
「そうなんですか。あ・・・でも、あまり高いと持ち合わせが・・・」
「大丈夫だよ。いざとなったら貸してあげるから」
「あ、ありがとうございます。ええと、そんなに高いお店なんですか?」
「大丈夫大丈夫。こう見えても結構お金は持ってるから」
「あああのっ、あまり高くないお酒で十分ですから」
「あはは、安心していいよー」
決して高くないとは口にしない幸村の言葉に、酷く不安を覚えるゆやだった。

そして幸村が足を止めたのは、見た目普通の店の前。

とてつもなく豪華な外装を想像していたゆやは、あまりの普通さに放心する。ぽかんとしているゆやを心配した小助が呼びかけて、ゆやは意識を取り戻した。
「大丈夫ですか?」
「あはは、はいっ、大丈夫です!」
「ほらほら、二人とも行くよー」
幸村が扉を開け、ゆやと小助に声をかける。幸村の元に駆け寄ったゆやは、開かれた扉から中を覗き込んだ。

中も呆気ないほど普通だった。

「・・・・・」
「どうしたの?」
「あ、いえ・・・」
中に入り、幸村のおすすめだと言う酒を買う。値段は少し高めだったが、借りるほどではなく。そして特に驚くような事件は何も起きなかった。
「・・・何を期待してるのかしら、私」
「ん?何か言った?」
「いいえっ、何でもないです」
森の中で色々とあり過ぎて、感覚がおかしくなっているのだろうか。
こうして何事もなく酒を購入したゆやたちは、店を後にしたのだった。

ほたるが濡れた雑巾を絞る。これでもう何度同じ動作を繰り返しただろう。
向かい側では、辰伶が黙々と濡れた布団やカーテンを干している。ほたるが自分の炎で乾かすと言ったのだが、どうせ燃やしてしまうと言われて取り合ってくれなかった。

「だから水って嫌いなんだよね・・・」

溜め息と共に呟くと、無駄口を叩くなと怒られた。もっと文句を言ってやりたい衝動に駆られるが、ゆやの怒った顔がちらついて何とか留まる。今は辰伶を怒らせることより、ゆやに怒られないようこの場を片付けることの方が大事だ。
気付けばこの場からいなくなってしまった狂に、脳裏で文句を言いつつほたるは作業を再開する。

狂は屋敷の門の前に何をするでもなく立っていた。
辺りは夕焼けで赤く染まり始めている。ゆやが出かけたのはまだ太陽が真上にくるより前だった。普段なら、とっくに帰ってきている。

煙草の煙を燻らせ、吐き出す煙で何度輪を作ったか。始めから数える気は更々なかったが、少ないとは思うことはできない回数だった。

それから暫くして、ぱたぱたとこちらに駆け寄る足音が狂の耳に届く。

深く息を吐いて、視線を上げた狂の前には。
「狂!どうしたのこんなところで?」
「やあ狂さん、お迎えしてくれるなんて嬉しいなあ」
酒瓶を抱えたゆやと、彼女の少し後ろを歩いてくる幸村と小助がいた。

「・・・・・」
ゆやは、じっとりと湿った自分の部屋の前で呆然と立ち竦んでいた。
その傍には、土下座した辰伶とほたる。
「申し訳ない・・・!!」
「ごめんなさい」
謝る二人の声が届いているのかいないのか、ゆやはふらふら歩いてとクローゼットを開ける。そこにはぐっしょりと濡れた己の服。辰伶の水龍は家具の隙間へ平然と入り込み、勢いよく飛び回ったのだろう。
今日は酒を買いに行っていたので洗濯はしていない。つまり、無事な服は今着ているものしかないと言うことになる。何故か服を紛失したほたると言い、今日は服関連でろくな事がないようだ。
ゆやは、大きく深い溜め息を吐いた。怒鳴られた訳でもないのに、ほたるたちの肩がびくりと震える。
「・・・濡れた服を運ぶので手伝って下さい・・・」
『はい』
びしりと軍隊並みの素早さで立ち上がり、ゆやの手伝いを始める二人。
「・・・ごめんね」
虚ろな空気を振りまきながら服を渡してきたゆやに、ほたるはもう一度謝る。
するとゆやは、困ったように笑った。その笑みが、ほたるの胸をぎゅうと締め付ける。
怒鳴られた方がまだいいと思った。

ゆやたちが片づけをしている最中、幸村と小助は応接間でお茶を飲んでいた。
「ゆやさんたち、遅いねえ」
「そうですね・・・やはり小助も手伝いに参ります」
「お願いしていいかな?」
「はい」
頷くのが早いか、小助が姿を消した。
部屋に残ったのは、手を振って彼女を見送る幸村と、そしてゆやの買ってきた酒を呑んでいる狂のみ。
「さて・・・ねえ狂さん、話しておきたいことがあるんだけど」
「・・・何だ」
いつになく真剣な幸村の表情に、狂も僅かな緊張を見せた。

「真達羅が、ゆやさんを壬生へ連れて行こうとしていた」

ぴくりと、酒を持つ狂の指が動く。
「何故かは聞き出せなかったけれど、誰かに命令されたそうだよ」
「・・・・・」
「僕は太四老辺りだと思っている。狂さんは?」
「知るか」
「ふぅん・・・狂さんは違うと思ってるんだ」
「俺には関係ねぇよ」
「太四老より上の人物ねぇ・・・そうなると」
「関係ねえっつてんだろ」
「それこそ、王様くらいしかいないよね」
立ち上がった狂が、幸村の胸倉を掴む。
「人の話を聞きやがれ・・・!!」
「ちゃんと聞いてるよ。狂さんは素直じゃないから。怒ったところを見ると、読みは合ってるみたいだね」
盛大に舌打ちをして、狂は手を放す。
「何で狂さんは紅の王がそんなことをしたってわかったの?」
「・・・・・」
「ふむ、何となくか」
「・・・・・・・・」
狂のこめかみを、一筋の汗が伝う。
「問題は理由だよね・・・何でゆやさんなんだろう。二人には面識があったのかな」
「そんなもん、本人に聞けばいいだろうが」
「紅の王に会うのは難しいと思うけどなあ」
「違えよ。お前の後ろにいる方だ」
「へ?」
幸村が首を傾げると同時に、応接間の扉が開く。
「お待たせしてすみませんでした!」
そこには、片づけを終えたゆやたちの姿があった。

「あかのおう?」
質問を受けたゆやの第一声を聞いて、幸村は答えを知る。
「やっぱり知らないよねえ」
「誰ですか、それ」
「うーん、この前皆で壬生に行ったでしょ。そこの王様だよ」
「はあ・・・偉い人なんですね。その偉い人を私が知っていると、何かあるんですか?」
「いや、僕もそれが知りたくて聞いたんだ」
苦笑する幸村に、眉根を寄せたゆやが頭を下げた。
「すみません、お役に立てなくて」
「いや、ゆやさんは全然悪くないよ!」
「でも・・・」
幸村が何日も森の中で真達羅を探していたことと、紅の王のことは関係があるのかもしれない。
珍しく幸村が自分を当てにしてくれたというのに、全く役に立てなかったことがゆやはとても悔しかった。
「気にしなくていいから。ごめんね」
「何で幸村さんが謝るんですか!?ええと、あのっ、もしかしたら忘れているだけかもしれませんから!何か思い出したらすぐ言いに行きます!」
握り拳を作って言うゆやを見て、幸村はくすぐったそうに笑う。
「うん。ありがとう、ゆやさん」

「てゆーかさ、なくなった俺の服知らない?」

「脈絡もなく湧いて関係ない話をするな!!」
ほのぼのとした雰囲気をあっさりと崩壊させたほたると、さらに悪化させている辰伶が、殺気を放って睨み合う。
「湧いてないし。ずっとここにいたし」
「うるさい!お前はもう少し話の流れを読め!!」
「うるさいのはそっちだし」
一触即発の雰囲気に、まったをかけたのは、何故か先ほどから不機嫌な狂の一撃だった。
容赦ない殴打に、部屋の隅へ転がっていくほたると辰伶。
「き、狂・・・今すごい音がしたと思ったんだけど・・・」
たとえて言うなら、竹を捻るように割ったかのような。痛い、どころの話で済めばいいのだが。

倒れ付した二人をソファの上に乗せて、ゆやは大きく息を吐いた。小助が手伝ってくれたとは言え、気を失った男を運ぶのは骨が折れる。
「もう!いくらほたるさんたちがうるさいからって、あんなに強く殴らなくてもいいじゃない!」
「うるさかったことはゆやさんも認めるんだね」
びしりと狂に指を突き付けて怒るゆやへ、こっそりと突っ込む幸村。その声が聞こえていたのは、苦笑する小助のみ。
「そいつらにはあれくらいで丁度いいんだよ」
「全然丁度よくない!」
声を張り上げるゆやを無視して、狂は酒をあおる。
「狂!聞いてるの!?」
「うるせえんだよ。お前も殴られてえのか」
狂にしてみれば、ゆやを黙らせたくて口にした台詞だった。しかしゆやは、狂を睨み上げると更に声を上げる。

「そんな訳ないじゃない!あんたじゃあるまいし、そんな怪しい性癖じゃありません!!」

馬鹿!と捨て台詞を残して、ゆやは部屋を出て行ってしまった。
『・・・・・』
重い静寂が辺りを束の間支配した。
「へえ、狂さんてばそう言う趣味が・・・」
「ひ、人それぞれ好みは違いますから。ゆゆ、幸村様は決してそんなことありませんよね?大丈夫ですよね?」
「人を勝手に変態呼ばわりすんじゃねえよ・・・」
いつも以上に低い狂の声は、僅かに語尾が揺らいでいた。
幸村がうっすらと笑う。我が子を見守る親の様な顔が、彼にはよく似合った。
「ついついゆやさんをからかいたくなるのはわからなくもないけどね。あんまり怒らせるようなことばかり言っちゃだめだよ?」
酒を飲んでいる狂は、その言葉を見事に無視。しかし幸村の笑みはますます深まる。

「ま、ゆやさんのことだから、狂さんがゆやさんを大事に思っていることくらい、気付いているかもしれないけどね」

狂の紅い眼が、ぎろりと幸村を睨む。幸村は、あまりの殺気に警戒する小助を宥めるだけで、堪えている様子はない。
「・・・はっ、あのチンクシャが、そんなに聡い訳がねえだろ」
「どうかなあ。僕は結構鋭いと思うけど」
無意識なのかもしれないけどね、と幸村は付け加える。思わぬところで相手の感情の変化に気付くゆやを、幸村は何度か見たり、指摘されたりしたことがあった。
「今は無意識かもしれないけれど、いつ自覚するかわからないよ。そうしたら狂さんはどうするつもり?」
聞かれても、狂が答えることはない。
不機嫌そうな彼の顔が、ますます悪化の一途を辿っていくだけだった。

狂に負けず劣らず、ゆやの機嫌も悪かった。
怒りがこみ上げ、そんな自分が嫌になり、気持ちはどんどん沈んでいく。

狂だって根っから悪い人ではないのだ。何だかんだで仲間思いだし、いざという時は助けてくれる。
ゆやが攫われた時も、黙って家出した時も、最後はちゃんと来てくれた。

「・・・そうなのよ。いい奴なのよ、本当は」

あんなに容赦なくほたるたちを殴ったのはいけないことだが、それにただ怒鳴って飛び出してきてしまった自分の態度もよくないと、ゆやは反省する。
後で狂に謝ろうと結論付けて、ゆやは夕食を作るべく厨房へ向かった。

「・・・俺、何してたんだっけ?」
むくりと身を起こしたほたるは、妙に激痛のする頭を擦りながら呟いた。苦笑する幸村がその問いに答えてやる。
「えーと、厳密には色々あったけど・・・簡単に言うと、服を探していたんじゃないかな」
「そうそう、服がないんだった。あんたたち知らない?」
尋ねられて、幸村と小助は首を横に振った。
「困ったな・・・このまま辰伶の寝巻で生きていくのは凄く嫌なんだけど・・・」
その台詞に反応したのか、いまだ気絶している辰伶の指がぴくりと動く。しかし、意識を取り戻すまではいかなかった。
「じゃあ僕も服探しを手伝うよ」
ぽん、と胸を叩いて幸村が言う。隣で小助がもの言いた気にしていたが、反論はしない。
「あんた、忙しいんじゃないの?」
ほたるの台詞に、小助が強く頷く。だが。
「大丈夫。こう見えても結構暇だから」
「幸村様っ!」
笑顔で言い放つ幸村に、とうとう小助が叫んだ。
「何?小助」
「何?じゃありません!皆、幸村様の帰りを待っております!早くお戻り下さい!!」
幸村を森で見つけたと言う連絡は、既に他の十勇士へしてあるが、帰りが遅くなるとは言っていない。今頃、帰ってこない幸村たちを心配していることだろう。
「そうか、結構家を空けちゃったよね・・・」
幸村が腕を組んで考え込む。
「別に帰っていいよ。服なら一人でも探せるし」
「うーん・・・じゃあ、今度来る時は服を沢山持ってくるよ」
「寝巻もよろしく」
ちゃっかり注文するほたるに頷いて、幸村はソファから立ち上がった。
「じゃ、お邪魔しました。狂さんとゆやさんによろしく。あ、あと辰伶さんにも」
「わかった」
「お邪魔致しました」
頭を下げる小助に手を振り、ほたるは二人を見送った。
服がどこにあるのかは、見当もつかない。

厨房に入るなり、ゆやは口を開けて呆然とした。

彼女が見下ろす先には、散乱した酒瓶と、皺だらけになったほたるの服、服、服。
更に、気持ちよさそうにいびきを掻いて寝ている梵天丸と、何の夢を見ているのか悶えている灯。そして、ほたるの執事服を着てうなされている紅虎がいた。彼の苦悶の表情が、かなりの悪夢であることを物語っている。
充満している酒気から察するに、ここで散々飲み明かして寝てしまったのだろう。今日は朝食を作る前に、酒の買い出しへ行ってしまったので、ゆやは厨房に入っていない。ほたると辰伶も、ゆやの部屋を片付けていて入っていないはずだ。狂はもちろんこんなところへ来るはずがない。
恐らく彼らは昨日の夜中にやって来て、ここで宴会を始めたものと思われる。

「・・・・・ど、どうしてこんなことになってるんですか・・・!?」

放心気味に零したゆやの疑問に、答える者は一人もいない。
とりあえず、ほたるの服が見つかったことだけはよかったと思うゆやだった。

「どうしてこんなことになってるんですか・・・」
正座した男たちの前で、ゆやは厨房に入った時と同じ台詞を口にした。
「ゆ、ゆやちゃん、落ち着いて聞いてくれ。これは不可抗力なんだ」
「・・・厨房に忍び込んで酒を飲み干すことが、不可抗力なんですか?」
うろたえる梵天丸に、ゆやの静かな突っ込みが突き刺さる。
「だ、だぁって、折角遊びに来たのに誰も出て来ないんだもの。こっそり忍び込むしかないじゃない」
「・・・・・こっそり忍び込んで、酒を飲み干すことしか思いつかなかったんですか?」
唇を尖らせた灯が、ゆやの一言に声を詰まらせる。

「・・・厨房の酒を飲み干して、ほたるさんの服を盗むことしか思いつかなかったんですか・・・?」

『ごめんなさい・・・!!』
土下座する梵天丸と灯に、ゆやのお説教が始まる。
その隣で、ほたるはいまだ悪夢にうなされている紅虎をフォークで突いていた。
「ねえ、俺の服返してよ」
「うっ・・・ぅう・・・・ティータイム・・・っ」
「ねえねえ、返してよ」
「埃がっ・・・ぐぁ・・・!」
「訳わかんないんだけど。とにかく服返してよ」

厨房の外から、幸村と小助が中を覗き込んでいた。
「あはは、ほたるさんの服が見つかってよかったねぇ」
「・・・はぁ、そうですね」
もっと複雑な謎があるのかと思いきや、単なる酔っ払いの仕業だと知り、少しがっかりする小助。返事する声にも覇気がない。
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
「は、はい!そうですね!帰りましょう今すぐに!」

幸村がくるりと後ろを振り返り、にっこりと笑う。
「それじゃあ、また来るよ。狂さん」
「・・・今度は酒の一つでも持って来い」
幸村たちの後ろに、狂が立っていた。彼が厨房に近付くのは珍しい。何か気になることでもあるのだろうか。
色々と突っ込んでみたら面白そうだが、これ以上帰るのが遅くなる訳にはいかないと、幸村は自粛する。
「次はちゃんとお土産持ってくるよ」
手を振り、ゆやさんたちによろしくと言って、幸村は小助と共に屋敷を後にした。