祝福
そこには張り詰めた空気が満ちていた。
びりびりと辺りが震え、鳥や虫までもがその場を逃げ出していく。
そんな空間の中央に、男が三人。
「どうしても、引く気はないのですね」
アキラが薄い笑みを浮かべたまま低い声で言う。
吊り上げられた唇は、僅かに硬い表情を作り出していた。
「引いてほしいなら、俺を殺すしかないよ」
言った後に、まあ無理だけど、とほたるが付け足す。
既に臨戦体制の彼からは、痛いほどの熱気が噴き出していた。
「・・・・・」
紅い目をぎらつかせ、砕けんばかりに煙管を噛み締めている狂。
無言の殺気は、言わずとも彼の感情を表現している。
そして、三人がゆっくりと刀に手をかけた。
ごとり、と重い音を立てて、グラスが床に転がった。
「ゆや姉ちゃん?」
隣りで皿を洗っていたサスケが不思議そうに彼女を見上げ、その深刻な表情に嫌な予感を憶える。
グラスを落としたゆやは僅かに手を震わせ、見る間に青ざめた。緊急事態だと察したサスケが、手についた泡を洗い流して、背中の獲物に手を伸ばす。
「姉ちゃん、どうし・・・」
刹那、サスケの台詞を切り裂く勢いで、ゆやの悲鳴が屋敷に響いた。
「っ・・・て、何だ。ゴキブリか」
壁を這い上がる黒い物体を履いていたスリッパで素早く退治し、苦笑するサスケ。
「ゆや姉ちゃん、ゴキブリ苦手だったんだな」
顔面蒼白のゆやは、必死に自分の手に泡を擦りつけて叫ぶ。
「だ、だっていきなり飛んできて手に止まったの!ゴミでも落ちてきたのかと思ったら、ゴキブリだったの!」
涙目で訴えるゆやと対照的に、サスケは穏やかな気持ちになるのを抑えきれなかった。
普段は弱さを見せまいと必死に生きる彼女が、自分の前で気を許してくれることが嬉しい。
「何かあったのか!?」
ゆやの声を聞きつけたのか、辰伶が血相を変えてキッチンへ飛び込んできた。
今更とサスケは思ったが、それだけ遠くにいて、よくゆやの声を聞きつけたものだと感心もする。
「だ、大丈夫です。何でもないですよ」
ゆやが恥ずかしそうに笑って答えた。ゴキブリに驚いて悲鳴を上げたことを話すつもりはないのだろう。サスケも折角出来た二人の秘密を教えてやるつもりはない。
ゆやの台詞だけで納得した辰伶は、サスケたちと共に皿洗いをすることを申し出た。
「・・・つーか、お前何でこの屋敷にいるんだよ」
「任務遂行のために来たのだが、鬼目の狂がいないのだ。どこにいるか知らないか?」
「すみません、私にはわからないです・・・お屋敷にいないとなると、街にでもいったのかも」
「い、いや。お前が謝ることではない」
口早に告げ、皿洗いに集中する辰伶。突き放したような言い方でも、気を使ってくれたことがわかり、ゆやは頬を緩めた。
「じゃーんけーんぽん」
ほたるの気の抜けたかけ声と共に、三つの手が出された。
一度は切りかかる寸前までいったのだが、やはり死合いは一対一でなくては、という話になり、誰かが我慢しなければならなくなった。その我慢する誰かを決めるためのジャンケンだ。
「私の勝ちですね」
「よし」
「・・・・・・・」
こうして、アキラとほたるの死合いが始まり、狂は舌打ちをして踵を返す。
「どこへ行くんですか?狂」
「屋敷に戻る」
狂の姿が見えなくなり、残った二人は、再度刀を構え直した。
「一応確認しておきます。この死合いで勝った方が、ゆやさんに誕生日プレゼントを渡すんですよ」
「うん、わかってる」
明日はゆやの誕生日だ。
普段は、皆それぞれプレゼントを購入し、ゆやに渡していたのだが、今回はそうはいかない。
ゆやへのプレゼントは、福引で当たった着物だった。
何故このプレゼントになったのかは、数日前に遡る。
彼女が、街で行われている福引の特賞である着物が素敵だ、と言っていたのだ。それを耳にした狂とアキラとほたるは、早速福引をすべく各々こっそりと森を抜けた先にある街へと向かった。
街に到着するなり、早速福引券を入手できる店で買い物をし、福引会場へと向かう。
別々に行動していた狂たちだったが、何の偶然か、会場で三人は互いの顔を目の当たりにする羽目になった。
「・・・・・」
「め、珍しいですね。こんなところで会うなんて」
「狂とアキラも着物取りにきたの?」
単刀直入なほたるの台詞に、ぴくりと肩を振るわせる二人。しかし何も言わない。
「じゃ、俺が着物もらうから」
福引券を手に一歩踏み出したほたるの肩を、狂とアキラががしりと掴む。
険悪な雰囲気に、福引会場が静まり返った。
普段なら、このまま刀を振り回すことになるのだが、今は何よりもまず、福引をして着物を手に入れなければならないのだ。こんなところで騒いでいるうちに、他の者に着物を当てられては意味がない。
そう考えると、ここで死合いを始めるのが得策ではないことくらいは三人にもすぐ思い当たった。
しかし、誰が先に福引をするのか。
それをどうやって決めるのか。
「仕方がありません・・・ここは公平にジャンケンで決めましょう」
アキラが声を絞り出すように言い、ほたるが苦々しい表情で頷いた。狂も舌打ちをしたが異論はないようだ。
皆とてつもなく死合いで物事を決めたかったが、今回は涙を飲んで諦めるしかなかった。
「じゃーんけーん、ぽん」
ほたるののんびりしたかけ声とは裏腹に、殺気立った拳が繰り出される。そして、くじを引く順番が決まった。
「よし」
勝者のほたるが拳を握り、くじ引きをする場所へ踏み出す。
「福引券をもらいますねー」
「はい、これ」
ほたるから福引券を受け取った係りの者は、困ったように笑った。
「お客さん、福引一回で、券が三枚必要なんですよー」
一回福引をするのに、券が三枚必要だと言うことを認識していなかったのは、ほたるだけではなかった。
店員の言葉を聞くと同時に、狂とアキラのこめかみが大きく引きつる。
二人の雰囲気に気付いたほたるが、後ろを指差して言い放った。
「後ろの二人があと二枚持ってるから」
言うが早いか、狂たちが止める間もなく、からからと福引を回してしまうほたる。
そして、小さな玉が落ちてころりと転がった。
「おっ・・・おめでとうございまーす!!大当たりー!!」
ほたるが小さくガッツポーズを取る後ろで、呆然とする狂とアキラ。まさか本当に着物を当てるとは夢にも思わなかったのだろう。
「はい!こちらが賞品ですよー」
係りの人に着物を受け取り、珍しく鼻歌など奏でつつ、ほたるはその場を立ち去った。
白くなった二人を残したまま。
屋敷のある森の周りに広がる荒野に差しかかった時、ほたるの肩を強く掴む手があった。
「それはあなた一人のものではありませんよ・・・!」
ほたるが振り返ると、険しい顔の狂とアキラ。二人とも、着物を諦めたわけではなかったようだ。
「俺が当てたんだから、俺のだよ」
「違いますよ!私と狂の福引券があったから、その着物が手に入ったんでしょう!」
「でも、当てたの俺だし」
「ですから・・・!」
アキラの台詞を遮り、狂が刀を抜く。
「面倒くせぇ・・・こいつで決めればいいだろうが」
しかし、言い出した狂はジャンケンに負け、ほたるとアキラが着物を争って死合いをすることになったのだった。
常人には見ることもできない速度で刀を繰り出し、互いに弾く。時折、天を貫くような炎が上がり、空気を軋ませるほどの冷気が辺りを包んだ。
「そろそろ観念したらどうですか・・・!?」
「やだ。絶対勝つ」
ほたるとアキラが揃って口角を吊り上げ、渾身の一撃を放った。
「あ、狂。おかえりなさい」
「・・・ああ」
屋敷へ戻った狂へ、門の前を掃除していたゆやが声をかける。もちろんサスケと辰伶も一緒だったが、二人におかえりと言うつもりはないようだ。
どこか虚ろな目で小さく返事をすると、狂は屋敷の中へと入っていった。
ゆやが不思議そうに首を傾げる。
「何かあったのかしら?」
「何かって?」
尋ねるサスケに、ゆやが答える。
「うーん。何となくだけど、落ち込んでるように見えたから」
「熒惑は仕事もせずにどこをふらついているのだ!」
辰伶が怒りを露に言う。本来ならば庭掃除はほたるの担当だと聞かされてから、不機嫌極まりない。
狂を斃すと言う任務でこの屋敷へ来たということも忘れるほど、憤慨しているようだ。
「そう言えば、ほたるさんは街に行くって言ってましたよ」
「堂々としたサボリだな・・・」
きちんとゆやに報告したのは、彼女に心配をかけないためだろうと思いつつも、サスケはそれ以上口を開かなかった。
「職務怠慢はいかん!連れ戻してくる!」
宣言するが早いが、辰伶は森の中へと駆けて行った。
「あっ、夕飯には帰ってきて下さいねー!」
ゆやの声に、遠くから了解の返事が返ってきた。
少し身体を動かしただけで、全ての関節が締め付けられるように軋む。刀を掴む指に激痛が走る。
死ぬとは思わなかったが、身体を動かすことはできなかった。
二人の傍に立っていた黒衣の男が、無表情に片手を上げる。
だが、男が手を振り下ろすことはなかった。
「待て!!貴様、何者だ!?」
堂々とした声に、男が視線を向ける。そこには、既に獲物を構えた辰伶の姿。
「・・・・・」
「聞こえているのか!」
「・・・・・」
「名を名乗れ!!」
「・・・・・・・・・・真達羅」
「何だ、よく聞こえないぞ!」
「・・・互いを傷つけて弱った貴方たちだけならともかく、彼とも闘うのは分が悪そうですね」
真達羅と名乗った男は、ほたるとアキラに聞こえるよう言って、身を翻す。
「逃げるのか貴様!!」
辰伶が追いかけようとするが、当初の「ほたるたちを連れ帰る」という目的を思い出し踏み留まった。
二人の元へ駆け寄り、怪我の具合を確認する。
「詳しい話は戻ってから聞こう」
「何で辰伶なんかに話さなきゃいけないの?て言うか何しに来たの?」
「借りを作ったとは思わないで下さいよ。勝手にしゃしゃり出てきたのはそちらですからね」
「貴様ら・・・!それが助けてもらった者の態度か!!」
ほたるとアキラは、辰伶を完全に無視して身を起こし、再び崩れ落ちる。
ぼろぼろの二人へ肩を貸し、辰伶は屋敷へと歩を進めた
「どうしたんですか・・・っ!?」
傷だらけの二人を見て、ゆやが駆け寄る。
傷を負った彼らより辛そうな顔をするゆやに、心配をかけまいとほたるとアキラは口を開いた。
「何でもないよ」
「どこがですか!こんなに酷い怪我・・・っ」
「これくらい問題ないですよ」
「問題あります・・・!」
半ばパニックになりかけているゆやの腕を、サスケが引いた。服越しでも、僅かに彼女の体温が伝わってくる。
「とりあえず、早く中に入ろうぜ」
このままでは本当に風邪を引かせてしまう。それくらいゆやの腕は冷えていた。
「誰かに襲われた!?」
ほたるとアキラが黒衣の男に襲われていた、と言う辰伶の話を聞くなり、ゆやが驚きの声を上げる。
アキラが眉間に皺を寄せて小さく唸り、ほたるは露骨に不満そうな顔をする。しかし二人とも否定はしなかった。
本心では、その前の死合いで二人とも体力をほとんど使い切っていたので、黒衣の男に苦戦したのだと言いたかったのだが、それではゆやに死合いのことがばれてしまう。そうすればゆやは、死合いの理由を問い詰めるだろう。今ここでプレゼントのことがばれてしまっては困るのだ。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
ほたるとアキラが、重大なことに気付いて硬直した。
アキラが高速に首を巡らせほたるへ顔を向ける。
ほたるは、何も掴んでいない両手を呆然と眺める。
「ど、どうしたんですか!?」
ゆやの声に言葉を返す余裕もなく、二人は同時に屋敷を飛び出した。
プレゼントを忘れてきたあの場所へ向かって。
かなりの怪我をしていたにもかかわらず、ほたるとアキラは短時間で目的地へと辿り付いた。
ここでゆやへプレゼントを渡す役目を巡って死合いをし、謎の男に攻撃を受けたのだ。
しかし、いくら見回してもゆやに渡す着物はなかった。
もう日が暮れかけ、辺りは暗闇に包まれようとしている、もう少しで着物を探すことも困難になってしまう。
焦る気持ちを抑え込むように唇を噛み、ほたるは視線を巡らせ続けた。
盲目のアキラも、他の感覚を総動員して着物を探す。そのため、ほたるほど頭を動かしていない。
結局、着物が見つからないまま日は落ちた。
「なんでないの・・・?絶対ここにあるはずなのに」
ほたるが珍しく困った顔をして呟いた。心なしか肩も落ちている。
アキラが少し考えて、探るように尋ねた。
「まさか、あなたの炎で燃やしたのではないですよね?」
「絶対そんなことしない。アキラこそ、氷付けにして粉々にしたんじゃないよね?」
「私はそこまで間抜けではありません」
では、ゆやに渡すはずだったプレゼントは、どこへ行ったのか。
二人が必死に考えた結果、ある一つの仮説が浮かび上がった。
「もしかして、あの男が持ち去った・・・?」
アキラの言葉に、ほたるが深く頷いた。
恐らく黒衣の男がプレゼントを持ち去ったに違いない。
しかし、問題が一つある。
黒衣の男が何者なのか、ほたるもアキラも知らない。そのため、彼がどこへ行ったのか皆目検討がつかないのだ。
どうすべきか、更に頭を悩ませる二人。
「アキラって頭いいんでしょ。わかんないの?おかしいんじゃないの?」
「この状況でわかっていたら、それこそおかしいですよ。私たちが知っているのは、真達羅と言う名前だけです」
「真達羅に会ったのか!?」
「会ったも何も、こちらは着物を・・・」
苛立たしげな言葉を噤み、アキラが驚きに満ちた表情を、声のした方へ向ける。
「その話、詳しく聞かせてくれないかな」
いつの間にそこにいたのか、幸村が真剣な顔で言った。
「黒いのが俺の着物を持ってった」
ほたるがとてつもなく簡単に状況を説明する。
「いつの話だい?」
「今日の昼過ぎ辺りです。ほたるの着物ではないですけどね」
幸村の問いに、アキラが苦々しい顔で答える。幸村は地面に視線を向け、数度頷いた。あの説明だけで、それなりのことを理解したらしい。
途端、先ほどまでとの深刻な表情とはうって変わって、明るい笑顔でほたるとアキラへ向き直る幸村。
「ありがとう!ところで二人とも、そろそろ帰らなくていいのかい?」
『でも着物が』
「きっとゆやさんが心配してるだろうなぁ」
『っ・・・・』
ほたるとアキラは同時に口を開き、幸村の言葉にまた同時に押し黙る。
確かにゆやは心配しているだろう。傷だらけで辰伶に連れ帰られた時も、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。その表情を思い出し、更に動けなくなる二人。
「ね、だから一回帰った方がいいと思うよ」
幸村の言葉が最後の一押しとなって、二人は屋敷へと戻ることにした。
帰宅した二人に待っていたのは、ゆやのお説教だった。
「二人とも、どうしてもう少し大人しくしていられないんですか!?いきなり飛び出して、とっても心配したんですよ!!」
ほたるもアキラも、黙っているだけで何も言わない。それがゆやの憤りをますます煽る。
結局、お説教は一晩中続いたのだった。
ゆやの誕生日は、彼女のお説教と共に日の出を迎えた。
「二人とも、ちゃんと反省しましたか・・・!?」
声を張り上げ過ぎたゆやは、肩で息をしながら言った。
ほたるはしょぼしょぼと目を瞬かせ、こくこくと何度も頷く。アキラも精神的疲労により目元に隈を作りつつも、返事だけははっきりと答えた。
「わかってくれたならよかったです。じゃあ、私は朝ご飯の用意をしてきますね」
この言葉を待っていたとばかりに、二人は立ち上がる。彼らは、ゆやの誕生日が終わる前に、なんとしてでも着物を探し出すつもりだった。
そのつもりだったのだが。
「し、椎名ゆや!」
「はい?どうしたんですか、辰伶さん」
ゆやが部屋を出る前に、辰伶がやってきた。何故か異様に落ち着きのない辰伶に、皆不信がる。
「っう、受け取れ!」
差し出されたそれを見て、ゆやは大きく目を見開いた。
「え、い、いいんですか・・・!?」
「あ、ああ、今日は誕生日なのだろう?」
「はい・・・ありがとうございます・・・!!」
まさかこれに触れる事ができるとは、思ってもいなかった。
ゆやは震える手で、辰伶から着物を受け取る。
頬を紅潮させ、満面の笑みを浮かべるゆやを直視して、辰伶は自らの顔を隠すように俯く。
『・・・・・!!』
そんな二人を前に、衝撃を受けるほたるとアキラ。
その着物は見間違えることなく、彼らが昨日手にし、所有権を巡り争った後、紛失したものだった。
ゆやが鼻歌を歌いながら部屋を出て行った直後、ほたるとアキラは恐ろしく素早い動作で辰伶を取り押さえる。
「何で貴方がその着物を持っているんですか・・・」
「泥棒だ。コソドロだ」
突然背後から床へ捻じ伏せられ、辰伶はそこから抜け出そうともがいた。しかし、男二人相手ではかなわない。
「な、何なのだいきなり!!」
『いいから早く言え。その着物はどうした』
地の底から響くような低い声。辰伶は思わず声を上ずらせて答えた。
「ひ、拾ったのだ・・・!お前たちを助けた時に見つけ」
しかしその台詞は、最後まで言い切られることはなかった。
「ご飯ですよー!あれ、辰伶さんは?」
「どっか行った」
「用事でも思い出したのでは?」
「そうですか・・・折角辰伶さんの好きなものたくさん作ったのに・・・」
着物の礼をしようと、腕によりをかけて作ったゆやの料理は、辰伶以外の男たちに平らげられたのだった。