岸壁
「ほたるさん!」
その必死な声が聞こえても、大して危険は感じなかった。
浮遊感に包まれていた身体が、重力に引かれて落ちる。先ほどまで足が着いていた崖は、一体どのくらいの高さがあるのか見る余裕はなかった。
そんな暇もなく、ほたるは突き飛ばされたのだから。
目の前に、驚いたような、呆れたような仲間の顔が見える。ゆやはただでさえ白い顔が蒼白だ。
ほたるに強烈な攻撃を繰り出した張本人である狂だけは、前髪で隠れて表情がわからない。
どうせこの後いつもの偉そうな態度で、こんな野郎は崖に落とされて当たり前だとでも宣うのだろう。そう考えて、狂も随分変わったものだとほたるは思った。
ゆやの胸元に触れただけで、刀の先を脇腹に突き入れてきたのだから。
鞘付きとは言え、かなりの衝撃があった。食後だったら大変なことになっていただろう。いや、崖から突き落とされている今の状況も十分大変なことなのだが。
ほたるは別にやましい気持ちがあってゆやに触れた訳ではない。そんなことを考える余裕もなく、ただ虫に気付いたから手を伸ばしたのだった。
彼女に虫の存在を伝える暇も与えず、攻撃をしかけてくる狂は以前では考えられない。
これが理由で死んだら、自分は悔いを残すだろう。まあ、死ぬ気は毛頭なかったが。
刀を岸壁に突き刺して地面に叩き付けられるのを回避することくらい、ほたるには訳もない。
仲間の姿が、崖に隠れて見えなくなっていく。
意外と落ちるまでには時間がかかるのかと、そんなことを考える余裕すらあった。それだけほたるの身体能力がずば抜けているのだろう。
視界が崖で一杯になる。
この時点なら手を伸ばせば崖っぷちに捕まることも可能だ。だが、嫉妬に駆られた狂(ほたる視点)や、ふざけた仲間たちが彼を突き落とさない保証はない。そのため、ほたるはもう少し下まで落ちてから動こうと考えていた。
そう考えていたのだが。
細い指が、自分の手に触れた。
顔を見る前から、誰が自分を助けようとしたのかわかる。くすぐったい様な嬉しさと、頼りない腕が折れてしまうのではないかという心配とが入り混じって、複雑な気分になった。
仲間たちが、各々の呼び方で彼女の名を呼ぶ。
その時既にほたるは、ゆやまで落ちないよう、刀を崖に突き刺していた。見上げれば、崖の淵からゆやの必死な顔が目に入る。早く上がらなければ、自分はともかく彼女の腕を痛めてしまうと思われた。
「大丈夫ですか・・・!?」
ゆやの問いに、それはこちらの台詞だと言いそうになるのを堪える。
彼女が心配してくれることが嬉しくて、こちらが余裕だと言うことを知らせるのが少しだけためらわれた。だが、いつまでもこのままでいたら、ゆやの腕が危ない。
名残惜しくもほたるが口を開こうとした瞬間。
ぐい、と強い力でほたるの身体は引き上げられた。崖の上には、ゆやに腕を回した梵天丸がいる。回りには、先ほどのゆやに負けず劣らず青い顔をした仲間たち。
「大丈夫ですか!?」
前よりしっかりした声でゆやが尋ねる。今度は、ほたるもどう答えるか迷わなかった。
「あんたは?」
恐らく皆が抱いているであろう疑問を投げかける。ゆやは少しばかり戸惑った顔をしてから、いつもの明るい笑みを浮かべた。
「私は大丈夫です!心配してくれてありがとうございます」
安堵感と上手く説明できない嬉しさに包まれ、ほたるは意識せず口元を緩める。ゆやが再び大丈夫かと聞いてきたら、今度こそ大丈夫だと答えようと思った。