買出
「じゃあ、明日は一緒に買い出しね!」
宿の渡り廊下にて、嬉しそうなゆやが言った。目の前に立つ狂は、煙管を咥えたまま遠くの景色を見ている。
何も言わずとも、ゆやはそれが了承の返事だとわかっていた。昨日今日の付き合いではない。
「早く行きたいから、寝坊しないでよ」
「・・・さあな」
「もう!たまには早起きしてよ」
「お前が起こしにくればいいだろ」
「うぅ・・・そうなりそうでやだなぁ・・・」
何を思ったのか、自分の両腕を抱くように身を震わせるゆや。狂の唇がにやりと吊り上がる。
「何が嫌なんだ?」
一歩踏み出し、ゆやの眼前に顔を寄せる。彼が思った通りに、肩を震わせて目を見開くゆや。触れたいのを、何とか堪える。
「っ・・・そ、それは・・・」
「それは?」
わざと吐息がかかるように、肺から息を絞り出す。仄かに赤いゆやの表情が、ぎゅっとしかめられた。
「煙草臭い部屋に入るのが嫌なのっ!だから明日はちゃんと起きてよね!」
まくし立てるように言い放ち、ゆやが踵を返した。ぱたぱたと廊下を駆けて、曲がり角の先へ姿を消す。
彼女の残り香は、自身の煙草にすぐかき消された。
次の日、ゆやは狂のいる部屋の前に落ち着きなく立っていた。待ち合わせの時間はとっくに過ぎている。いつまでも狂が来ないため、痺れを切らしたゆやはここまで迎えに来たのだった。
しかし、部屋に入ることまではためらわれた。前回、別の用件で狂の寝ているところへ踏み込んだ際、危うく襲われかけたのだ。
「・・・まさか、またあんなことにはならないわよ、ね・・・」
酔っていたのか、それとも軽い冗談だったのかはわからないが、痛いほど強く抱き締められた。あの時の酒と煙草の臭いは、くらくらとするほど酷かった。組み敷かれたゆやだったが、すぐに他の仲間たちが止めに入ったお陰で、恐怖を感じる暇もなかった。
しかし、今度もそうなるとは限らない。狂は酔っていないかもしれないし、襲われないかもしれないし、襲われても助けが来ないかもしれない。
「・・・・・っ」
ゆやがこくりと喉を鳴らして息を呑む。小さく震える指が、襖の取っ手に触れて。
その手首を、背後から強く掴まれた。
「っ・・・あ、ほたるさん」
振り返ると、いつもの無愛想なほたるの顔が目に入る。一部の仲間なら、それが酷く不機嫌な様子だと言うことに気付いただろう。少々鈍い彼女には、そこまで見抜くことはできなかった。
「・・・そんなに襲われたいの?」
「え・・・っひぁ、ほ、ほたる、さんっ!?」
言うなり、ゆやの身体を抱え上げるほたる。細い目が据わっていることに、やっとゆやは気付いた。
「それなら襲ってあげる」
「す、すみませんっ、襲われたいなんてことは決してないです・・・・!」
涙目で訴えるゆやだったが、静かに怒るほたるは聞いてくれない。
ゆやを抱いたまま、ほたるがくるりと踵を返し。
ぎゃりんっ、と言う音が鳴った直後、ほたるの頭は廊下に沈み込んでいた。
「ほたるー?あんたはもう少し人の言うことを聞きなさいねー?」
「大丈夫ですか、ゆやさん!?ほたるに何もされてませんか!?」
「・・・は、はい・・・ありがとうございます、灯さん、アキラさん・・・」
気の抜けた声で礼を言うゆや。前回はほたるも他の皆と一緒に助けてくれた側だったが、立場が逆転するとは思いもしなかった。
「ゆやちゃんも、前回のことがあるんだから、一人で酔っぱらってる狂のところに行っちゃだめよ」
「そうですよ。ほたるが怒るのも無理ないです。その後のあいつの行動は極刑ものですが」
「すみません・・・」
「それで、狂の部屋に何か用だったんですか?」
「はい、買い出しを一緒にしてくれるはずだったんですけど、待ち合わせの時間になっても来てくれなくて」
「絶対、誘き出そうとしてるわね」
「・・・?」
灯の小さな一言に、首を傾げるゆや。アキラがずずいと歩み出る。
「じゃあ、私と一緒に行きましょう・・・!」
「え、でも・・・」
「待ち合わせに来ないなら、行く意思がないと言うことでしょう。それなら今日は私がお供しますよ」
「ずっるーい!灯ちゃんも行くー!」
「二人ともいいんですか?」
『もちろん!』
強く頷く二人に、ゆやも顔を綻ばせる。滅多にない狂との買い出しが潰れたのは残念だが、二人の優しさが嬉しかった。
「俺も行きたい」
いつの間にやら復活したほたるが名乗りを上げる。いつも通りの様子に、ゆやは頬を緩めて頷いた。
「はい、一緒に行きましょう!」
「ゆやちゃん・・・心が広いわね・・・」
こうして、本日も買い出しは滞りなく終わった。
次の日、何故かほたるが宿の裏庭で倒れていたり、狂がやたらと早起きでゆやが驚いたりしたのだが、ほたるも狂も真相を語ることはなかった。