海見
今日は雪が降っていた。早朝で人通りも少ないため、しんしんと言う言葉が相応しい。
ほたるは少し積もり始めた雪に高下駄を差し込みながら歩いていた。さくさくと小さな音が立っている。
寒いのはあまり得意ではなかった。炎を生みだせば温かくはなるだろうが、街中でそれをやったらどこに燃え移るかわからない。
迷惑を考えたと言うより、後でゆやに怒られることを避けるため、ほたるはひたすら我慢して歩き続ける。
早く辿り着きたい。
本当は彼女と二人で雪の降る海を見に行く約束だった。寒いのは勘弁してほしかったが、彼女がとても楽しみだと言うからついていくことにした。
そのゆやは、ただ今布団に潜って風邪と戦っている。
まだ日が昇りかけたばかりの時に、朦朧とした顔で謝罪に来たゆやを、仲間たちが布団に引きずって行った。ほたるはゆやの元にいようとしたのだが、ほたるも海を見たがっていると勘違いしたゆやに、「私の事は気にしないで、海を見てきて下さい」と言われてしまった。昨日の楽しそうなゆやの表情が思い出される。きっと、とても楽しみにしていたに違いない。楽しみにし過ぎて眠れずに風邪を引いたのだろうか。
そして、ゆやに何も言えないまま、ほたるはこうして海を目指して歩いている。
宿から海はそれほど離れていないので、少し歩けばすぐ着くはずだった。しかしそれもこの雪がなければの話だ。雪はどんどん降り積もり、ほたるの高下駄を絡め取っていく。帰りにはきっと足まで雪が触れてしまうだろう。
いつもと同じ格好で出てきたことを、ほたるは少しだけ後悔した。
やっと視界が開けて、海へ辿り着く。
はっきり言って、海に対する感情は何も抱かなかった。辺りを見回しても、ただ暗い海が広がるばかり。雪が海に溶けていく様も、何がいいのか全くわからない。
それでもほたるは、暫く留まって海を眺めた。ゆやが期待していた何かを見つけるために。
ここにゆやがいれば、何が気に入ったのか、どこが素敵なのかを聞くことができた。しかし今ここに彼女はいない。布団の中で、見れなかった景色を思い浮かべているのかもしれない。
だから代わりに自分が来た。ゆやの見たかった景色を見て、ゆやの感じたかったものを感じ取ろうとした。残念なことに、後者は実現できなかったが。
暫く海を眺めたほたるは、白い溜め息を吐いて身を翻した。結局、ゆやは何を楽しみにしていたのだろう。
宿に戻ると、看病が一段落したのか、仲間たちは別の部屋で寝ていた。
ゆやの所へ行くと、潤んだ瞳でこちらを見上げる彼女と視線が合う。
「・・・平気?」
具合を尋ねると、ゆやはうっすらと笑って頷いた。
「海、見てきた」
何と報告すればいいのか、ほたるはいまだに迷っていた。彼女をがっかりさせたくないが、自分は雪の降る海に何も感動できなかったのだ。
「すごく、寒かった」
こくりとゆやが頷く。その笑みはとても柔らかくて、ほたるの気持ちを軽くした。
「あと・・・静かだった」
何がそんなに嬉しいのか、ほたるにはまだゆやの微笑みの意味がわからない。
「・・・海に、どんどん雪が落ちて、でも、水だから溶けて、俺、水は嫌いだから、ちょっと苛々して」
苛々したのは確かだ。しかし、その理由は今言ったことだけではない。
「それに、独りだったから・・・」
ゆやの手が、ほたるの冷え切った手に触れた。視線を向けると、申し訳なさそうなゆやの顔。
「すみません・・・一緒に行けなくて」
「・・・・・」
「とっても楽しみにしてたんです。ほたるさんと、海を見に行くこと」
わからなかったことが、一つわかった。ゆやがあんなにも楽しそうにしていた理由が、自分だと知って嬉しくなる。
「ほたるさんが見てきたことを話してくれて、嬉しかったです。でも、嫌な思いをさせちゃってすみません」
「・・・いいよ」
「え?」
「今は、嬉しいから」
「・・・ほたるさん」
「俺も、話せて嬉しかった」
ゆやの瞳が潤んでいるのは、熱のせいだけではないだろう。顔を綻ばせて、何度も礼を言う。
彼女がこんなに喜んだのだから、寒い思いをしたかいがあったと、ほたるは思った。