忘年

「ねえ、狂」
名を呼ばれ、傍にきたゆやの瞳がこちらに向けられると、少しだけ息が詰まった。表情には出さなかったので、彼女も他の仲間も気付いてはいないだろう。
今度はどんな面白いことを言い出すのか。またこちらが返答に困るようなことを言いはしないか。期待と僅かな苛立ちが混ざった、自分でもよくわからない感情。
返事も視線もやらないが、ゆやは気分を害していないようだ。平然と話を続けようとする。
「狂は、今まで沢山の人と会ってきたのよね」
それがどうした、と胸中で呟く。もちろん声には出さない。
「狂って結構長生きしてるから、私よりもずっと沢山の人に会ってるわよね」
「・・・俺は老人か」
「老人扱いが嫌なら、返事くらいしてよ」
自分が返事をしないことに、実は気分を害していたらしい。そう言われて素直に返事をしてやるのも癪なので、視線だけ向けた。満面の笑みを浮かべたゆやが目に入る。
「沢山の人に会ってきた狂は、全員のこと覚えてないでしょ?年をとり過ぎて、頭もボケてきてるかもしれないし」
「・・・・・そうかもな」
「やっと返事をしたわね。投げやりだけど」
「何が言いたい。俺をボケ老人扱いして楽しみたいってぇなら覚悟しとけ。後で足腰立たなくしてやるからな」
意地悪い笑みを浮かべてゆやの腰を捕まえると、彼女はじたばたともがいた。
「ち、違うわよ!お爺ちゃん扱いしたのは悪かったけど、それは狂が無視するからじゃない」
「無視したくなるような話をするお前が悪い」
「最初は名前を呼んだだけなんだけど」
「・・・結果的に無視したくなる話だっただろ」
「結果も何も、まだ全然話してないわよ」
「・・・・・」
「狂は今まで沢山の人に会ってきたでしょ。きっとこれからも、沢山の人に会うわよね」
今度は何も言わなくても、ゆやは気にせず話をする。先ほど言葉に詰まったと思われたからだろうか。
「・・・それが何だ」
「さっきも言ったけど、狂が会ってきた人たちの中で、覚えている人もいれば、忘れちゃった人もいるでしょう?」
「いちいち覚えてられるかよ」
話をした相手、戦った相手、すれ違った相手、たまたま居合わせた相手、それらを全て記憶するなどまず不可能だ。彼女が言う「今まで会ってきた人たち」が、どこまでの範囲を指すのかわからないが。
「そうだよね・・・皆覚えてることなんて、できないよね」
「・・・それがどうした」
「私ね、狂に覚えていてもらいたいの。今、こうして皆と一緒にいること。楽しかったこと、忘れないでほしいの」
そう言って、乞うように見上げてくるゆや。くだらない、と言いそうになったが、やめて違うことを口にする。
「・・・やっぱり、無視していい話だったな」
「う・・・まあ、狂にはどうでもいいことかもしれないけど・・・」
「忘れられたくなきゃ、忘れられないようにすればいいだけの話だ」
「え・・・」
ぽかんとした表情になったゆやの鼻先を、ぐいと親指で押し上げる。油断していた彼女はだいぶ変な顔になった。
「まあ、お前みたいなおかしなチンクシャは、忘れる方が難しいだろうけどな」
「なっ、お、おかしいって、どこがよ!?」
「どこもかしこもおかしいだろうが」
よく笑い、よく泣く。しかしこちらの予想を遥かに越える強さを持つ少女。そんな彼女を、忘れろと言う方が無理だ。そんなことは、決して口には出さないが。
「何よそれ!」
「んなこと考えてる暇があったら、酒でも買ってこい。もうなくなる」
「今日はもうおしまい!さっきいっぱい飲んだでしょ!お爺ちゃんはそんなことも忘れちゃったの!?」
頬を膨らませるゆや。またしても年寄り扱いされたことは多少気になったが、追加の酒を手に入れる手段を考える方が優先なのでやめておいた。