気向

遠くでゆやが忙しなく動き回っている。随分慌てている様子だが、ここからではその理由がわからない。仲間たちはそんな彼女の周りで、わいわいと賑やかに見守っているようだ。
木に背中を預けて酒をあおりながら、狂はそんな彼らの様子を視界の端に収めていた。

「見つけた」

高下駄の音と気配は随分前から気付いていたが、近付いてきたほたるが背後から声をかけても、狂はまだ振り返らない。そもそも振り返る必要性を感じていなかった。
「死合いしよ」
「後でな」
今は気分が乗らなかった。理由は自分でもよくわからない。遠くでゆやたちが騒いでいることと関係があるような気もするが、それ以上考えるのはやめておいた。
「そう言ってこの前もしなかった」
ほたるは僅かに声を低くする。後ろなので表情は見えないが、恐らく唇を尖らせているのだろう。まるで親に遊ぶ約束を破られた子供のようだ。
「だから今すぐ死合いしよ」
「断る」
「わかったから死合いしよ」
「何がわかっただ。しねえっつってんだろ」
「わかった。じゃあ椎名ゆやとやる」
「・・・・・」
唐突に出てきた名に、思わず背後へ視線を向ける狂。ほたるはいつもの無表情だったが、僅かに口の端を上げているような気もした。何を喜んでいるのだろうか。
「椎名ゆやとやってくる」
「・・・何をだよ」
「死合い、とか」
「・・・・・何の意味がある」
付け足された「とか」にはあえて触れない。触れない方がいい気がした。
「狂が椎名ゆやを気にしてるから。俺が椎名ゆやとやったら、死合いする気にな」
ほたるの言葉が終わる前に、狂は拳を振り切っていた。しかしその拳は空を切り、後ろへ跳んだほたるへ届くことはない。
「やっと死合いする気になったね」
ほたるが嬉しそうに目を細める。ゆやと死合いをすると言い出したのは、狂を本気にさせるためだったのだろう。多少紛らわしい言い方も、そのためだったのだと思われる。彼の思惑にまんまとひっかかった自分が腹立たしい。しかし、ここから引き下がるつもりはなかった。
己の獲物を構える両者。辺りの空気が張り詰める。
そして先に動いたのは。

「狂!あんたが犯人だったのね!!」

背後から伸ばされた手に、身体を絡め取られるようにして引き倒される狂。背中を地面に打ち付けた直後に見えたのは、青い空と金糸の髪。そして燃え上がるような強い意志に満ちたゆやの瞳だった。
狂やほたるが口を開く前に、ゆやの手が彼の懐に差し込まれる。
「あった・・・!!」
震える声で言う彼女の手には、昨日より幾分軽くなった財布があった。そこから消えた銭は、先ほどまで狂が口にしていた酒になっている。
「なくしたんじゃないかって、すっごく慌てたんだから!!狂の馬鹿!!」
言い捨てて仲間たちの元へ駆けていくゆや。財布が見つかったことを報告に行ったのだろうか。
身を起こした狂に、ほたるが歩み寄る。
「椎名ゆやの方が、狂より強いの?」
「・・・そんな訳あるか」
「だって、後ろを取られて心臓に手が届いてた」
もしゆやが短刀を手にしていたら、狂の命はなかっただろう。
「それともわかってて、触れさせたの?」
「・・・・・」
何も言わない狂。ほたるは暫く考えるような素振りをして、ぽんと己の手を叩いた。

「そっか。狂は椎名ゆやに構ってほしかっ」

その言葉が終わる前に、再び狂の拳が唸りを上げる。今度は高々と宙を舞うほたるだった。