悩事
ゆやは暫く前から悩んでいることがある。その内容は、今彼女の目の前で徳利に口をつけている彼、狂のことであった。
最近、彼の飲む酒の量が増えている気がしてならないのだ。手強い敵と戦い続けるのは、彼女が思う以上に精神的負担の大きいことなのだろう。それが狂のような傲岸不遜な男であってもだ。もしかしたらゆやが知らないだけで、実は繊細な男なのかもしれない。まさかとは思うが。
そのような状況なのだから、戦いの合間の時くらいは、自由に酒を飲み、気晴らしをしてほしいと思う。だがそれにも限度と言うものがある。
「おい、酒が足りねえぞ」
空になった徳利を放り投げて狂が言う。その徳利は宙を舞い、先に酔い潰れていたほたるの頭に直撃した。重く痛そうな音が立つものの、彼が起きる気配はない。
ほたるも先ほどの戦いでは随分な傷を負っていた。灯のお陰で今はもう命に別状はない。それでもまだ疲労は残っているのだろう。他の仲間たちも横たわって深い寝息を立てている。
「・・・もう、いいでしょ」
ゆやは叱りつけたい感情を抑え、絞り出すように言う。狂の片眉がぴくりと動いた。苛立っているのだろうか。
「下僕の分際で、随分な口の利き方だな」
「今日はこれくらいにして、寝た方がいいんじゃない」
「いつ寝ようが俺の勝手だろ。いいから酒だ」
「・・・嫌よ」
「ああ?反抗までしやがるか。これは下僕としての振る舞い方を教えてやらねえとなぁ」
ゆらりと身を乗り出し、ゆやの元へ身を寄せる狂。酒臭い息がかかり、ゆやは顔をしかめる。
「もう十分飲んだじゃないっ・・・」
逃げようと立ち上がりかけたゆやだったが、簡単に組み伏せられてしまった。もがいても腕一本動かせない。
「十分かは俺が決めることだ。お前には関係ねえ」
狂の言葉に、ゆやはたまらず叫ぶ。
「関係なくなんてない!」
大きな声に、狂は驚いた・・・のではないかとゆやは思った。彼の顔はよく見えなかった。溢れてきた涙で、視界は酷く歪んでいたから。
「いつも傷だらけで戦って疲れてるのに、お酒までいっぱい飲んで・・・もし・・・もしも、狂の身体が壊れたらって、心配なの!」
思っていたことを吐き出すように叫んだ。狂の酒臭い息が僅かに止まる。が、すぐにまた吹きかかってきた。その勢いは先ほどより強い。
「・・・・・下僕は黙ってご主人様の言うことを聞いてりゃいいんだよ」
少し柔らかくなった口調に、ゆやは何と返せばいいのか迷う。その間に狂が続けて口を開いた。
「文句ばっかりのその口が、聞けねえようにしてやろうか」
その言葉が、具体的にどのような行為を示すのか、ゆやにはわからなかった。殺されることはないと思うが、たとえそうなっても彼女は彼に酒を持ってくるつもりはなかった。
狂の酒臭い息がますます近くなる。彼が顔を近付けているからだろうか。喉元を食い破られる覚悟をゆやが決めたその時。
「何酔った振りして襲ってんの?」
狂の背後から、むんずと彼の黒髪を鷲掴みにしたほたるが、若干不機嫌そうに言う。
狂がこう簡単に背後を取られるとは。やはり彼も疲れているのではないだろうか。予想外の状況に、ゆやは唖然となる。
「何かすごい頭が痛いんだけど。ムカつくから死合いしよ」
「・・・どう言う理屈だよ。ムカつくはこっちの台詞だ」
「ち、ちょっと二人とも」
ゆやが止めに入ろうとするが、早くも殺気を放ち始めた二人は聞く耳を持たない。狂はあっさりとゆやを解放すると、ほたると死合うべく己の獲物を手に立ち上がった。
珍しく狂が先に地を蹴って仕掛ける。ほたるが寝起きの割には素早い動きでその攻撃をかわした。これは決着がつくまで暫くかかりそうだ。
濡れた目元と頬を拭い、ゆやは身を起こす。
とりあえず狂が酒を飲むのを止めてくれてよかった。ほたるが来てくれなかったらどうなっていたことか。そして、死合いが終わった後、狂がすぐ寝てくれることを祈るゆやだった。