寝静

レイヴンの額には、びっしりと大粒の汗が浮いていた。袖で思い切り拭いたかったが、少しでも動けばこの汗が滴り落ちてしまうかもしれない。それはどうしても避けたかった。
動揺のために乱れる呼吸を無理やり静める。気のせいかもしれないが、心臓代わりの魔導器がごうごうと荒れた音を発しているような気がした。もしこれで寿命が縮むとしても大したことではないが、別の理由で彼は大いに心配だった。
眼球を動かすことすらためらいつつ、レイヴンはそろそろと視線を下に向ける。

胡坐をかく彼の右膝の上には、静かな寝息を立てるエステルの頭が乗っていた。

何故こんな状況になったのか、レイヴンには全く理解できていない。野原で休憩することになったので、手近な木陰で昼寝をしていただけだ。そして膝への重みに目を覚ますと、そこにはエステルがいた。
近付くエステルの気配に気付かなかったのは、失態以外の何物でもない。戦争から時が経ち過ぎて、辺りを警戒する感覚が鈍ってしまったのだろうか。それとも昨日の戦闘で負った傷が、思った以上に体力を消耗させていたのか。エステルの術で見た目は綺麗に治ったが、夜はきちんと休めと言われたことを今更思い出す。生憎昨夜は、シュヴァーンとしての仕事があったためろくに寝ていなかった。これだけ経験を積んでもまだ未熟な自分に溜め息を吐きたくなるのを、彼女の寝顔を見て直前で堪える。
膝へのしかかった時の衝撃を気にもせず寝ている様子からすると、エステルもだいぶ疲れているのだろう。できればこのまま気が済むまで寝かせてやりたかったが、彼女が小さく身じろぎをする度に心乱される自分がいるのであまり自信はなかった。
「ん・・・」
小さく声を漏らし、エステルがふわりとした笑みを浮かべた。楽しい夢でも見ているのだろうか。自分の傍だと言うのに、これほど安心しきった様子でいてくれることが申し訳なくも嬉しい。
彼女の眠りを邪魔しないようにと言い聞かせていたつもりが、つい桃色の頭に手を伸ばしてしまった。柔らかい髪が彼の手をふわふわと押し返す。触れていることを覚られないよう、できる限りそっと手を滑らせる。もっと触れたいと思うと同時に罪悪感にも似た感情が湧き起こり、レイヴンは息を呑んで手を離した。
このままでは、その内おかしくなりそうだ。今度は耐え切れず、か細い溜め息を吐くレイヴンだった。

「あれ、エステル寝ちゃってるの?」

声をかけながらカロルが近寄ってきた。何故かやたらと憔悴しているレイヴンに、カロルは少々たじろぐ。
「ど、どしたのレイヴン?何だかますます老けてるよ」
「それって元から老け顔だって遠回しに言ってる・・・?そんな少年でも、来てくれておっさん嬉しいわ」
「レイヴンに喜ばれると気持ち悪いなぁ」
「せめて気味が悪いにしてくんない?」
「考えとく。そろそろ出発だってユーリが言ってるよ」
「そう、じゃあ嬢ちゃんを起こさないと。頼むわ少年」
「へ?」
突然振られて、カロルは大きく目を瞬かせた。
「レイヴンが起こせばいいじゃん」
「おっさんはそう言うの苦手だから」
「どうして?昔、起こそうとしてパンチでもされたの?」
「あー、まあ、そんなとこ」
「その言い方は嘘でしょ」
「いやいや、本当よ」
「適当に話を合わせただけに決まってるよ。本当は起こそうとしたら鼻の穴に指を突っ込まれて鼻血が出たんでしょ」
「いや、それはちょっと話を合わせる気にもならないわ」
「じゃあ本当はどうなのさ?」
どう答えたものかとレイヴンは頭を悩ませる。自分でエステルを起こせばいいだけの話なのだが、これ以上彼女に触れるのは気が引けた。そしてその気持ちをカロルに話すことも避けたかった。
「本当は・・・昔、寝ている人を起こしちゃいけませんって親に言われたのよね」
「絶対嘘だ!」
「いやいや、これ本当」
「そんな教育方針聞いたことないよ!」
「おっさんの故郷ではそれが普通だったのよ」
「そんな故郷ありえないよ!」
そんな調子で騒いでいると、レイヴンの目論見通り膝の上でもぞもぞと動きがあった。
「・・・ん・・・故郷が、どうしたんです・・・?」
のろのろと身を起こすエステル。まだ眠そうに眼を擦っている。
「あ、起きた。エステル、どうしてレイヴンの膝枕なんかで寝てたの?気持ち悪くなかった?」
「え?えっと、寝てるレイヴンの隣りに座ってたら、私も眠くなってきて・・・そのまま倒れたんだと思います。すみません、重かったです?」
「あ、いや、全然大丈夫よ。今の少年の重い一言に比べたらどうってことないから」
「エステル、何でレイヴンの隣りになんて座ったの?変な臭いとかついてない?」
「えっ、ええと、レイヴンと話をしようと思ったら寝ていたので、起きるまで待とうかと・・・その、臭いはついてないです・・・よね?」
「・・・少年。もしかして、この前の裏切り行為をまだ許してくれてない?」
「もちろん許してるよ」
レイヴンの小さく呟かれた疑問は、カロルに真顔で返された。