焦弊
後方から視線を感じ、レイヴンは本日何度目かの息を呑んだ。視界の端には、桃色の髪が微かに映っている。
何故かわからないが、朝からずっとこうなのだ。始めは話しかけられるのかと思ったのだが、エステルは何も言わず身を翻していってしまった。その後も話しかけたいような素振りを何度も見せているが、実際に話しかけてはこない。こちらから何用か聞こうかとも思ったのだが、エステルがやたらと深刻な顔をしているのを見てしまい、開きかけた口を閉じてしまった。そして昼を過ぎてもこの状態は続いている。
「おい、おっさん」
歩み寄ってきたユーリの声によって、張りつめていた空気が解かれた。レイヴンの背後から、走り去るエステルの足音が聞こえる。まだ、このもどかしい時間は続くらしい。
「・・・何よ」
「これから買い出しに行くから、何か必要なもんはあるか聞きにきた。つーか、面白いくらいやつれた顔してるな」
「・・・青年は事情を知ってるんじゃないでしょうね?」
「何の話だよ」
「嬢ちゃんが、朝からやたらと俺様のこと見てんのよ。なのに、何も言ってこなくて」
「ふーん。告白でもされるんじゃねえの?」
「・・・・・青年は何も聞いてないの?」
思わぬ言葉に、軽く声を詰まらせるレイヴン。ユーリは肩をすくめてその場を立ち去る。彼の投げやりな推測が影響したのか、その後ますますやつれるレイヴンだった。
そして夜になり、いつもより冷えた空気が宿の中を満たしている。空には厚い雲が立ち込め、もしかしたら雪が降るかもしれないと夕食時にジュディスが言っていた。
のろのろとした足取りで部屋へ向かうレイヴン。今日はやけに疲れた。結局、エステルは共にいても会話をすることはなかった。もの言いたげな視線を寄越しつつも、こちらが顔を向けると慌てたようにそらされるのだ。ある程度予測していたこととは言え、少々辛いものがあった。
とりあえず何もかも忘れて寝よう。レイヴンが重い身体を引きずるようにして、宿の一室へ向かっていたその時。
「っ・・・あ、あのっ」
消耗し過ぎていたからか、声をかけられるまでエステルの気配に全く気付いていなかった。肩を大きく跳ね上げ、そろそろと振り返る。
彼の目の前には、思いつめたような顔をしたエステルの姿。彼女との距離は思ったより近くて、少しほっとした。近寄りたくないほど嫌われてはいないらしい。
「ど、どうしたの・・・?」
呼びかけただけで何も言わないエステルに、しびれを切らして声をかける。ぴくりと身を震わせたエステルは、少し潤んだ瞳でこちらを見上げてきた。昼間のユーリの言葉が何故か思い出される。
「あ、あの・・・突然こんなことを言われたら、嫌かもしれないんですけど・・・」
「え・・・い、嫌だなんて、そんなことない、わよ・・・」
「そ、そうなんです・・・?」
「もちろんよ。嬢ちゃんに言われて嫌なことなんてある訳ないじゃない」
気遣いだと思われたかもしれないが、エステルはほっとしたように肩の力を抜いた。いつもの笑みが少し戻り、レイヴンも安堵する。
「ありがとうございます・・・そう言ってもらえて嬉しいです」
「いやいや、お礼を言われるようなことは言ってないから」
「でも、嬉しかったから・・・じゃ、じゃあ、言わせて下さいっ」
「っど、どうぞ・・・!」
身構えてごくりと喉を鳴らすレイヴン。そしてエステルが、再度口を開く。
「れ、レイヴンは、毎晩裸で寝てるって聞きました!今夜はとっても寒くなるそうなので、よかったら服を着て寝て下さいっ・・・!!」
彼女の言葉を理解するのに、暫し時を要するレイヴン。真っ赤になった彼女が、その間に逃げ出さないでくれてよかったと思った。
「・・・・・えー・・・と・・・そんな話・・・誰から聞いたのかしら・・・?」
「え、ユーリです」
やっぱり色々知ってたんじゃないかと、彼は心の中でユーリに吠えた。むしろお前の嘘が発端かと文句を言いたかったが、散々嘘を吐いてきた自分がそれを言えた義理ではない。ユーリにとって、普段の自分への仕返しのつもりだろうか。
そして彼はどうしたものかとまた迷う。ユーリの嘘だと言うべきか、それとも。
「え、えーと・・・はい。ちゃんと温かくして寝ます・・・」
エステルが、ぱっと表情を明るくした。
「あ、ありがとうございます・・・!どんな格好で寝るかは、個人の自由だと思ったんですけど、最近どんどん寒くなるし、風邪をひいたら大変だと思って・・・余計な心配だったらすみません」
「余計でもないし、嫌でもないから大丈夫よ。心配してくれてありがとね」
「いえっ、こちらこそ、聞いてくれてありがとうございました!」
いつもの笑顔で頭を下げ、お休みなさいと言って身を翻すエステル。その背中を見送ってから、レイヴンも歩き出す。
色々あったが、とりあえず今夜はぐっすり眠れそうだ。