読書
柔らかい光が降り注ぐ爽やかな朝、のはずなのだが、エステルは呆けたような顔でベッドに座り込んでいた。力の抜けた両手は、彼女の膝の上にある本に添えられている。
この本と出会ったのは偶然だった。一行が街の貸本屋の前を通りかかった時に、リタが声を上げて立ち止まったのである。ずっと読みたかった学術書が店先にぽんと置いてあったらしい。鼻息荒く問答無用でそれを掴み店内へと入っていったリタを見送る一行。そして彼らはこの街の宿に一泊することを決めたのだった。
それならば、と本好きのエステルがふと手に取った本がそれである。数ページ読んだだけでもう夢中になってしまい、気付けばリタと共に本を借りて宿屋へ直行していた。食事中は何とか我慢したものの(リタは食べながらも本を手放さなかった)、早々に部屋へと引きこもって今に至たる。
本のために何日も皆を足止めはできない。本の貸出期限もある。と心中で言い訳をしながらベッドに座ったまま読みふけること一晩、結構なページ数はあるその本を、朝日が昇り始めた頃に読み終えたのだった。
エステルの隣りのベッドでは、分厚い学術書を睨むようにして読み続けるリタがいる。後4分の1ほど未読が残っているように見えた。一晩でそれだけの量を読みこなすとは、さすがの集中力である。
反対側のベッドでは、ジュディスが静かな寝息を立てていた。本のページをめくる音が、彼女の眠りを妨げていなかったことに今更ホッとする。
本当ならこのまま朝食の時間まで寝るのが最善なのだが、気持ちが高ぶって全く眠れる気がしなかった。できるだけ音を立てないよう、そろそろと部屋を出る。ベッドの上に留まっていると、また本を読み直してしまいそうな気がした。本から離れれば、気持ちも落ち着くかもしれない。
廊下は窓が小さく、部屋と比べてかなり薄暗かった。そのため階段を上ってくる人物に気付いたのは、エステルが歩き始めてからのことである。その人影は、顔を合わせると意外そうな表情を浮かべた。
「あれ、随分早起きじゃな・・・いか。寝てないわね、その顔は」
「はい・・・おはようございます。レイヴン」
「寝不足はお肌によくないわよ。暫くはまだ街から出ないと思うけど、戦闘がないとも限らないし」
「あ・・・そうですね。すみません」
「ま、散々夜遊びしてきた人間の言える台詞じゃないけどね」
そう言われて、やっとレイヴンが階段を上ってきた理由を知ったエステルだった。ちょっとトイレに、と言う訳ではなかったらしい。
「一人で外に行ってたんです?」
「青年もジュディスちゃんも、健全だからね。カロル少年は論外」
「私も健全じゃないです・・・」
「いやいや、読書で徹夜なんてまだまだ健全よ」
レイヴンは笑って言うが、エステルは健全の基準がわからず首を傾げた。
「徹夜は不健全じゃないんです?」
「ぜーんぜん」
「じゃあ、レイヴンは何をしてたんです?」
薄暗がりのためよく見えないが、レイヴンの視線が少しだけさ迷ったような気がした。しかしすぐにいつものへらりとした笑みが目に入る。
「あー、俺様は愛しの女の子たちと、不健全な時間を過ごしてました、よっ・・・?」
エステルは思わず、彼の腕を掴んでしまった。驚くレイヴンが口を開く前に、畳み掛けるように尋ねる。
「この街にっ、レイヴンの愛しい人がいるんです!?」
「へっ?あ、えーと、まあ、その娘たちとはもう終わったと言うか、二度と会わないと思うけっ、ど・・・!?」
レイヴンの腕を掴む手に力が入る。鼻が触れそうなほど顔を寄せる。興奮しているのは徹夜をしたせいだろうか。それともあの本を読んだからだろうか。
「諦めちゃだめですっ・・・!!」
レイヴンが更に目を見開いた。エステルの目から涙が零れる。
「愛しい人と簡単に別れるなんて、言わないで下さい・・・!もっと頑張れば、考えれば、何か方法があるはずですっ」
「・・・・・」
「私も頑張って考えますから、だからっ」
「・・・・・」
「諦めないで下さい・・・!」
レイヴンの指が、エステルの濡れた頬にそっと触れた。その指は随分と冷たい。愛しい人とは、ずっと外にいたのだろうか。手を繋いだり、寄り添ったりはできなかったのだろうか。最期まで触れあうことのなかった、あの本の二人のように。悲しい結末を思い出して、涙は更に溢れる。レイヴンにはそんな辛い思いをしてほしくない。
「・・・諦めなくて、いいの?」
いつもの彼とは違う、静かでも力を感じさせる声。エステルは何度も頷いた。俯いてしゃくり上げる。
細く、長い溜め息がレイヴンの口から零れる。ぽんぽんと、背中を優しく叩かれた。もういい加減泣き止めと言われているのだろうか。
目元を拭い、鼻をすすって顔を上げると、少し困ったように笑うレイヴンの顔があった。
「じゃあ、もうちょっと頑張りましょーかね」
「・・・は、はいっ、応援します!えっと・・・よかったらレイヴンが好きな人のことを教えてほしいんですけど・・・この街の方なんです?」
「いや、全然違うわね」
「・・・え?でも、会ってたって」
「それは酒場で女の子たちと飲んでたって話で、好きな子とは関係ないわよ」
「え、じゃあ、どこかの国のお姫様です!?」
思わず尋ねたら、何故か大きく仰け反られた。あの本もヒロインは姫だったのだ。レイヴンのこの反応は肯定なのだろうか、エステルには判断が付かない。
「・・・っな、何でいきなりそんな話になるの・・・?」
聞かれてエステルは先ほど読み終えた本の話をした。ストーリーを思い返して説明している内に、また少し興奮して、それ以上に悲しくなる。
「あー、それでさっきはあんなに必死だったのね。」
「レイヴンには、幸せになってほしいです。お姫様と結ばれるのは大変だと思いますけど、別れた後に差し違えなくちゃならないなんて、悲し過ぎますっ・・・」
「いや、だから何でそうなるのよ」
「え・・・あ、そうですね。物語じゃないんですから、差し違えることになんてまずなりませんよね」
「そもそも、相手がお姫様だなんて言ってないけど」
「え?じゃあどんな方なんです?」
尋ねると、レイヴンは随分と複雑そうな顔をした。が、くるりと背を向けられてすぐにそれは見えなくなる。
「内緒」
「え?」
「もうちょっと見込みがありそうだったら、いつか教えてあげるかも」
何に対する見込みなのだろうか。彼が好きな女性と結ばれる見込みだろうか。それともエステルが彼の力になれるかどうかの見込みだろうか。確かに恋愛経験のない彼女が、レイヴンの恋を応援するだけの力があるかどうかは大いに疑問である。
「そうですか・・・えっと、見込みがありそうだったら、いつか教えて下さい」
「ま、気が向いたらね」
「はい!レイヴンの力になれるように頑張りますね!」
「また何か勘違いしてない?」
呆れた声で、笑いながら言うレイヴンに、何を勘違いしているのか聞いてみたが、それも教えてはくれなかった。
暫くベッドの上で横になった後、朝食の時間になったので重い身体を引きずるようにして宿の食堂へ向かう。エステルの頭は霧がかかったかのような状態だった。そこにはすでに皆の姿がある。力なく挨拶をすると、それぞれ返事が返された。リタはまだ本から顔を離さず手だけを上げている。
そこでふと、レイヴンの姿がないことに気付いた。この眠気でそれに気付けたのは奇跡と言ってもいいかもしれない。
「・・・レイヴンは・・・どうしたんです・・・?」
「おっさんならまだ寝てるぜ。夜中にどっか出掛けて、明け方に随分疲れた感じで戻ってきてたな」
「・・・・・明け方に会ったら・・・女の子と飲んできたって・・・」
「そうか?香水も酒も、匂わなかったけどな・・・エステル?飯はいいのか?」
「・・・・・」
うつらうつらと舟をこぐ彼女に、ユーリの声は届かなかった。