温泉

「ど、どしたの・・・?」

今日の宿は温泉街にあり、ほんのりと硫黄の香りが建物内に漂っているようなところだった。レイヴンは男性陣の宿泊部屋であるはずのドアを開け、足を踏み入れかけた状態で尋ねる。声をかけた先には、神妙な面持ちで佇むエステルの姿があった。じっとこちらを見てくるその表情は、少し強張っており何か思いつめた様子を感じさせた。
一瞬、部屋を間違えたのかとも思ったが違うようだ。エステルに近いベッドのそばには、自分の荷物が置いてある。その奥のベッドは毛布が乱れており、夕餉前にカロルがそこへダイブした痕跡を残していた。つまり自分はうっかり女性陣の部屋に入った訳ではない。
その部屋にはエステルしかいないようだった。他の仲間たちがどこかに隠れているのかとも思い、気配を探るが見当たらない。ユーリやジュディス、ラピードはともかく、カロルやリタの気配に気付けないはずはない。そう言えば皆、まずは温泉だとはしゃいでいたような。自分は別の仕事があったため、ジュディスに「一緒に入ろっか」と軽口を投げて冷たくあしらわれてから外出したのである。その仕事を終え、こっそりと部屋に戻ろうとしたらエステルが待ち構えていたのだ。
「え、えーと・・・部屋を交換したくなった?じゃあおっさんはあっちの部屋に」
「違います」
そそくさと荷物をひっつかんで出ていこうとしたが、はっきりとした、そして普段より低めの声で止められてしまい、また動けなくなる。

そして、暫しの沈黙。

何か言わなくてはと思うのだが、言葉が見つからない。いつもの軽い口が、今は鉛のように重く感じられた。口を開いた後、エステルがどう動くのか、全く予想がつかなくて・・・怖いのだろうか。だから動けないのだろうか。
彼女を怖いと思う日がこようとは、共に旅をするようになったばかりの頃は欠片も予想していなかった。いや、彼女が怖いのではなく、彼女との関係が変わることが怖いのだ。離れることも、近づくことも。今が心地よいからこそ、失われることを恐れている。

「・・・・・お話が、あります」

エステルが重そうに口を開いた。彼女も恐れているのだろうか。自分との関係を変えなくてはならないことを。だからあんなにも辛そうな顔をして、握っている拳が震えているのだろうか。
一つ、深く大きな溜め息を零し、ぎゅっと両目を瞑るエステル。それは、意を決するための儀式だったのかもしれない。自分たちの関係を崩すことを決意した彼女が、大きな瞳を開いてこちらを見やる。

「じ、嬢ちゃ・・・」
「レイヴン」
「っ・・・はい」

皇族の威厳にあてられたのか、騎士団故の意識がそうさせたのか、無理やり絞り出した呼びかけは喉の奥へとなりを潜めた。もう、受け入れるしかない。何を言われようと、どう変わってしまおうと。受け入れるしか、ないのだ。自分には。こんな自分には。他のやり方が思いつかない。
エステルが、今にも泣きそうな顔で先を続けた。

「レイヴンが・・・女性風呂から下着を盗んだって本当です?」

「受け入れられるかぁああぁあああ!!」
レイヴンの魂の叫びが、旅館に響き渡る。勢いよくエステルに詰め寄り、溢れる疑問をぶつけた。
「ちょっと待て。どんなことも受け入れるとかさっき言っちゃった気がするけどちょっと待って。何それ?何なのそれ?」
「え?そんなこと言ってました?」
「食いつくとこ違うわよ!何がどーしておっさんが下着ドロになってんの!?」
「えっと、さっきお風呂に入ろうとしたら、下着がないってみなさん困ってて、ジュディスも盗まれてしまったみたいで、動けないから私が代わりに」
「代わりに、ってそれでどーしてここに来るの!?」
「え?ジュディスが『まずレイヴンを締め上げてきてね』って」
「ジュディスちゃんのおっさんへの信頼度ゼロ!わかってたけど!」
出かける前の軽口がこんなところに影響するとは。仕事で出ていた自分にはアリバイもない。
「レイヴンが男性風呂にいなかったので、寝てるのかと思って部屋に来てみたんですけどいなくて・・・やっぱり盗んだんです?」
「やっぱりとか言われちゃってる!違うって言いたいけどちょっと待て!その前に『男性風呂にいなかった』ってどーゆうこと!?嬢ちゃん、男風呂に乗り込んだの!?」
皇族が何してんのよ!とエステルの両肩をつかみ叱りつけるレイヴン。その扱いも皇族相手としては問題ありだがそれどころではない。
「あ、あの、入ってないです。たまたまユーリが忘れ物を取りに行って、男性風呂の前で会えたので、レイヴンがいないか見てきてもらいました」
「そ、そうか・・・マジでよかった・・・」
疲れた様子で溜め息を吐くレイヴンを見て、今度はエステルが慌てる。
「大丈夫です?『下着を返してくれれば、まだ煌華月衝閃ですませてあげる』とジュディスが」
「秘奥義繰り出しちゃってるじゃないそれ!いや、覇王籠月槍じゃないだけマシなのか!?」
「どっちもかなり痛そうです」
「い、痛いで済むのかしら・・・」
「治療はがんばります」
「ありがと・・・って、待ってちょーだい。そもそもおっさん、下着ドロじゃないから」
「え?そうなんです?」
「当たり前でしょーが。いくら胡散臭くても、下着ドロって決めつけないでほしいわね」
「じゃあ誰が」

そうエステルが呟きかけた時、宿が震えるほどの衝撃が二人を襲う。

『・・・っ!?』
慌てて身構えるが、それ以降の轟音は起きなかった。音のした方向的には、確か女性風呂があったような。
「ジュディスたちを見てきますね!」
エステルも同じことを思ったのだろうか、言うなり慌てて走り出す。
自分は追いかけるべきだろうか?そうしたら見てはいけないものを見て、やっぱり秘奥義を繰り出されるような気もする。しかし相手が強かったら、エステルたちだけで大丈夫だろうか?
「っ・・・・・やらない後悔より、やって後悔!」
独り言ちて駆け出すレイヴン。数分後に彼が見たのは、ぼろ雑巾のようになった下着ドロの姿だった。武器を手にしたジュディスたちは、浴衣を着てくれていたことをついでに記しておく。