風邪
雨の音がさらさらと流れる中、レイヴンは宿へ小走りに駆け込んだ。仕事中に降り出した雨は、強くなることはなかったが、それでもかなり髪や服が濡れてしまっている。
「レイヴンっ!?」
小さな声に階段上を見やると、エステルが身をひるがえすところが目に入った。呼びかけられた訳ではなかったらしい。たぶん、逃げられた訳でもないはずである。「水も滴るいい男」と軽口でなら平気で言えるが、本心では全く思っていないので、ぬれねずみの自分を見て「おっさんくさそう!キモっ!」と思って逃げ出してもおかしくない・・・いや、リタならともかく、エステルがそんなことを思うのだろうか?本当の彼女を自分が知らないだけで、いつも「おっさんに近付かれるのキモイわー」とか思われているのだろうか。それはちょっと、いやかなりショックである。他の女性ならそう言う話題もへらへらと流せてあまり気にならないのだが、エステルが相手だと女々しくなる自分がもどかしい。
「レイヴン!大丈夫です!?」
宿の扉の前で溜め息を吐いていたところに、エステルが駆け寄ってきた。その手にはタオルやら手ぬぐいやら謎の布やらが抱えられている。
どうやら濡れている自分を見つけて、拭くものを取りに行ってくれたのだろう。途端に安堵やら歓喜やらで己の胸中が騒がしくなった。少なくとも近付くのが嫌だとは思われていないはずだ。
「あー、ちょっと濡れただけだから、大丈夫よ。ありがと」
タオルを受け取り顔を拭うと、気持ちも顔もさっぱりした。エステルはホッとしたような笑みを浮かべて、レイヴンの頭に手ぬぐいを被せる。少し背伸びをしながら頭を拭われて、早速焦った。皇女に何をさせているのだ。
「ああ、あとは自分でやれるから大丈夫よ」
「でも早く拭かないと風邪を」
「いやいやいや、子供じゃないんだかっ、ぶしぇっくしょぉい!」
―――――俺、詰んだ。
エステルがやけにキラキラした笑顔で硬直している。このキラキラは絶対お姫様効果ではない。自分がぶっかけた体液に違いない。
皇女の前で思いっきりくしゃみした。めっちゃ涎かけちゃった。てへぺろ。
目の前が真っ白になりかけたが、ここで気絶したら騎士としてさらに終わってしまう。ここは土下座で許してもらうしかない。
斬首覚悟で土下座しようとしたレイヴンの頭を、エステルが真顔で鷲掴みにしてきた。
「ほら!やっぱり風邪ひいてるじゃないですか!」
そのままわしわしと力強く髪を拭かれる。反論の余地は全くなかった。この程度で風邪をひくなんて情けない。と思った途端にまた小さなくしゃみが出る。
「服も着替えた方がいいです」
「ひぃ!わかったから脱がさないで!」
「服を脱いでこの布にくるまってた方があったかいです」
「だからってこんなとこで!公衆の面前はさすがに恥ずかしい!」
「レイヴンにも羞恥の心があったんですね」
「俺様を何だと思ってんっ、へぎっぷしぇえい!」
本日二度目。またしても詰んだ、騎士団隊長主席の俺。
エステルがにっこりとキラキラ笑顔で口を開く。実は怒ってるんじゃないだろうか?そもそもおっさんに涎をひっかけられて、怒らない女性がこの世にいるのだろうか?
「早く脱ぎましょうね」
「は、はひぃ・・・っぷし!」
エステルに服を剥がれつつ階段を上がりながら、部屋に飛び込むとそこには半裸のユーリとカロルもいた。
「あれ、レイヴンも外にいた、っくしゅん!」
「おいエステル、この布どっから持ってきた?ホコリがヤバくて、さっきからくしゃみがひどいんだが」
ユーリが手にした布は、今レイヴンが身にまとっているものとよく似ている。
「宿のご主人さんが貸してくれました。押入れから持ってきてくれたので、ホコリがついててもおかしくないかも、っぷし」
「まず換気だな」
苦笑して窓を開けるユーリ。ひんやりと湿った風が部屋に流れてくる。これで本当に風邪をひかないことを願うレイヴンだった。